回想#2.紗奈

 奈津菜なつな明人あきとを幼稚園へ送って帰って来て、家の掃除も終わった。雪乃ゆきの晴希はるきに母乳をあげていると二人とも眠ってしまった。奈津菜は私の長女で今年4歳だ。晴希は私の長男。早生まれで来年2歳だ。

 パパから見ると奈津菜が第一子長女で、明人が第二子長男で、雪乃が第三子次女で、晴希が第四子次男ということになるのか? 明人も雪乃も私の愛する梨花とパパの子だから私にとっても可愛い我が子だ。


 雪乃と晴希をリビングの畳コーナーに寝かせると、私はソファーに腰を下ろしてコーヒーを啜った。もう片方の手にはスマートフォンで、ニュースサイトを開いている。すると二つの記事が目に留まった。二つともスポーツ記事だ。


 一つは女子バスケットボール選手の現役引退。実業団に所属の選手だ。女子選手で、30歳までバスケットボールの現役を続けたのだから凄い。今年31歳だ。一時は日本代表でも活躍していた。

 もう一つは男子サッカー選手の移籍情報。日本のプロ1部リーグで今までずっとやってきて、2部リーグのチームに移籍するとか。今年30歳だ。年齢的なこともあってカテゴリーを落とすのだろうか。過去に日本代表の候補までは名前の上がったことがある選手だ。




 ふと回想をしてみる。あれは私が高校二年の時の卒業式の前日。つまり愛しの陸先輩が海王高校を卒業する前日だ。私達在校生は卒業式の準備に駆り出されていた。そして私は先生の指示で空き教室に荷物を運ぶように言われたのだ。


「なんで私だけこんな雑用を」


 一人での行動だったので、そんな文句を言いながら空き教室の前まで辿り着いた。すると空き教室の中から二人の女子の声が聞こえてきた。


「明日陸にこくるんだよね?」

「うん。気持ちだけは伝えたいから」


 空き教室のドアに伸びていた手が止まった。聞き覚えのある声と、その声から発せられた私の大好きな彼の名前。私は一気に強張った。そして会話は続く。


「わかった。見守る」

「ありがとう。じゃぁ、行くね」


 やばい、こっちに来る。私は慌てて隣の教室のドアを開け、身を隠した。隣の教室から空き教室のドアの開く音が聞こえ、そして人の足音が遠ざかるのがわかった。まだ私は動揺していた。とにかく出ても良さそうだ。私は廊下に出た。


「あ……」

「げ……」


 よくよく考えればわかるはずだ。会話の声は二人だったのだから。遠ざかる足音は一人分しか聞こえなかったのだから。もう一人はまだ残っているはずなのに、パニックだった私は完全に失念していた。出た先の廊下でばったり会ってしまったのだ。


「聞いてた?」

「……」

「よね……」


 会話が成立してしまった。私は顔に出ていたのだろう、気まずさが。出会ったのは海王のそらこと吉岡由香里よしおか・ゆかり先輩。いち早く私達の同棲を言い当てた人だ。当時は共同生活と表現していたが。私は当時から同棲のつもりだったけど。

 そして遠ざかった足音と陸先輩に告白をすると言った声の主は水野茜みずの・あかね先輩だ。茜先輩は顔を見たわけではないが。


「ちょっと話そうか」


 有無を言わせない物言い。私は黙って由香里先輩に従った。由香里先輩は空き教室に戻り、それについていく私。つまり私は図らずとも目的地に着いてしまったわけだ。そして私と由香里先輩は空き教室で対峙した。


「お願い。見逃して」


 突然由香里先輩が頭を下げた。私の目には心なしか涙が溜まっていた。私は声を震わせながら聞いた。


「茜先輩は陸先輩のことが好きなんですか?」

「……。そうなの」

「明日告白するんですか?」

「うん……」


 その後少しして由香里先輩は顔を上げた。しばらくの無言の後、由香里先輩は言った。


「最後に気持ちを……、伝えるだけなの。付き合ってとか、そういうことは言わないって聞いてる。だから見逃してほしい」


 私は一度鼻を啜り上げた。涙は流れていない。


「わかりました」

「本当?」

「はい。私は陸先輩の気持ちに自信がありますから」


 嘘だ。どれだけ自信があっても不安は完全には拭えない。だから自信は完璧ではない。ただの強がりだった。それでも由香里先輩は言った。


「強くなったね」

「え?」

「初めて見た頃は梨花や他の女子の存在に怯えてた感じだったけど。今は陸と色んなことを経験して、信頼関係がより強固になったって顔してる」


 そうなのか? いや、そうかもしれない。学校生活だけではない。私生活と仕事も通して陸先輩とは多くの時間を過ごした。会社設立に関してだって困難を一緒に乗り越えてきた。


 そして二人の支えになってくれたのが梨花だ。

 由香里先輩をはじめ、他の人たちは知らないが、梨花も私と陸先輩と付き合っている。王平おうへい不動産の不正や、キダGHグループホールディングスの内紛がわかった時は本当に苦労した。梨花は部活で疲れているだろうに、家事をかなり負担してくれるなど、すごく支えてくれた。


 三人での生活があったからこそ、そして三人で支え合ってこれたからこそ、高校に入学した頃より、更には陸先輩と付き合い始めた頃より、陸先輩からの愛情に自信はある。

 そう思うと、完璧ではないと思っていた自信が、完成されていくように感じる。すると気持ちが切り替わってきた。


「今日はどうして登校してたんですか?」

「あぁ。女バスと演劇部の送別会が今日なんだよ」


 そう言えば遥がそんなことを言っていたような気がする。だから由香里先輩と茜先輩は学校で顔を合わせたのか。


「由香里先輩ってスポーツ推薦なんですよね?」

「そう。体育大学でスポーツ医学勉強しながら部活やるの」

「だから看護系だったんですね。頑張って下さい」

「ありがとう」


 由香里先輩は優しい笑顔で言ってくれた。海王のそらではあるけど、表情の豊かさは段違いか。そらにも表情が戻るといいな。知り合った頃はもうあんな感じだったから、あまりそらの笑顔を見たことないのだ。


「紗奈はもう進路決まってんの? なんか難しい資格試験に合格したって聞いてるけど」

「えぇ、まぁ。最初は就職のつもりだったんですよ」

「そうだったの?」


 意外そうに声を出す由香里先輩。ここは進学校だから、確かに意外だろう。


「はい。ただその資格が結果的に今すぐはいらなくなって。だから大学に進学します」

「へぇ。どこ行くか決めた?」

「候補は大分絞りました。学部は経済です」

「そっか」


 そう言って由香里先輩は窓の外を向いてしまった。


「成宮先輩のこと聞いてもいいですか?」

「聞かないでほしいかな。最近あいつ一年の子に告られて付き合い始めたから」

「う……、それは失礼しました」


 そうだったのか。とんだ失言だった。つまり由香里先輩は失恋したのか。ん? 失恋したのか? そもそも付き合ってもいなかったわけだし、恋愛感情もよくわからないって言っていたのだから。


「私はバスケに生きる。もう決めた」


 そう言って窓の外を見る由香里先輩の目には力が籠っていた。そしてその言葉に説得力があった。

 なぜならこの年度のインターハイ。海王高校はあの桜木女学園に全国大会で勝ったのだ。ダークホースだと話題になった。しかも大会結果は見事優勝。サッカー部とのダブル優勝に学校中が沸いた。由香里先輩はその女子バスケットボール部の中心選手だ。


「じゃぁ、こっちは梨花のこと聞いてもいい?」

「それはちょっとご遠慮願いたいかと……」


 この人は海王のそら。下手なことを言っては私と梨花が付き合っていることまでバレてしまう。それどころか三人同時交際まで。この人の洞察力は侮れない。もしかしたら、既に思うことがあるのかもしれないし。


「そっか。じゃぁ、私そろそろ行くわ」


 そう言って由香里先輩は空き教室を出た。しまった、私は卒業式の準備の最中だった。それに気づいていそいそと働き始めた。


 翌日、陸先輩に確認するとやはり茜先輩から告白をされていた。けど付き合ってほしいとかは言われなかったそうで、気持ちだけ受け止めてきたと言っていた。そしてその夜、私と梨花を目一杯愛でてくれた。




 一年後。私が海王高校を卒業する日が来た。教室にいた私に声を掛けてきたのは2年連続同じクラスの大野愁斗おおの・しゅうと君。内容は梨花のことだった。その梨花も2年連続同じクラスだ。更には担任も森永先生。陸先輩が言っていた「守られてる」は本当だったようだ。


「俺、今日月原に告白したいんだ」

「え……」


 人気のない廊下まで私を連れ出しそんなことを突然言う大野君。そんな……。梨花は私の彼女なのに。本気の恋愛感情を梨花に抱いているのに。梨花がどれだけモテるかは知っているけど、私に直接言われるとさすがに凹む。


「日下部は月原と仲がいいし、たぶん月原の遠距離恋愛の相手のことも知ってるんだろ?」

「うん、まぁ……」

「その人とは親しいのか?」

「まぁ……」


 親しいどころか私の彼氏だ。そして本当は遠距離恋愛ではない。三人で絶賛同棲中だ。


「やっぱりか。だから日下部には事前に知っておいてほしくて」


 大野君は律儀だな。そして迷う。ここは私に大野君を止める権利はあるのだろうか、と。梨花との交際は秘密。そして梨花が陸先輩と付き合っていることも秘密。すごく複雑だ。私の彼女だから告白は止めて。私の大事な……。あ、そうか。


「梨花は私の大事な人の彼女だから。できれば遠慮してほしい……」

「そう思うよな……、やっぱり。けど、俺の初恋でもあるんだ。月原がどれだけ競争率が高いかも知ってるし、それに今は相手がいる。それでも……」


 大野君は卒業後、地方都市にあるプロサッカーのクラブチームへの入団が決まっている。そして既に東京を離れて練習に参加している。今日は卒業式のために戻ってきているのだ。


 大野君は三年生の冬の選手権までサッカー部に残った。そしてこの年度の成績は、インターハイで全国大会二回戦まで。選手権で全国大会三回戦までというものだ。全国レベルで見ればあまり目立たない成績ではある。しかし大野君個人は抜きに出ていて、プロのスカウトの目に留まっていたのだ。

 とは言え、海王高校サッカー部は夏冬連続全国大会なのだから本当に凄い。私の在学中は一年の夏だけが都大会止まりだ。そんな強豪校で一年の時から3年間レギュラーを守ってきた大野君はさすがである。二年の冬と三年の夏はキャプテンでもあった。


「わかった。気持ち伝えな。高校生活に悔いを残さないように」

「日下部……」


 安堵の笑みを浮かべる大野君。大丈夫、信じている。梨花のことを。大野君に本当の関係は言えないのはもどかしいが。


 しかし、どうして二年連続で卒業式の日にこんな苦しい思いをしなくてはならないのだろう。難しい交際である。けど、大野君は恐らくこれから同窓生とあまり会えなくなるわけだし、ここは私が引くしかない。


 そして卒業式の後、最後のホームルームが終わると大野君は梨花のもとへ行った。しかし、さすがは梨花。あっという間に男子から囲まれてしまった。告白合戦だ。そして自分の卒業年度。この年は一、二年生からも囲まれ、大変そうだ。


 と傍観していたられたのも束の間。私まで囲まれてしまった。なんだよ、まったく。私も梨花も全部断ったが。


 後から聞いた話、大野君はちゃんと梨花に告白をして、見事に玉砕したそうだ。一世一代の初告白が、他の人たちの告白に紛れてしまって悔しかったと言っていた。




 そんなことを思い出しながらニュースサイトを閉じた。さてと、雪乃と晴希が起きる前に家事を進めようかな。


 由香里先輩、現役お疲れ様でした。大野君、これからも応援してるね。

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