第4話
「やっすい口説き文句。」
ソフィーは呆れ顔でからからと笑った。
エルナンドは、そのまま笑い続ける彼女に冗談まじりに気取ってみせた。
「野菜も肉も安い方がいいに決まってる。お買い得だよ?どうだいおひとつ。」
「安くたって粗悪品をつかまされちゃ意味がないわ。」
まるでワゴンセールでもするかのような売り文句だ。
ソフィーは意地悪く笑って器用にそれを受け流した。
粗悪品だなんて! まるでエルナンドがそうみたいだ。
いやまぁ、そう売り出したのはエルナンド自身なのだけど。
大体、と彼女は続ける。
「人を食事に誘うのにそのセリフは減点ね。」
「ははっ、確かにごもっともだ。」
脳内で繰り返すとあんまりにもお粗末な文句。
その指摘に思わず吹き出して、エルナンドは気の利かないそれを嘲笑った。
自分では多少なりともその気を利かせたつもりだったからだ。
正反対の結果になってしまった。もう笑うしかない。
「でもなかなか評判のいい店だよ? 粗悪品だなんて絶対に言わせないからさ。」
「ふふふ。」
挽回のつもりか、ソフィーの目の前で高級レストランの予約チケットをひらひらと振ってエルナンドは気をひくが。
その甲斐なく、あっさり断られてしまう。
「ごめんなさい、悪いけどお断りさせて。」
その宣告にエルナンドはわざとらしく肩を落としてみせた。
ヘラヘラと変わらない笑顔はまるでその回答を予測していたようで。
それもそのはず。
彼女と知り合ってから長いこと、エルナンドはソフィーを口説き続けていた。
出会いはいつだったか、どんなだったかも覚えちゃいないが、振られた回数だけははっきりと答えられる。
今日で通算156回目の失恋だ。
「…相変わらずつれないなぁ。」
「おいしい餌さえ下げてれば釣れるお魚だと思わないで。」
ぴしゃりとそう言ってソフィーはこちらへと視線を流してくる。
エルナンドは項垂れてみせた。
「少しぐらい釣れてくれてもいいだろう。…これを手に入れるのに随分苦労したんだぜ?」
「それはそれはお疲れ様。かわいそうに、無駄な骨を折ったわね。」
無駄になった予約チケットを力なく振って、机に突っ伏する。
しかし多少冷めた風にそう笑われたのではため息をつくしかない。
「憐れんでくれるなら今夜だけでもさ。」
「何度も言うわ、ごめんなさい。」
「ははっ、また惨敗かぁ。」
そうやってもう一度繰り返されたその言葉に、エルナンドは朗らかに笑った。
フラれた割には普段通りで、大して気にしていないようだ。
もともと期待はしていなかったのかもしれない。
しかしどうしてか、諦める気はさらさらないエルナンドはきっとまた次もこうやってソフィーを口説くのだろう。
ソフィーら静かに眉根を寄せた。
「あなたも本当に懲りないわね。」
ソフィーは苦笑いをする。
はぁ、とどこか悩ましげに吐いた息が机に落ちた。
「いつもいつも、こんな
困り顔でそう言ってたソフィー。
彼女のその言葉に毒気は全く感じられない。嫌味、というよりはからかう意味が強いからだろう。
「いやぁ、いたって必要はないさ。俺の心を独占するお医者様がここにいるからね。」
ソフィーを指差して意味ありげな笑みを浮かべるエルナンド。
それを呆れたように眺めて、ソフィーは顔をしかめた。
「独占だなんて、冤罪だわ。あなたが押し付けてくるだけよ。」
「受け取ってくれないからさ。」
エルナンドはにこやかな笑顔のまま肩をすくめる。
ソフィーがエルナンドの気持ちを受け取ってくれたことはない。いやだからこそこうして口説き続けているのだけど。
エルナンドの手の中で寂しげに揺れるチケットもそうだ。
彼女はエルナンドの心なんて、受け取る気がないのだ。
だって…ソフィーにはもう。
「貰ったって置く場所がないわ。」
「あはは、掃除でもすればいい。スッキリするよ。」
「いやよ、大事なものしか置いてないもの。」
押し売るように自分を売り出すエルナンドに流石のソフィーも困ったような表情になる。
しかし、それでもどこか慣れたようにエルナンドの押し売りを躱すのだった。
「あなたが諦めてくれると万事解決なのにねぇ。」
ため息とともに吐き出したそれは、交渉決裂の証なのだけど。
それを受けてエルナンドは、強気な笑みを作って。
むしろ堂々と勇ましく胸を張って応えた。
「諦めるもんか。俺は絶対に君を手に入れるつもりだからね。」
「あらあら、それは御愁傷様。」
エルナンドの言葉にソフィーは何がおかしいのか大きな笑い声を立てた。
そして、ひとしきり笑ってから彼女はこんなことを言った。
「だって私には主人がいるもの。」
「…。」
片手に頰を寄せてうっとりと笑うソフィー。
長い惨敗には慣れたものだったのだけど。
彼女の吐いた『主人』という言葉に、エルナンドは表情を固めた。
そしておどけた笑顔を引っ込めてようやくしかめっ面になる。
軽く息をついて拗ねたように頭を掻き回した。
「ああ、すっかり忘れていたよ。申し訳ないね。」
「いいえ、意外と忘れん坊さんなのね。」
あからさまに不機嫌になったエルナンドを大して気にした風もなく。むしろ慣れたようにあしらってソフィーは穏やかに目を伏せた。
『主人がいる』。
エルナンドはこの言葉を心底嫌っていた。
別に彼女が悪いわけでも亭主がいることにショックを受けているわけでもない。
むしろ略奪愛なら望むところだ。彼女への想いは契りを交わした夫にだって負けない自信がある。
何度も同じ文句で振られたものだが、決してそれがトラウマになっているわけでもない。
ならば、なぜこうも機嫌が急降下するのか。
これだけはどうしても、何度聞いても虫唾が走る。
なぜなら…。
エルナンドひっそりと歯噛みした。
「毎日そのことを忘れるぐらいにはね。」
「あらあらあら。」
ふふふ、とソフィーは笑った。
エルナンドは机に肘をつく。その手元で無駄になったレストランのチケットが寂しげに揺れた。
それを横目にソフィーは不意に席を立つ。
「全く、あなたも…。」
呆れた声でそう言って、硬い靴音を鳴らして足を進める。
一歩一歩行くごとに深いブラウンの髪と白衣が風をはらんで揺れる。
エルナンドは黙ってその姿を見ていた。
「本当に大胆ね。」
言いながら彼女は部屋の中央へと歩いていく。
受付のカウンターのすぐ前、そこにぽつり置かれているのは木製の上品な椅子が置かれていた。
使い込まれたように少々煤けたそこに座る誰かがひとり。
エルナンドはその人物を苦々しい思いで睨んだ。
「主人の前で人妻を口説くなんて。」
椅子に座る誰かにソフィーは腕を絡めた。
真っ白な白衣が汚れることさえ厭わずに、胸に抱き込んだ、影。
それはエルナンドがソフィーを口説いていた時からとは言わずに、彼女を訪ねてきた時からそこにいた。
いや、きっと来る前からずっと。先日顔を出した時にだってそこにいた。
「主人、ねえ…。」
その影は男のようなナリをしていた。
ような、と言ったのはもちろん見た目からしてただの男とは言い難い存在だったから。
べろべろに剥がれた土気色の皮膚と、見開かれて飛び出そうな目玉をもつそいつ。
外を歩いていたものとは違い、清潔そうな衣服をまとっている。
しかし、腹のあたりは血で汚れ。新品のままを保っているのは首元だけだ。
その姿はまさしく『リビングデッド』。
そう名付けられた、生命活動を止めて久しい『生命体』。
ひしゃげた体と力のない瞳孔の開ききった目。
生傷のまま塞がらない傷をだらだらとぶら下げて歩くその姿は…。
いつか見た映画のそれと酷似する。
このリビングデッドこそがソフィーの敬愛する亭主であり…。
エルナンドの恋敵だ。
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