第7話


 遠くから潮騒の音が聞こえる。


 窓が開いたままの閑静な部屋を、かすかに彩って…。それは壁紙に吸い込まれて行く。

 ソフィーは静かにそれに聞き入っていた。


 あの暇潰しの話し相手兼、気の合わない友人であるエルナンドは、閉院時間だと告げると渋々と行った様子で出て行った。

 …いつも通り、去り際にまた来ると残して。


 本当に懲りない男だ。ソフィーは小さくため息をこぼした。

 来院者の少ない小さな診療所。暇な時に話す相手としてはかなりありがたいと思っているのだが…。


 自分の主人をこき下ろす彼は、どうにも気に入らないのだ。


 なかなか好きになれない男だが、友人であるし。

 数少ない来院者たちの話によると、地方にも顔の広い外交的な職についているとか。

 交友関係も多く、院の広報活動役として利用している打算的な理由もあって、ソフィーもなかなか無下にはできないのだ。


 まぁ、でも彼と話すたびに自分の愛を再確認できるから、良いと言えば良いのだけど。

 ソフィーはそんなことでくすりとひとり笑みをこぼした。


 そのとき、


「あ゛ぅ…、あ゛ぁ゛…。」


 近くの椅子に座ったままになる夫が無意味な母音を吐いた。

 ソフィーはくるりとそちらを振り返る。

 普段通り、何も変わらずボロ切れのような彼がそこにいた。


 窓の外はもう暗くなっていて。

 明かりのついていない部屋に浮かび上がる彼の姿は、もうおどろおどろしいぐらいだ。

 暗闇の中に佇む引き裂かれた肌や、ギョロリ飛び出た目が背筋を少し寒くさせた。


 …ああ本当に。


 気味が悪くて、禍々しくて、……とても愛おしい。


「どうしたの、クリス。」


 生前の彼の名でリビングデッドを呼んでソフィーは、月明かりだけを頼りにそちらへ歩いて行く。


 コツ、コツ、昼間よりもっと静寂に包まれた部屋にその靴音はよく響いた。

 妙にくぐもった、彼の声が呼ぶ方へとその足音は向かっていく。

 彼の座る椅子の近くでそれは止まり、ソフィーは彼をやわらかに抱き締めた。


 彼の頭に鼻筋が触れるほど近くまで彼に顔を寄せて、体中でそのひとを感じる。

 そのたびに感じる深い幸福感を今も確かめて、ソフィーはふくふくと笑んだ。


 しかしソフィーは、もぞもぞと動くものを視界の端で捉えて、はたとその一点に目を留めた。

 ボサボサに崩れた彼の頭髪。その上這う白い物体がそこにはいた。

 小さく息をつく。


「あらあら、また虫が湧いてきちゃったのね。明日また駆除しなきゃ。」


 薄く笑ってソフィーはそれを指でつまんだ。


 リビングデッドが流行して以来、彼らと共に過ごすための商品が多く出回った。

 たかる虫の駆除薬もその一つで。他にも、腐臭を消す消臭剤、止める防腐剤、リビングデッド用の汚れにくい衣服などが売られている。

 意思のない彼らが勝手にどこかに行ってしまわないように、専用の簡易探知機をつける人も出てくる始末だ。


 世界は急速にリビングデッドを受け入れ始めている。

 やっぱり、どこの誰も思うのだ。

 死んでたって、愛しい人は愛おしい。


 きっと、いつまでだって愛していられる。


 むわりと鼻腔を撫でた肉の腐る臭い。

 ソフィーは眦を下げて笑うと、そばにあった引き出しからスプレーを取り出して、彼に吹きかけた。


 どこか柑橘類を思わせる爽やかな香りが広がる。


「いい香りでしょう?新しく出たんですって。レモングラスっていうハーブの香りなのよ。」


 ソフィーは穏やかに彼に語りかけた。

 それはまるで世間話をするような軽さで、あまりに自然に出た言葉だった。


「あなたはハーブなんかに興味はなかったから知らないでしょうけど。」


 そう続けた声にも一つも淀みがなく、今にも低い声が返事をしそうなものだった。

 まぁ、そんなもの返って来るはずもないのだけど。


「アロマ効果もあるのよ。…素敵でしょ?」


 返事は無くともソフィーの方はどこか上機嫌にくすくすと喉を鳴らして、彼にそんなことを言って聞かせる、


 彼のほうはどうしようもなく『死体』なのだ。

 知能の失せたリビングデッドが、それを感知するはずもなく、醜い呻きを繰り返すのみ。


 その爛れて剥けた肌をうっそりと見つめて、ソフィーは彼の額に唇を寄せた。


「愛してるわ、クリス。私にはあなただけよ。」


 どろどろと蕩けた瞳が、山成やまなりに歪む。

 月の薄明かりしかない部屋で、その姿は童話に出て来る魔女なんかを思わせた。


 しかし残念ながら彼女には彼を蘇生させる魔法なんて使えるはずもなく、ただ死体の恋人に寄り添うことしかできない。


 それでも、彼女は絶望したりしないだろう。


「最期にあなたが教えてくれたんだもの。信じるしかないでしょう?」


 そう、だって彼は彼女に教えてくれた。


 この世には、永遠があるって。


 ソフィーはもう一度彼に唇を落とした。

 爽やかなレモングラスに混じってどこか酸っぱい異臭が鼻をくすぐる。

 それを感じて、形のいい唇がつりあがった。


「だから私だって永遠になるの。」


 だって彼はソフィーの『永遠』になってくれた。

 ソフィーだってなれるはずだ。

 彼の永遠に。そして、


「永遠に、あなたを愛する私に。」


 でも、今はその時じゃない。

 ソフィーが今この時永遠となることを、彼が望まないことはわかっているのだ。

 だから、ソフィーは静かにその時を待つ。


 それまで、彼を愛しながら。

 それまで、彼と過ごしながら。

 それまで、彼に寄り添いながら。


 コチコチと時を刻む秒針。

 その針を眺めてソフィーは小さく笑った。




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