第18話
琴子さんは今にも泣き崩れそう声をハンカチで必死に抑えているようだった。
母さんはそんな琴子さんの背中をさすり、共に涙を流している。
本来ならそんな琴子さんに一声掛けるべきなのかもしれないが、声が出なかった。
想像していたよりもずっと、悲しすぎて。
何よりあの無邪気な美月ちゃんに、そんな側面があったというのが
信じられなかった。しかし、これだけ必死に話している琴子さんが嘘をついているとは思えない。美月ちゃんが情緒不安定になっているのも、このことが原因なのだと
言われれば納得もできる。
ひとしきり泣いていた琴子さんが少し落ち着きを取り戻したのか、再び話し
始める。
「ごめんなさいね。取り乱してしまって。自分のことならいざ知らず美月のことになると、どうしても冷静でいられなくて。あの子は私のためにずっと一人で
たった一人で耐えていたんです。次第に美月の笑顔がなくなり、私の側を離れないようになりました。私は美月が甘えているのだと思っていましたが、本当はあの子は私を守ろうとしていたんですね。情けないことに私はそのことに全く気が付かず、
幼稚園に行きたがらなくなった美月のことをお隣の雅子さん、貴方のお母様に相談したりしていました。辛い毎日を送る美月から笑顔が消えていましたが、佑樹さん、
貴方に対してだけは違っていたんです」
そこで言葉を一旦止めると、琴子さんは俺の目をまっすぐ見つめた。
俺に一番伝えたいことなのだろう。
「お隣の優しいお兄さん、佑樹さんだけには私にも見せないような無邪気な笑顔を
見せ、素直に甘えていました。父親に与えてもらえなかった愛情を貴方に求めていたのかもしれません。美月は大人の男性を怖がっていましたから。
それは許されないことなのかもしれないけれど・・・私には美月を止めることは
どうしてもできませんでした。貴方の側にいられることが何より嬉しいようで、
『お兄ちゃんといつか結婚するのっ!』なんて嬉しそうに言っていました。
ごめんなさいね、佑樹さん。貴方の優しさに私たち親娘は甘えていました。
どうか許して下さい」
そう言うと琴子さんは手を合わせ、深々と俺に土下座した。
「琴子さん、謝らないでください。
俺はそんな優しい男じゃないんです……」
俺だって、美月ちゃんを妹の身代わりしていたのだから
琴子さんと美月ちゃんを責められるものではない。
琴子さんは頭を上げ、俺の顔を見ると優しく微笑んだ。
「ありがとう、佑樹さん。気を遣ってくれて。もうしばらく話させて
下さいね」
俺は黙ってうなづいた。こうなったら最後まで聞くしかない。
「佑樹さんとお母様である雅子さんに美月が懐くようになって、しばらく
してから。私は雅子さんからあることをひっそりと伝えられました。
『美月の体に痣がいくつかあるみたいだけれど、心当たりある?』と。
初めは何のことだけわかりませんでしたが、嫌がる美月の体を見て
これは夫にぶたれた痕だと、すぐにわかりました。
以前の私の体にあったものでしたから。私はこのときになってやっと気が
付いたのです。夫の暴力はなくなったのではなく、美月を私の身代わりに
していたのだと。悲しくて情けなくて私は泣きました。でも雅子さんに
言われたんです。『今は泣くよりも美月ちゃんを守ることが大事よ』と。
その通りでした。泣いていてはあの子を守れない。
それから私は、雅子さんと佑樹さんのお父様に助けていただきながら
密かに夫と離婚する方法を探ってきました。
もう夫を変えるのは無理だとわかっていましたから。弁護士に相談し、実家と連絡をとり、離婚後の生活の基盤を作れるよう私は仕事を探したりしていました。
その間、雅子さんと佑樹さんに美月の面倒をみていただいて本当に助かりました。
皆様に助けていただいて、美月と二人で暮らせる住居と仕事を見つけることが
できました。今、夫は海外へ出張中。この間に美月と共に引っ越そうと思って
います。あんなに慕っていた佑樹さんと別れさせるのは美月にとって何より
悲しいことですが……」
「え、引っ越し? 引っ越すって、美月ちゃんはここからいなくなってしまう
ってことですか?」
黙って琴子さんの話を聞いていたが、突然の別れの宣告に俺は困惑した。
だって俺はこれからも美月ちゃんを大切にしてあげたいと思っていたのに。
戸惑っている俺を見て、今度は母さんが俺に語り始めた。
「佑樹、アンタに美月ちゃんのことをきちんと話さなかったのはあなたが美雨のことで今も自分を責めていると思ったからよ。美雨のような小さな女の子、美月ちゃんが悲しみの中にいる。それを知ってしまったらあなたは平静ではいられないと思ったの。何より、あなたには美月ちゃんを『可哀想な女の子』ではなく
『愛らしい一人の女の子』としてみてほしかった。普通の女の子として扱ってあげてほしかったのよ。美月ちゃんと佑樹を無理に婚約させたのは、美月ちゃんに喜んで
ほしいのが理由だったけれど、もう一つワケがあるの。それはね、佑樹。
美雨のことで今も心を痛めている貴方を美月ちゃんが癒してくれるかも
と思ったからなの。勝手なのはわかっているけれど……」
俺はもうただ驚くことしかできなかった。そんな理由があっただなんて。
「佑樹、ごめんね。あなたはこれまでずっと美雨が死んだのは自分のせい、
と思っていたのでしょう?それは違うわ。悪いのは私。母親なのに美雨から目を離した私が一番悪いの。それをずっと佑樹に伝えたかったのに、なぜかいえなくて。
佑樹、本当にごめんなさいね」
そういうと、母さんまで俺に土下座をする。
そんな、そんなことを言って欲しいわけじゃないんだ。
だって、美雨が死んだのは俺を探していたからじゃないか。
しかし、俺の心と反するかのように目からほろりと涙がこぼれた。
なんで俺、泣いているんだ?本当は『おまえのせいじゃない』って言って
ほしかったのか……?
そんな俺の姿を見て、母さんまですすり泣き始めた。その姿はとても小さく
見える。自分を責め続けていたのは俺だけじゃない、母さんもだ。
見れば、琴子さんも再び泣いている。小さな二人の母親。不器用だけれど、
自らの子供を守ろうと必死だったのだ。
俺以外の大人たちは小さな美月ちゃんを守ろうと動いていた。
なのに俺は、俺は美月ちゃんにいったい何をしてやれるというのだろう?
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