白い逃走
「まさか……、こんなセルリアンが」
ナマケモノが、珍しく緊張した表情を浮かべます。眠ってばかりの彼女も、キリンの尋常でない起こし方に、すぐ眼を覚ましました。具体的には、耳元で大声で喚かれました。
キリンは手をばたばた動かし、
「早く逃げましょう! 完全に取り囲まれる前に!」
「……でも」
同じくキリンにたたき起こされ、事態を聞いたギンギツネはしかし俯いて、口に拳をあてました。
「いま出て行ったところで、周りのセルリアンに見つかって、襲われるだけじゃないかしら。それだったら、中に立てこもって、救援を待った方が――」
「いつ破られるかわからないのよ!」
焦るキリンに対し、ギンギツネの口調は冷静です。
「これだけのセルリアンがいれば、ハンターにも連絡がいっているでしょう。それに、そうそうこの建物が壊されるなんてないと思うわ。あんな小さなセルリアンしかいないのだもの」
「まぁ、助けが来なかったら、詰むけどね」
キタキツネがつぶやいて、重い沈黙が降ります。彼女も、さすがにいまはゲームなどやっていません。
「……どうする?」
ナマケモノが、キリンに顔を寄せて耳打ちしました。
「どうって言われても」
キリンは彼女の顔をまじまじと見つめ、はっとした表情になりました。
そうです。仮にここを逃げるとしても、ナマケモノは速く走れませんから、自分が背負っていくしかないのです。いくら小さなセルリアン相手とはいえ、フレンズひとりが増えるのでは、万が一ということもあるかもしれません。
難しい顔で考えこんでいたキリンは、でも、と顔を上げました。
「――でも、やっぱり私は逃げるべきだと思うわ」
それを聞いて、ナマケモノも頷きを返しました。
「うん。私もそう思う。どうも様子がおかしいし」
セルリアンが建物の周りに密集しているのか、ぎゅうぎゅうという奇妙な音が、壁を震わせていました。水を嫌ってか、まだ温泉のある方に回り込んでいる個体はいないようですが、あれだけの数がいれば、それも時間の問題でしょう。
「……ねえ、キタキツネ、ギンギツネ。私は逃げるべきだと思う」
ギンギツネは眉根を寄せました。
「ナマケモノまで? どうして?」
「……あれだけのセルリアンがどこから現れたかわからないけど、誰にも目撃されずにここまで来た、とは考えられないでしょ? だとしたら、もうハンターたちに連絡がいっていてもおかしくないと思う。なのに――」
「まだハンターが来てないのはおかしいってこと?」
キタキツネが言葉を継ぎました。そう、と一度頷いて、ナマケモノは皆を見廻します。
「それはつまり、ハンターが来られないような事件が、どこかで起きている……」
三人はごくりと唾を呑みこみます。パーク全土にいる、それも精鋭揃いのハンターですら手に負えない事態があるとすれば……。
ナマケモノは微笑んで、
「……かもしれない」
と言い足しました。
しばらく考える素振りを見せていたギンギツネですが、やがて彼女は納得したように頷きました。
「わかったわ。逃げましょう。キタキツネも、それでいいわね?」
「うん。ゲームを置いていくのは困るけど……」
「そんなの事件を解決したらいくらでもやれるでしょう!」
溜息をついて、キタキツネは腰を上げました。
「そうと決まれば、さっさと行こー」
頷いたキリンはナマケモノを背負い、「しっかり摑まっていてね」と囁きます。
温泉に面した窓を開け、周囲を窺います。いまなら何とか逃げ出せそうでした。
「……行きましょう」
ギンギツネの号令に合わせ、三人は一斉に飛び出します。
彼女とキタキツネは、俊敏な動作で。キリンはその足の速さを存分に活かして、温泉から離れていきます。雪の大地は足が沈み、とても走りにくい場所ですが、それはセルリアンにしても同じことでしょう。
数体のセルリアンが、彼女たちに気づき追ってきますが、それほどの数ではなく、また速くもありません。
「よし、これなら……!」
がっしりとキリンの身体にしがみついたナマケモノは、振り返り、そして。
「…………」
絶句しました。
「ナマケモノ? どうしたの?」
前をむいたままキリンが訊ねましたが、彼女もすぐにその理由を知ることになりました。
なぜならば。
ついさっきまで彼女たちがいた、温泉。その建物が。
轟音を立て、あっさりと倒壊していたからです。
「……!」
振り向かずとも、音を聞けばわかります。走りながら、一同は恐怖に身を震わせました。
「そんな、あんな小さなセルリアンに……」
ギンギツネが背後を一瞥し、信じられないといった表情でつぶやきました。隣を駈けるキタキツネは彼女の肩を叩き、
「一死も重なればゲームオーバー、だよ」
「いや、それは意味わかんないから……」
渋い顔をして、ギンギツネはまた背後を見ます。
「でもこれだけ走れば、セルリアンも随いてこないわよね」
走る脚を緩め、安堵の息をつきます。温泉から追ってきたセルリアンたちは、距離が離れ過ぎて彼女らを見失ったのか、雪原の中をうろうろ彷徨っています。
「ひゃ!」
ふいに、キリンが悲鳴を上げました。
「どうしたの、キリ――」
再び前を向いたギンギツネは、また唖然とする羽目になりました。キタキツネも呆れたようにつぶやききます。
「無理ゲーだなぁ……」
彼女たちが走っていく前方、雪を被った針葉樹林から、またもセルリアンの大群が現れたのです。
セルリアンが接近してくるフレンズを見逃すはずもなく、当然追ってきます。
「ど、どうするのよこれ!」
「とにかく、進路を右にとろう……」
キリンの悲鳴に、ナマケモノが答えました。
走れど走れど、セルリアンの猛追は止まらず、そればかりか、徐々に距離を詰められていました。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
疲労から、キリンの足がもつれます。
「くっ!」
がくつく膝を叱咤し、彼女は前方を睨みます。
キタキツネ、ギンギツネも共に疲労が溜まっていましたが、ナマケモノを背負って走ってきたキリンの比ではありません。
「か、代わりましょうか、キリン……?」
息を切らせながらも、ギンギツネが言いました。キリンは汗まみれの顔で微笑みます。
「いえ、だいじょう、ぶ、よ……!」
「…………」
ナマケモノはキリンの背で、黙りこくっていました。
背後を振り返り、セルリアンの追跡が続いていることを確認。
数は減らず、むしろ増えているようにも見えます。追いつかれれば、ひとたまりもないでしょう。
ひとつ溜息をついて、ナマケモノはキリンの耳に口を寄せました。
「……キリン」
ナマケモノは普段通りの――普段よりのんびりした口調で、言いました。
「……私をおろして」
「!」
思わずキリンは、肩越しにナマケモノを睨みつけます。
「……このままだと、みんな追いつかれる。それよりは、犠牲をひとりに留めた方がいい」
ナマケモノは一音一音、丁寧に言いました。
キリンの答えは、彼女をいっそう強く背負うことでした。
脚に力をこめ、雪の大地を踏みしめます。縮まっていたセルリアンとの距離が、すこし離れます。
ざく、ざく、と雪の上に足跡が残ります。キタキツネとギンギツネも、そんな彼女の様子を見て、走る速度を上げました。
「……キリン!」
ナマケモノの呼びかけを無視して、キリンは走ります。
それが長く
しかしキリンには勝算がありました。地方が変わり、雪原から解放されれば、格段に速く走れるはずです。森に入れば、セルリアンを撒くことも容易でしょう。あとは体力の勝負です。
それをナマケモノに伝えようにも、いまの彼女に、その余裕はありません。とにかく走ることで、答えるしかないのです。
やがてキリンの考え通り、地方の境が見えてきました。一本の直線が引かれたように、唐突に雪原が途切れ、先には森が広がっています。
「やった!」
「うん!」
ギンギツネとキタキツネが頷きあいました。
(あそこへ逃げ込めば……!)
キリンも内心で快哉を叫び、境界を飛び越えました。
飛び越えた、その着地。
一瞬の気の緩みに耐え得るほど、キリンに体力は残っていませんでした。
「あ」
よろめき、キリンとナマケモノの身体が地面に投げ出されます。
キリンはナマケモノを背後に残し、ごろごろと大地を転がりました。
「ナマケモノ……!」
即座に立ち上がり、ナマケモノを助けようとしますが、転んだ拍子に怪我をしたのか、右足に力が入りません。
ナマケモノは怪我こそしなかったものの、その動きはとても機敏とは言い難いものです。
「……!」
彼女の背後に迫るセルリアンを見て、キリンは胸がきゅっと締まる気がしました。
「キリン、逃げて」
ナマケモノはそう言いますが、キリンは首を振って答えます。
「見捨てられるわけないでしょう⁉ それに……」
ナマケモノを見捨てることも、自分だけが逃げることもできません。右足は痺れ、少しの間まともに動きそうにありませんでした。しかしいまは、その少しの間が命取り。
地響きと共に、セルリアンの姿が大きくなります。
「キリン、ナマケモノ!」
ふたりが随いてきていないことに気づき、ギンギツネは背後を見ました。
「だめだよ、ギンギツネ!」
咄嗟に足を止め、助けに向かおうとした彼女を、キタキツネが抑えます。すでに彼女たちの姿は遠く、いまから助けに行ける距離ではありません。
「でも……!」
セルリアンはもうそこまで迫っていました。その一つ目は、ふたりをはっきり捉えています。
キタキツネは首を振って、ギンギツネを森の奥へ引き摺って行きます。
「そんな……」
「…………」
遠くなる視界。
セルリアンの大群は大地を蹂躙し、やがて、ナマケモノを。
そしてキリンを、その群れのなかに呑みこみました。
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