人間より

真倉 侑芽

第1話 手紙

 蒸し暑い夜だった。午前二時。家族全員寝ているのだろう。虫の声、扇風機の音、時計の針の音だけがやけに響いている。薄暗い部屋で僕は腕を組み、机に向かっていた。机の上には真っ白な一枚の紙と芯の尖った鉛筆だけが丁寧に置かれている。こうしてからどれくらい時間が経ったか。一時間、いや十分しか経っていないかもしれない。僕は呼吸をするのも忘れ、紙と睨めっこをしていた。頰を伝う汗がぽたりと紙に落ちた。紙に落ちた丸い染みがじわりと広がり少しずつ大きくなっていく。

「ああー……。駄目だ」

 やっと呼吸をした僕は、丸い染みのついた紙をぐしゃぐしゃに丸めて投げ捨てた。そして透明の袋からもう一枚紙を取り出して、机の上に丁寧に起きまた同じ体勢に戻った。

 勉強をしているわけではない。僕は勉強が嫌いだ。じゃあ何をしているのか。これを言ったら人はみんな馬鹿にするかもしれない。

 宇宙人に手紙を書いている—— 今笑っただろう。別に良い。僕も本気ではない。冗談で書いてみているだけだ。もう17歳になる僕が宇宙人なんて。信じるわけがない。ただもしあの話が本当なら。いや、違う。信じていないけど、もしもの話しだ。


 ちょうど一週間前。 理科の先生はおそらく四十代後半だろう。いつも薄汚れた白衣を着ているくせにつまらない授業ばかりだ。実験なんてしたこともない。そんな先生はみんなから催眠術師と呼ばれている。先生の声は不思議なことに物凄く眠くなる。今日も周りを見渡せばほとんどの生徒が眠っていた。授業が終わるまであと五分。時間が余ってしまったのだろう。催眠術師はほとんど聞いていない僕達にこんな話をし始めた。

「宇宙人に手紙を送ることができる方法がある」

 その時顔を上げたのは、学年で一番頭の良い岡田くん、学年で一番美人と言われている佐倉さん、そして学年で一番地味な僕だけだった。

 岡田くんはいつも眼鏡をかけていて前髪が長く、ずっと無表情だ。何を考えているか分からない。佐倉さんは他のクラスからファンが見に来るほど人気だ。僕は一度も話したことがない。僕は決して頭が良いとは言えない。休み時間もずっと一人だ。他のクラスからファンが見に来るどころか同じクラスに話ができる友達すらいない。

 催眠術師が言うには、屋上にある百葉箱に手紙を入れると宇宙人に届くらしいのだ。非常に簡単でくだらない。誰が信じるのだろうか。三年前の僕ならおそらく信じていただろう。

 あの頃は子供だったんだ。インターネットで調べた宇宙人に会う方法を片っ端から試した。沢山の人から馬鹿にされた。勿論、宇宙人に会えたことなんてなかった。

 今は違う。もう宇宙人なんて信じるわけがない。


 こうして一週間が過ぎて、一度このくだらない方法を試してみている。ぬるくなった天然水の入ったペットボトルに手を伸ばし、一口飲んだ。その時、網戸から生暖かい空気が入り込んできた。僕は誘われるようにしてベランダに出てみた。

 東京の空には少ない星が光っている。もっと沢山の星たちがいるはずなのに僕に見えるのはその中でも一層輝く星だけだ。どんなに頑張って見ようとしても小さな星たちは見ることができない。

「ごめんね」

 聞こえるはずもない言葉を呟き、届くはずもない星に手を伸ばしてみた。つまらないこの世界から抜け出すことができたなら。小さな星たちを一つも見失わずに目に写すことができたなら。僕も早くそっちに行きたい。

 気づいたら僕はまた机に向かっていた。ただ数分前と違う。僕は鉛筆を滑らせていた。紙はもう真っ白ではなく、鉛筆の先は丸くなっていた。

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人間より 真倉 侑芽 @oyasumishabon

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