図書館消失・湖消失

 がたがたがた、と建物が揺れました。

「な、なに⁉」

 思わず身を竦ませ、キリンは天井を見上げます。屋根の上を、なにかが転がっているような音がします。

「雪でも落ちてきたのかしら……」

 つぶやいて、皆を起こしに行くべきか考えます。いまこの温泉にいるのは、キリンとキタキツネのほか、ギンギツネとナマケモノだけです。起こしたところで、起きるのはギンギツネくらいかしら、とキリンは思いました。

 まあ建物が揺れたくらいで騒ぐのもどうかと考え、キリンは椅子に座り直します。窓越しに温泉の湯気を眺め、ぼんやりしていましたが、不思議なことに、建物の揺れも音も、一向に鳴り止みません。

 そればかりか、どんどん大きくなっている気がします。

「……?」

 さすがに首を傾げ、キリンは一度外へ出てみようと、玄関へ足を向けました。

 まだ眠っているであろうナマケモノたちを起こさないよう、キリンは慎重に歩いていきます。一歩進むごとに、廊下はかすかに軋む音を立てました。

 玄関から朝陽が射しこんで、廊下を四角く照らしています。

 さっそく出ようと、外を眺め、

「――ひっ」

 そこには、大量のセルリアンがいました。

 小さなセルリアンが建物を囲むように、視界の限りぎっしりと押し寄せています。玄関に押し付けられるようにして、それでも後ろからぎゅうぎゅう押され、形を歪めたセルリアンたちが、その歪な一つ目で、一斉にキリンを睨みました。

 キリンは息を呑みました。

「な、なによ、これ……」

 どうしてこんなにも多くのセルリアンが? どうしてこの温泉へ?

 震える足で後退り、いやいやと首を振ります。

 がたがたがた、音は止まりません。

 つまり――、

「屋根にも、セルリアンが……」

 はっと天井を見上げます。

「ひぁ――」

 悲鳴を上げそうになったのを、キリンはぐっと堪えます。

 胸に手を当て、何度も深呼吸していると、だんだん自分の頭が冴えてくるのが感じられました。

「お、落ち着くのよキリン。この小ささなら、いくら押し寄せてきても、そうそう破られたりはしないはず……」

 なおも歪み続けるセルリアンを見て、キリンは冷静に考えます。

「とにかく皆を起こして、完全に囲まれる前に、脱出するしかないわ」

 ひとつ頷いて、キリンは皆が寝ている部屋へ急ぎます。

 駆けだしたキリンの姿を、硝子に張りついたセルリアンの瞳が、ぎょろぎょろと追いました。


「どうしたのクロテン……、こんな朝早くに?」

「いいですから、早く来てください!」

 そう言ってクロテンは、まだ眠い目をしたキャプテン・ハクトウワシの手を引いていきます。

 いつもと同じく、キャプテンが畑の傍で寝ていると、血相を変えたクロテンにたたき起こされたのです。

 陽は高く昇っており、多少寝過ごしたことは事実ですが、今日は早起きする用事などなかったはずです。

 坂道を上がりつつ、キャプテンは先を進む彼女に声をかけました。

「そんなに急ぐなら、私が飛んでいこっか?」

 羽をぱたりと動かして見せると、クロテンはキャプテンの両肩に手を乗せ、ぶんぶんと首を振りました。

「よろしいですか、キャプテン。決して飛んではいけません。大声を出すのも、走るのも禁止ですからね」

「お、オーケイ……」

 その気迫に圧され、キャプテンは頷きました。クロテンがこんな口調で話すのは、彼女の知る限り初めてのことです。よっぽど深刻な事態が起きていると思われました。

 速足で歩く彼女を追いながら、キャプテンは道の先を見、ふと首を傾げました。

「……もしかして、図書館に向かっているの?」

 足を止めずに、クロテンは答えます。

「ええ。そうです。そうですが……」

「図書館がどうかした?」

「どうかしたと言うか、どうにもならないと言うか……。とにかく、見ればわかりますわ」

「うーん……」

 借りた本を失くしたとかかしら、と思いつつ、しばらく足を進めると、すぐに図書館へ着きました。

「え……?」

 キャプテンは呆然として、目の前に広がる光景を見つめます。

「どうなっているの……?」

「わかりません」

 クロテンも同じ表情を浮かべて、首を振ります。

「だって、これ……」

 目に映るものが信じられず、なにも理解できず、キャプテンは声にならないつぶやきを漏らしました。

 彼女達が図書館へ着いたとき――、

 いえ、正確には、図書館には着けなかったのです。なにしろ、

……?」


 湖畔に建てられた家の屋根に、黒いフレンズが腰掛けています。

 彼女の見下ろす先、オグロプレーリードッグ(ネズミ目リス科プレーリードッグ属)とアメリカビーバー(ネズミ目ビーバー科ビーバー属)がうろうろと歩き廻っています。

「いったいどうなってるっすか……?」

「全然わからないであります……」

 ふたりは互いに顔を見合わせ、首を振りました。

「クララ殿ぉー! 上から見て何かわかりますかぁー?」

 プレーリーが屋根に腰掛けるフォークランドカラカラことクララを見上げました。クララは妖しげな笑みを浮かべ、片手に持ったじゃぱりまんを齧るだけで、とくに答えを返しません。

「うぅ……。あの人の雰囲気、ちょっと不気味っす……」

 ビーバーが肩を竦めて、プレーリーに耳打ちしました。

「た、たしかにそうでありますが……。湖畔に来てからこっち、じゃぱりまんを食べているだけでありますし……」

 先日のこと、突如として屋根に降り立ち、彼女たちを驚かせたクララは、なんだかんだと居候生活を送っていました。といっても、じゃぱりまんを食べ、湖の水を飲んでいただけなのですが……。

 怯えた視線を向けられていることは意にも介さず、クララは最後の一かけらになったじゃぱりまんを見て、名残惜しそうに呑み込みます。

 そして彼女は首を傾げ、

「……不思議なの」

 とつぶやきました。

 クララの見下ろす先。

 プレーリーとビーバーが彷徨う場所。

 そこは、でした。

 彼女たちが住む、湖。

 ビーバーの造ったダムが形成していた湖。

 そこは――、

 一夜にして水が消え、湖はただの大地へ変貌していました。


 ロッジアリツカのオーナー、アリツカゲラは、ロッジでは誰よりも早く起き、朝食の準備をはじめていました。

「うーん、何なんでしょうか、これ……」

 彼女はふと足を止め、窓外へ視線を向けました。しばらくして、彼女はひとつ首を傾げ、再び仕事に戻ります。

 彼女が気にしているのは、朝から外で響いていた、妙な音のことです。見渡す限り、誰かがいる様子はなく、樹が倒れたり、強い風が吹いているようでもありません。

「これのせいで起こされる方がいないといいのですが……」

 宿泊客のことを心配しながら、アリツカゲラはじゃぱりまんを食卓に置きました。その時です。

「ふはははは! 我が来てやったぞ!」

 突然、勢いよく扉を開け、ずかずか入ってきたフレンズの姿を見て、アリツカゲラは眼を丸くしました。

「…………」

 彼女が絶句していると、

「ふはははは! 我が来てやったぞ!」

「あの、もうすこし声を小さく……」

 再びそう叫んだ彼女へ、おずおずと声をかけます。

「お、そ、そうか。小さくする」

 素直に頷いた彼女に、アリツカゲラはようやく自分の職務を思い出しました。

「えっと……、ようこそ、ロッジアリツカへ」

「うむ。きさまがアリツカゲラか!」

「はい、そうですが……」

 偉そうに胸を張り、仁王立ちする彼女に、アリツカゲラは困惑を隠せません。

「お泊り――ですか?」

「そうだ。たっぷりかんがせてもらうぞ!」

「…………」

「…………」

 長いことこのロッジを経営し、多くのフレンズたちと接してきた彼女にとっても、こんなお客さんは初めてです。

「……あの、お名前をお伺いしても?」

「エダハヘラオヤモリ――おそれをこめて、ラオ様と呼ぶが良い」

「はあ、そうですか、ラオさ、様……。さっそくお部屋をご案内しますね。あ、それとも、お食事を先にしましょうか?」

「うーむむ……」

 ラオ様が腕を組んで考え始めたところに、また声がかけられました。

「おや、見ない顔だね。新しいお客さん?」

「む?」

 顔を上げると、タイリクオオカミが階段を下りてくるところでした。

「はじめまして。私は作家のタイリクオオカミ」

 微笑んだ彼女に、ラオ様は表情を変えました。

「と、ということはきさまが、あの……」

「おや、君は私のことを知っているの?」

「し、知っているもなにも――」

 知っているもなにも、終生のライバルであるキリンが、憧れている相手ですから、もちろんラオ様は知っています。というか、彼女を目当てにこのロッジを訪れたのです。

 キリンが愛読していたという、オオカミの漫画――ラオ様もそれを呼んで、すっかり彼女のファンになってしまっていました。

 思わずにやけそうになるのを留め、ラオ様は腰に手を当て、咳払いをひとつしました。そう簡単に、へりくだった態度はとれません。

「ま、まあな! 我のじょーほーしゅーしゅーのーりょくを甘く見ないほうが良いぞ!」

 ラオ様は思い切り背伸びし、オオカミの顔を真正面から睨みつけました。

「わ、我は悪魔の使いにして悪魔探偵の、ラオ様である!」

 その視線には全く怯まず、オオカミは瞳をきらりと輝かせました。

「へぇ、悪魔の使い……? それはそれは、また面白そうな……」

「え、え?」

 相手が全く恐れる様子がなく、ラオ様は面喰いました。

「ちょっとお話を聞かせてくれるかな? こっちに来て……」

「うぉ、な、なにをする、放せー! あ、あたちは――」

 ずるずると引っ張られていく姿を見送って、アリツカゲラは溜息をつきました。

「うーん、とりあえず見晴らしの部屋を取っておくべきでしょうか。たしか最上階が空いていたはずですから、ラオさ、様も喜んでくれるでしょうし……」

 つぶやいて、部屋の準備をするべく、階段を上がって行きます。

 窓の外を一瞥すると、また妙な音が響いていました。

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