第17話

 その日の晩になって美月ちゃんの母、琴子さんが帰ってきた。

俺の顔を見ると、少し悲しげな微笑を浮かべながら、ゆっくりと頭を下げた。

つられて俺も慌てて頭を下げる。


「ごめんなさいね、佑樹さん。事情は貴方のお母様からお聞きしました。

美月のこと、驚いたでしょうね」

「その、驚いたっていうか。美月ちゃんのことが心配になっただけですから……」

「ありがとう、佑樹さん。貴方は本当に優しい方ね。美月が貴方を慕う気持ち

がよくわかるわ」


 琴子さんにいろいろ聞きたいことがあったのだが、青白い顔で神妙そうにしている

大人の女性に俺は何も言えなかった。

俺の後ろに控えていた母さんがそっと歩み出ると、俺と琴子さんの間に立った。


「琴子さん、ここで話してると美月ちゃんに聞かれてしまうかもしれないから

 奥の和室に行きましょう。佑樹、アンタも悪いけどそこに移動してくれる?」


 母さんはてきぱきと指示を出す。

とりあえず俺はそれに従うしかない。


 母さんに促されて俺は和室の奥に座り、俺と向かい合うように琴子さんと母さんが座った。琴子さんはなんだか辛そうな顔をしている。


「琴子さん、辛いなら私から佑樹に話しましょうか?」


母さんも同じことを感じていたらしい。


「ありがとう、雅子さん。でも、私から話さないといけないことだと思います。

これまで美月に優しくしてくれた佑樹さんのためにも」


そう言うと琴子さんは改めて俺と向き合い、目を合わせた。

その目はどこか哀しげだけれど、現実にきちんと立ち向かおうとする強さも感じた。


「佑樹さん、美月の体のことを心配してくれたのよね? ありがとう。

あれはあの傷は……お恥ずかしいことだけれど。あの子の父親がしたこ

となの……」


 予想していたことだけれど改めて聞かされると、とても残酷な現実だ。

それは『虐待』というものなのかもしれないけれど、その言葉を

口にするのは琴子さんを追い詰めるような気がして言えなかった。


「美月の父、和馬は、私が美月を出産することに反対していました。

子供はいらない、二人だけで暮らそうって。でも、私はどうしても愛する

男性の子供を産みたかった。だから反対を押し切って出産しました。

産めば彼も和馬さんもきっと変わってくれる。生まれてきた子供を

愛してくれる。そう信じて」


 そこまで琴子さんは話すと一旦言葉を止め、ゆっくりと息を吐いた。

琴子さんにとっても辛い話なのだろう。


「でも現実は違いました。和馬さんは生まれてきた美月を可愛がっては

くれませんでした。私もいろいろと努力しましたが夫は変わって

くれなかった。美月が赤ん坊の頃は無視すればそれで気が済んだのでしょうね。

美月が歩き出し、言葉を発するようになると和馬さんは美月が目障りに

なったようでした。やがて和馬さんは私を責めるようになったのです。

どうして子供を生んだんだ、なぜ俺の言うことに従わない?

お前に俺の気持ちがわかるか?と。和馬さんは仕事先でいろいろと

辛いことがあって、それを私にぶつけていたのかもしれません。

私を責める夫に対して、最初は私も反論していました。でも、すぐ止めました。

なぜなら私が反論すると、彼は返事の代わりに暴力で応えたから。

彼からの暴力がやがて日常化していったけれど、私は必死に耐えていました。

私さえ我慢すればいい、そうすれば美月を守れるのだから、と。

彼はいつか変わってくれる。そう信じていたこともあります。

辛い現実を少しでも変えたくて、仕事先に近い場所に引っ越せば、

環境を変えれば何か変わるかと思い、こちらに引っ越してきましたが

それでも彼は変わりませんでした」


 俺と目を合わせて話をしていた琴子さんの目から涙がこぼれた。

横にいる母さんはそっとハンカチを手渡す。


 想像はしていたけれど、それは重くて哀しい話だった。

 琴子さんはこれまでとても苦しんできたんだ。


「夫がその怒りを暴力という形でぶつけるのは私だけだと思っていました。

私が和馬さんに責められている間、声を押し殺して泣いている美月には

手を出していないと。いくら彼でもそこまではしていないとそう信じて

いたかった。でも、あの人は。私に気がつかないように美月にも

手を出していたんです……。情けないことに私はそのことに気が付きませんでした。

一人でお風呂に入りたがるようになった美月を見て、この子も成長したのね。 

と勝手に感慨にふけっていました。でも、違ったのです。

美月は私を守るため、父親に和馬さんに直接言いに言っていたのです。

「お母さんをヒドイことしないで!」と。

夫の逆鱗に触れたのでしょう。あの人は美月にとんでもないことを言ったのです。

『なら、お前が変わりになれ』と。

それから美月は、私に変わって夫の暴力を受けるようになったのです。

美月は私を気遣い、私に気が付かれないように声を押し殺して。

懸命にその痛みに耐えていたんです。私は愚かにも、本当に愚かにも

夫と美月は仲良くなったのだと安堵していた」


 そこまで話すともう止められなかったのか、彼女は顔を抑え声を押し殺しながら

泣いた。寝室で寝ている美月ちゃんを気遣っているのだろう。


 俺はあまりにも辛い美月ちゃんの話を聞いて言葉が出なかった。

 あの明るくて、可愛い美月ちゃんにそんなことが。

 どうして俺は、そのことに今まで全く気づいてやれなかったんだ……。


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