第6話
エルナンドはしばしの沈黙の後、綺麗ににこりと笑った。
「夢見がちなところも可愛いよソフィー。」
「全然嬉しくない褒め言葉をありがとう。」
ソフィーはふぅ、と小さく息をついて、エルナンドの皮肉をもつるりと受け流してみせた。
そして綺麗に笑みを作ってみせる。
「…別にあなたに理解してほしいなんて思ってないわ。」
エルナンドを直に突き放すようなセリフ。
それをエルナンドは黙ったまま受け取った。
本当に理解される気などなかったのだろう。その後に言葉が続くことはない。
会話の切れ目とはなかなか居心地の悪いものだ。想いを寄せる
それ故に、次に口を開いたのはエルナンドの方だった。
「君が永遠を信じてるなら、俺だって信じてることにしてもいい。」
「あら、そうなの?」
「大して重要なことじゃないからね。」
彼女の永遠を、塗り替えることさえできればなんだって。
エルナンドは朗らかに笑ってみせた。
「君がそのバケモノを諦めてくれるなら、ね。」
「バケモノ…?」
エルナンドの言葉を皮切りに、すとんと温度を落とす空気。
彼女の纏う氷のようなそれに、エルナンドは思わず身を震わせた。
この夫とやらのリビングデッド。
彼について話すたび、2人の間の空気は悪化する。
できれば選びたくない話題の一つだ。
しかし、ここを何とか突破しないことにはエルナンドとソフィーの関係はいつまで経ったって平行線のまま…。
だからあえて、エルナンドはソフィーの琴線ギリギリのところを掠める言葉を彼女にぶつけた。
「だってこんなの死体だぜ?…永遠の愛だなんて洒落たセリフ、似合わない。」
言いながら、エルナンドは微妙な顔を作る。
それを受けてソフィーは少々表情を固めた。
この、ソフィーの愛する人だったものが死んだのは五年か四年前だと聞いている。
エルナンドはまだ、ソフィーとさえ出会っていなかった頃だから、当然その生きている姿を目にしたことはない。
夫、と彼女は呼ぶが、彼とは婚約したのみで法的な夫婦関係にはまだ至っていないのだそうだ。
式の寸前で彼が病に倒れたからだ。
何度も手術を重ねるも、回復する兆しもなくあっけなく病死。
ソフィーとの式も挙げず、籍も入れないまま墓に入ったのだ。
死んでから数ヶ月でリビングデッドと化し、街を徘徊していたところをソフィーが保護したのだと聞いている。
「しかも、こんなにボロボロだし。」
「…リビングデットになると傷が治らないから困っちゃうわね。」
肩をすくめたエルナンドの方には目もくれず、ソフィーは腕の中のリビングデッドに語りかけるように微笑んだ。
ボロ雑巾のような身なりのリビングデッド。エルナンドが知る限りソフィーの夫ほど、…ここまで破損の酷いものも珍しい。
今やリビングデッドは世間に馴染み、保護活動も多く広がっているが…。
昔、というか数年前までは彼らを排斥しようとする住民の動きが活発だったのだ。
つまり、その人々の手によってソフィーの夫はこうまで破壊されたわけだ。
リビングデッドは例のごとく頭が潰れれば動かなくなる。
しかし逆に言えば頭部さえ破壊されなければ活動できるのだ。
幸か不幸かソフィーの夫の頭部は無事で。彼はいまこうしてソフィーと甘い生活を送れている…。
…複雑な気分にもなるさ、こんなの。
ソフィーを知る人の話を聞く限り、なかなか気さくな好青年であったそうだ。
まぁ今は見る影もないのだけど。
「俺のがいいと思うけどなぁ。」
エルナンドは顔をしかめた。
…その好青年にならまだしも、こんな小汚い腐った死体に引けを取るのは納得がいかないからだ。
でもやっぱりソフィーから返ってくるのはこんな言葉。
「あなたは駄目よ。私が愛してるのはこの人だけ。」
くすくす笑ったソフィー。
あくまでエルナンドの言葉にほだされる気も、なびく気もないようだ。
そして彼女はそう言ったあとすっと目を細めた。
若干の冷たさのある瞳がエルナンドを貫く。
「大体ねぇ。…知ってた?私、あなたのこと結構嫌いなのよ?」
唐突な告白。
エルナンドが渇望している言葉とは全く真逆のセリフだ。
こんなにも一心に愛を注ぐ彼女からの、こっぴどい死刑宣告にも似た通告。
しかし、エルナンドが胸を傷めることはない。…何故って、その理由は分かりきったことだったから。
「まぁ、友人としては別だけど。1人の男としては最低。」
「そりゃあ亭主を悪く言われたら気分良くはないだろうさ。」
「わかってるならやめて頂戴。」
ソフィーは少々顔をしかめてエルナンドをそう叱った。
その、少々尖らせた唇が愛らしくもあり、艶っぽくもあり。
でも、すっと半分伏せた目がそれを艶やかなほうに傾けているから、結局はそう言うことなのだ。
そんな風に、彼女の魅力の正体を再確認しつつ、エルナンドは小さく息をついた。
…そうは言われたってエルナンドにも言い分はある。
死体はただの死体としかみれない。
愛しい人が、自分をはねのけてそれを愛するのだから尚更だ。
悪趣味な
エルナンドは薄く笑った。
「でもソフィー、知ってるかい?好き嫌いって愛の前では関係ないんだぜ?」
「そうでしょうね。嫌いさえ超えていくのが愛ですもの。」
「じゃあ、なんの問題もないじゃないか。」
人の心とは不思議なもので、心の底から嫌悪して、嫌煙していたって愛せるのだ。
エルナンドがまさにその象徴だ。
そうでもなければ、死体を夫と呼び愛好するこんな気味の悪い女のどこにエルナンドは惹かれたというのか。
物珍しさとか、そういう否定的な理由も考えたが、どうにもしっくりこない。
『恋は理屈じゃない』だなんてありきたりな言葉の意味を知る日が、こんな歳になってから来るとは…。
エルナンドはひとりふつふつと溢れて来る笑みを噛み殺した。
ソフィーは呆れたように肩をすくめる。
「でもそれは他人以上の愛の前での話よ。あなたと私には当てはまらないわ。」
「おやおやこれは手厳しい。」
その言い方ではまるでエルナンドがソフィーにとって他人以下とでも言うようじゃないか。
酷い言い草である。エルナンドけらけらと苦笑いした。
彼女がエルナンドを他人と言い切るその一方で。
エルナンドは彼女をその他人以上に愛してしまっている。
彼女が狂気とも呼べる奇々怪界な趣味を持っていたってそれは変わらない。
「これから築いていけばいい。」
エルナンドはそう言って目を細めた。
そう、エルナンドはどうにかしてその狂った世界から引き上げて、彼女を自分のそばに置きたいのだ。
…まあ、彼女にとってはありがたくもなんともない純粋な迷惑なのだろうけど。
予想通りソフィーはどこが棘のある笑みを浮かべる。
「それはごめんだわ。言ってるでしょう?私には主人がいるの。浮気なんかしない。」
「浮気じゃないさ。彼はもう死んでいるんだから。」
「さっきも言ったはずよ、死んでたって変わらない。彼は私のそばにいてくれればいいの。」
するり、美しい指がリビングデッドの醜い肌を撫でる。
ああ、忌まわしい。エルナンドはその指に触れることさえできないというのに。
エルナンドは乱暴に椅子の背もたれに体重を預けた。
「夫ってのはラブドールじゃないんだぜ?」
「不愉快な勘ぐりはよして。私がこの人を愛してるのは、この人がこの人だからよ。」
少しむっとしたようにソフィーが半眼になる。
その目にじとりと睨まれてエルナンドは苦笑いを浮かべた。
「似たようなもんじゃないか、愛しても返ってこない。」
咲かない鉢に水をやるなんて、始める前から結果は見えてる。
ジョウロの水がなくなるのが先だ。
どうせなくなってしまう水ならば、咲く花に注げばいいものを。
エルナンドくつくつと笑った。
しかし、ソフィーのほうはしれっとこんなことを返して来る。
「いやね、この人は私を愛してくれてるわ。」
「…ははっ面白い冗談だ。そんなのがどうやってわかるってんだい?」
少々悪戯っぽくそう言ったソフィー。
意図が掴めないエルナンド渇いた笑いを口内で響かせた。
もしかして、彼が語りかけてくるとか、彼の声が聞こえるとか、そんな妄言ではあるまいか?
ああ、そこまで来ているとしたらそろそろ専門の医師を呼んだ方がいいのかもしれない。彼女は嫌がるだろうけど、仕方があるまい。
さすがにそこまで言われるとエルナンドだってどうしたらいいかわからなくなる。
行くとこまで行ってしまった彼女だけど、まだ正気は保っていると信じていたのだ。
引き気味になるエルナンドを満足げに眺めて、ソフィーは瞳を伏せた。
「だってこの人は私を愛してるって言ってくれたもの。」
「それは大昔の話だろう?今は…。」
「死んでる、喋らない。もうこの人は愛を囁いてはくれない。わかってるわよそんなの。」
言い募るエルナンドを遮ってソフィーは当然のように言い切った。
その言葉に少なからず驚いて、エルナンドは目を見張る。
正気は保っているにせよソフィーは妄信的に、かつての恋人を愛しているのだと思っていたから。
「でもね、エルナンド。」
ソフィーの指が、愛しい人の頰を艶かしくなぞる。
その声に、仄かな熱を孕ませながら…。
噛みしめるように、確かめるようにソフィーはその言葉を口にした。
「彼は永遠なの。」
それは彼女にとっての永遠。
エルナンドなんて入る隙間もない、ふたりだけの。
「私は信じてる。」
夢見るようにそう言って頰を染めたソフィーは、その眼は。
ひとつだって狂っていなかった。
しっかりと焦点をあわせて、リビングデッドを見つめている。
他意などなく、純粋に彼を愛しているのだ。
ひどく澄んだ清流のような清らかさで。
ああ、それこそが狂気とも言えるのだけど。
「…あまり面白くない気分だ。」
彼女を想う身としては、かなり。
エルナンドは顔をしかめた。
ああ、あの腕の中にいるのが自分であれば…。
きっとあの細い肩を抱き返してやることができるのに。
一人芝居のように彼を抱いたソフィーは、もはやなにも思うところがないのか、ふふふと軽やかに笑んだ。
「面白い話をしてる訳じゃないもの、当たり前よ。」
それにしたって面白くない。
ソフィーは気味が悪いだけの死体と自分を比べて、一寸の迷いなく死体を選ぶのだから。
思わず口先に出かかった舌打ちを口元に指を添えてなんとか飲み込む。
そして、その置き場をなくした舌で自らの歯列をなぞった。
「まぁ、どうでもいいさ。」
ぼそりと呟いた言葉。
それにソフィーが不思議そうな目を向けた。
…結局はこうなるのだ。
エルナンドは彼女のそばのリビングデッドを睨みつけた。
「永遠だろうとなんだろうと、その死体は死体のままだ。」
ソフィーがどこかきつい表情でこちらを見ている。
でも、構うことなどない。
エルナンドは言葉を続ける。
「動かない、止まったまま。終わってしまった命だ。」
エルナンドの幼少時代では、教科書にも載ってない、当たり前のこと。
当然だった事実。
…今ではそんな事さえ教えなければ子供にはわからない。
それはリビングデッドにも思想があるなんてほざく研究者も出てきているからだ。
そんな世迷いごとを…、とは言えない今の時代。
エルナンドのこのセリフに意味はあるだろうか?
「未来はないよ?」
時代遅れとも言える、その言葉。
今でも真実である可能性を秘めていて、同時にそうでない可能性も実在する…。
…今は宙ぶらりんに世界を惑わすだけの、単なる一派の『思想』でしかない。
そう嘲笑うようにソフィーは頷いた。
「それがいいのよ。」
彼女にとって大切なものは、生だの死だのと言ったものではなくて。
そもそも、そんなもの関係してないのだ。
だって、彼女には、『永遠』が与えられているから。
「未来なんて要らないわ。」
ソフィーはそう言って笑った。
とてもとても、幸せそうな笑みだった。
きっとそう。彼女たちは終わってしまった。
…だからこそ永遠なのだ。
永劫の、不変の、約束された愛なのだ。
それは決して幸福と呼べるものはない。
けれど、彼女にとってはそれが『救い』だった。
きっと彼女が盲信してるのは彼ではなく、その彼が与える『永遠』。
リビングデッドという存在の善悪など関係なく、それを超えた何か。
だからこそ、未来はいらない。
永遠さえあればきっと彼女はそれでいいのだ。
エルナンドは口端を持ち上げた。
「じゃあ俺が貰ったっていいだろう?」
「捨てはしてもあなたにあげるつもりはありません。」
エルナンドの吐いた歯の浮くようなセリフをぴしゃりと否定して、ソフィーはにこりと笑んだ。
エルナンドは大袈裟に息をついて、そんな彼女を皮肉った。
「君も大概強情だ。」
「あなたも本当にしつこい男ね。」
呆れてもはや憐れむようにソフィーは目を伏せた。
彼女の腕が再びリビングデッドを優しく抱き留めた。
それはリビングデッドを包み込むような抱擁。
大事に大事に、何かから守るように。
…何かから奪われないように。
そこにはガラス細工に触れる時に似た危うさがあり、強く縛りあげる強引さもあり、似て非なるふたつを併せ持つ…。
彼女の愛をそのまま形にしたような、姿だった。
その姿はひどく美しい。
美しいのに、抱き込んでいる男が傷だらけの醜い死体と言うだけでサイコホラーを見ているようだ。
エルナンドは息をついた。
そんな未来のない愛にどうして縋るのか。
停滞をこよなく愛す彼女を果たしてエルナンドは振り向かせる事ができるだろうか。
ああ、そんなこと考えるだけ馬鹿馬鹿しい。
エルナンドは笑った。
深い愛で結ばれたふたりを横目で眺めて、すっかり冷めきった紅茶に口をつける。
それを元の位置に戻して、かしゃり、ソーサーとカップが音を立てた。
どうにもそれが静かな診療所の待合室に響いて、…無意味に壁に吸い込まれて消えた。
「でも好きだよソフィー。」
呟くような声。
ああ、先の音と同じように部屋に落ちて消えるだけだと言うのに、そんな未来は見え透いていると言うのに。
…今度こそ、それに応える相手はいないと言うのに。
彼は続けるのだ。
「俺は君を愛してる。」
受け取り手のいない愛の言葉を。
彼女が見ているのは腕の中のひとだけだと言うのに。
それが目の前で証明されていると言うのに、構わずに。
だってそれでも諦める理由にならないと思ったから。
略奪愛なら望むところ。
元恋人だろうが旦那だろうが、ポロポロの死体相手に引けは取れない。
ビリビリと背筋をなぞる温度の高い電流に震えて、エルナンドはニィっと笑んだ。
要は簡単な話だったのだ。
永遠なんぞ、ぶち壊してやればいい。
ただそれだけのこと。
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