第03話「精霊とようじょ」

 夕立の後、生乾きになった野良犬を100匹集めたような匂い。とでも表現すれば分かってもらえるだろうか?


 いや、僕だって生乾きの野良犬の匂いを嗅いだことなんか無いんだけど、とにかくそう言った雰囲気の匂いが辺りに充満している。


 りんちゃんを休ませていた場所に駆け戻った僕が目にしたのは、肩までの高さが2mくらいあるイノシシ。

 りんちゃんの腕と同じくらいの長さの2本の牙をゆらゆらと揺らしながら、そいつはりんちゃんの目の前に立っていた。


「りんちゃん!」


「あっくん!」


 思わず声を出してしまった僕に、りんちゃんが答える。

 その声に反応するように巨大イノシシはグッと頭を下げ、その鋭い牙を彼女に向かって突き出した。



「なんじゃゴラ! ワレェェェ!」


 どかんっ。


 牙がりんちゃんに届く寸前、イノシシの側頭部へこげ茶色の物体が高速で突き刺さる。

 どう考えても質量的にありえないように思えるんだけど、巨大なイノシシは車にはねられたように90度方向を変えて空中を吹き飛んだ。

 土埃を上げて木に激突したイノシシを、こげ茶色の物体が追いかける。


「ボゲェェェ! 調子のっとったらしばきまわすぞゴラァァァ!」


 空中に浮かんだまま、短い手足でイノシシを殴る。蹴る。

 その姿はどこかで見たことのあるクマのぬいぐるみのような姿。ただ、背中に天使のような白い羽があり、縫い止められたように線の入っていた関節が、普通の生き物同様になめらかな曲線を描いている所だけが以前の記憶とは違っていた。


「チコラちゃん!」


 その姿を見てりんちゃんがパッと目を輝かせ、名前を呼んだ。

 チコラは空中でイノシシのあご下へと体全体を使った打ち上げる蹴りを叩き込み、折れた牙が宙を舞う。

 くるくると回転した牙が僕の足元にザンッと突き刺さったのを鋭い目でチラ見して、チコラは汗を拭うようなしぐさで小さく息を吐いた。


「……りんちゃ~ん! 無事だったか~?」


 チコラは先程までと1オクターブ違う声音でりんちゃんの名前を呼ぶと、その胸に飛び込む。

 りんちゃんとチコラがじゃれあっている姿を見て、イノシシの死体と足元に突き刺さっている牙に目を戻すと、僕は彼女が助かったと言う安堵感と、こんな危険な場所に一人で留守番させてしまった自分の認識の甘さに震えながら、地面に膝をついた。



  ◇  ◇  ◇  ◇



「ワイがおらんあいだにりんちゃんに傷一つでもついとったら、今日がお前の命日になっとったで! ホンマ命拾いしたなぁ」


 大きく燃える焚き火にあたり、僕の膝の上で眠っているりんちゃんの寝顔を愛おしそうに眺めながら、チコラは僕の脇腹にパンチを一発打ち込む。

 先ほどのイノシシへの強烈なパンチを見た後だ。それが本気のパンチでないことは分かる。

 僕は素直に頭を下げた。


 この焚き火だってチコラの魔法でつけた火だ。

 チコラが倒したイノシシの肉をなるべく細かく切って木の枝にくっつけ、ハンバーグとはいかないものの、つくねのようなものを作って焼き、りんちゃんの空腹もしのげた。

 調味料が無いのもチコラが見つけた大葉のような草や分葱わけぎみたいな草でなんとかなった。


 今ここでりんちゃんが満足そうに寝息を立てていられるのは、全てチコラのおかげと言ってもいい。

 りんちゃんを守るなんて言っておきながら、僕がしたことは彼女を空腹のまま連れ回し、危険な場所で一人留守番をさせ、挙げ句の果てには生命の危険にまで晒してしまった事だけだ。


「ごめん。……それから、ありがとう」


 頭を下げたままなんとかそれだけ絞りだす。自分の情けなさに零れそうになる涙を、僕はなんとかまぶたの上で止めた。

 この体は涙も出るんだな。それから、まぶたって役に立つ。


「なんや自分。泣いとんのか」


「泣いてない」


「うそこくなや! めっちゃ泣いとるやんか!」


「泣いてない!」


 なんとか止めていた涙が頬を流れる。

 僕はローブの袖で慌てて涙を拭いた。

 やれやれと言った感じで肩をすくめ、チコラはふわふわと木の梢付近まで浮かび上がる。


「なんや、メンドクサイやっちゃなぁ……まぁ、最初から全部できるやつはおらんねや。お前もこれからりんちゃんのために頑張ればええんちゃうか」


 そのまま空中から「見張りはワイがしたるさかい、今日はもう寝たらええ」と言ってくれたチコラの言葉に、僕はりんちゃんをローブの裾でくるみ、木に寄りかかると目を瞑ってゆっくりと息を吐く。

 今日一日にあったことを整理しようと思ったのもつかの間、僕は一気に夢も見ないような深い眠りに落ちていった。



  ◇  ◇  ◇  ◇



 いい匂い。

 何かの油が香ばしく焼ける匂いがする。

 りんちゃんの楽しげな笑い声と、小鳥のさえずりが聞こえる。

 温かい感覚に包まれて、僕はゆっくりまぶたを開いた。


「お、泣き虫あっくん、やっとお目覚めかい」


「あっくん、おはよー! はい、ごはん」


 木の枝に刺さった魚――小さなマスっぽいけど見たことのない魚――が、こんがりと焼けている。

 ニパッと笑って差し出されたそれを、僕はお礼を言って受け取った。


「どうしたの? これ」


「ワイが獲ってきたに決まっとるやろ。イノシシの残りは昨日の内に地面に埋めてもうたからな」


 適切に処理できれば良いらしいんだけど、倒した獲物の肉をそのまま放置してると、匂いやらなにやらで色々良くないものが集まってくるらしい。

 僕たちが眠った後、あの1トン近くありそうな巨大イノシシをチコラは一人で処分してくれたそうだ。

 驚く僕に「あんなん魔法でちょいちょいや」とドヤ顔を見せる小さなクマのぬいぐるみ。

 そのとなりで魚を頬張るりんちゃんは、よほど美味しかったのか、テンションが上ってオリジナルソング「おいしいお魚のうた」を唄っていた。


「あぁそれからな、ここから街道を道なりに行くと次の街まで馬車でも3日はかかるで。川の向こう側を真っすぐ行ったほうが断然近そうや。森を突っ切ることになるけどな。それでも今日中に街まで行ける方がええやろ」


 夜中の内に上空まで飛んで、一番近い街の明かりを確認してくれたらしい。「まぁ街道沿いと違ってモンスターは出るけど、そこはお前のデスサイズでなんとかせぇや」と笑うチコラに僕は驚きを隠せなかった。


「すごい……チコラ……キミって何者なの?」


「何者っちゅうことあるかい! チコラちゃんやんけ!」


 チコラはりんちゃんとふたりで「ねー」と首を傾げる。

 僕は思いついて、水晶球でチコラを検索してみた。


 ==========

 チコラ

 種族:精霊族せいれいぞく

 クラス:英雄の守護

 年齢:--

 身長:25cm

 体重:600g

 能力チート名:魔石の契約者、魔術師

 ==========


「精霊族……?」


 存在自体がチートのあの精霊族か!

 なぜあの精霊族がりんちゃんのぬいぐるみに宿ったのかは知らないけど、これは物凄くラッキーだ。

 言ってみればりんちゃんにチート能力がもう一つ追加されたのに等しい。


「忘れてもうたんか? お前がワイを精霊族にしたんやで」


 転移する時、僕はチコラの手をりんちゃんの手と一緒に握ったまま、りんちゃんに精霊召喚の能力を与えるつもりで「決めました。この子には精霊」とチート能力を決定した。

 直後、りんちゃんは僕の言葉をさえぎる形でチート能力「魔法少女プリヒール」を求め、そこで僕は更に「魔法を使える能力を」とチート能力を追加することになる。

 全ては偶然。


「まぁなんや、偶然とはいえ、お前のおかげで精霊魔法と一般の魔法の両方が使えるスーパー魔法精霊のチコラちゃんが爆誕ばくたんしたわけや。おかげでワイは今まで大事にしてくれたりんちゃんに恩返しができる。せやからな、ちょっとはお前にも感謝しとるんやで?」


 僕だってチコラには感謝してる。

 初めて僕に名前をつけてくれたりんちゃんを守り、笑顔にしてくれたんだから。


 そう考えながら僕は枝に刺さった最後の魚を食べる。

 昨日は感慨にふける余裕もなかったけど、この『食事をする』と言う体験は心が踊るものだ。

 次からはもっと色々なものをりんちゃんと一緒に食べたい。


 枝を焚き火に放り込み、デスサイズを肩に担ぐ。


「モンスターを倒す事なら、たぶん僕は役に立てると思う。りんちゃんにパジャマ以外の服も着せてあげたいし、美味しいご飯も、柔らかいベッドも必要だよ。森を抜けて街へ急ごう」


「せやな」


 チコラは腕を一振りして焚き火の下に大穴を造り、キャンプの痕跡を埋めてしまうと、僕の頭の上に着陸した。

 僕はりんちゃんを左手で抱き上げる。


「期待しとるで。泣き虫あっくん」


「あっくんがんばれー!」


 二人の声援を受け、僕はチコラが指し示す森へ向かって、軽やかに歩を進めた。

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