第16話

「ごめん、美月ちゃん、ちょっとだけ休ませて」


 美月ちゃんを含め、他の園児たちを延々とお姫様抱っこし続けた俺は

体も疲れたが、何より腰が痛くなってしまった。

全く情けない話だ。日頃の運動不足が祟ったか?

腰をさすりつつ歩く姿は高校生らしい若さがまるでなく

老人のようであったと思う。

俺と手を繋いでいた美月ちゃんも心配そうだった。

 やっとの思いで美月ちゃんを連れて帰宅した俺はどっかりとソファーに

横になった。

美月ちゃんも俺を気遣ってか、一人で手洗いとうがいを済ませ

幼稚園の制服を脱いて、きちんとたたんでいる。

ソファーで目をつぶって休んでいると、どこからともなく睡魔が忍び寄ってくる。

その時だった。

ガッシャーン!!


「きゃっ!」


 うとうとし始めていた俺の耳に届いたのは、床に何かがぶつかる音と

美月ちゃんの小さな悲鳴。


「どうしたの? 美月ちゃん!」


 俺は慌てて飛び起きて、音がした方向へと走った。

美月ちゃんはキッチンの隅でうずくまっていた。

側には無残に破壊された俺のお気に入りのマグカップと、あちこちに

飛び散ってい牛乳。

美月ちゃん自身もこぼれた牛乳がかかったらしく、白い液体が髪の毛や

服を濡らしていた。


「美月ちゃん、いったいどうしたの?」


「ごめんなさい、佑にいちゃんとっても疲れてるみたいだったから

 ホットミルクを作ってあげようと思ったの」


『そんなことは俺がやるのに』そう言おうと思ったが、俺は黙って口をつぐんだ。

美月ちゃんなりに俺を気遣ってくれたのだから。


「美月ちゃん後は俺がやるから。

風呂場にタオルがあると思う、そこで濡れた頭や服を拭いてきなよ」


 美月ちゃんはコクリとうなづき、そのままトボトボと風呂場に向かった。

砕けたマグカップを気をつけながら拾い、飛び散った牛乳は雑巾で拭く。

なんとか片付け終わると、美月ちゃんがいる風呂場の方を見た。

そういえば美月ちゃん牛乳でかなり汚れていたよな。

あのままでいたら風邪ひいてしまうかも。着替えを用意してやった

ほうがいいかな。 

 女の子の着替えなど当然俺が持っているわけがない。

あるとしたら、妹・美雨が着ていた服だ。

俺は美雨の思い出の品を母さんが一箇所に集めて大切に保管していたのを

知っていた。その中から少しだけ服を借りよう。


 俺は母さんの寝室に行くと、美雨の思い出の品が保管してあるクローゼットに

入っていった。

美雨の思い出の品を見るのは正直辛い。でも今は仕方ない。

美月ちゃんに合いそうな服を手早く取り出し、俺はソレを持って風呂場へと

向かった。


「美月ちゃん、着替えを持ってきたよ 」


 今思えば、たとえ幼児であっても女の子が着替えているであろう場所に

ノックもせず入るべきではないのだと思う。

しかし、俺はそんなこと考えもせず、突然扉を開けてしまったのだ。

 驚いて俺を見る美月ちゃんは固まっていた。

一方の俺は美月ちゃんが服を少し脱いでいたのに気がついて

「しまった」と思った。しかし。

目に飛び込んできたのは、美月ちゃんの体にある不自然な傷痕だった。

青黒い痣のような痕。それは1つだけではない。

背中に数カ所、そして手首や胸元にも。

ちょうど服を着たらわからない場所にそれらの青黒い痕はあった。

それは幼児はあってはならない生々しい傷痕だった。


「美月ちゃん……」


 俺はそう言うのがやっとだった。

どうして? なぜ? なんで美月ちゃんの体にこんな傷があるんだ?

こんなの、小さな美月ちゃんの体にあっていいものではない。


「見ないで……」

「え?」


 美月ちゃんが俯きながら、ささやいた。


「見ないで! 佑にいちゃん。そんな目で『カワイソウ』っていう目で

ミヅキを見ないでっ!」


 そう叫ぶと、その場で美月ちゃんは大きな声で泣き出した。

俺はいつの間にか美月ちゃんを憐れんだ目で見ていたらしい。


「ただいま~」


 そのとき玄関から呑気な声が響いた。母さんが帰ってきたのだ。

美月ちゃんはその声に気づくと、落ちている服を拾って

ものすごい勢いで母さんのところへと飛び込んでいった。


「おばさまっ!」

「みづきちゃん!? いったいどうしたの?

 佑樹。アンタ、美月ちゃんに何をしたの?」

「どうもしねぇよっ!ただ、その。

 美月ちゃんの体に痣みたいな傷があって」


俺の言葉を聞いた途端、母さんの顔が一気に強張るのを感じた。


「なぁ、母さん。美月ちゃんはひょっとして」

「佑樹、ちょっと待って。その話は後で。

 母さん、今から美月ちゃんの私たちの寝室で寝かせてくるから」


そう言うと、母さんは美月ちゃんを抱え上げ、そのまま寝室に行ってしまった。

俺は一人、その場に取り残されたのだ……。


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