22.駆け引き~陸~
はぁ、やってしまった。土曜日の昼下がり、寝室でのこと。どうしてしまったのだ、俺。しかも本日2度目だ。背徳の念が半端ではない。
昨日、木田と過ごしたホテルを出てから、俺の頭の中は木田に対する申し訳なさと、紗奈と梨花のことでいっぱいだ。梨花に関しては理解できる。――と思っていた。けど違った。直視できないのだ。ぼうっとして、ふと梨花を見て、稀に目が合うとすぐに逸らしてしまう。今までこんなことは一切なかったのに。
そして戸惑うのが紗奈のこと。梨花と同じ目で見てしまうのだ。この気持ちは何なんだろう。二人に対する見方が変わったことは自覚できる。いや、木田とのことがあって押し込めていたものが出てきたのか。
ん? 待て。そもそも押し込めていたものとは何だ? 全くもってわからん。二人を見る時のこのざわつく気持ちが。
そして午前中の書斎での出来事。紗奈がいつものように揶揄って過剰なスキンシップをしてきた。揶揄ってやっていたのはわかる。しかし抵抗できなかった。それどころか幸福感さえも抱いた。終いにゃキスまでしかけた。いや、頬にはされた。あの時の満たされた気持ちと言ったらない。
なぜだ? なぜ揶揄っているのをわかっているのに俺は受け入れた? しかも紗奈は平気でキスをするし。俺はもしかしてあわよくばくらいに思っていたのか? しかもその後はデートの約束までして。デートと言う響きに心が躍ったし。
紗奈は昼食の時に午後は休みがほしいと言ってきた。そもそも仕事の手伝いは強制していないし、昨日紗奈が一人でかなり進めてくれていたから問題なかった。むしろ未だ落ち着かない俺の気持ちを静めるためにも、俺が手に付かない仕事を進めるためにも、その方がいいと思った。それで快く承諾した。そして紗奈は昼食の片づけが終わると梨花と一緒に出掛けて行ったのだ。
しかし一人になった家の中。俺はとうとうやってはいけないことをしてしまった。サンルームに干された洗濯物。紗奈と梨花の……、それで一回ずつ。それが冒頭の二度目に重なり今に至るわけだが、バカだ。最低だ。三人で一緒に暮らし始めて2ヶ月。この一線は絶対に越えてこなかったのに。とうとう俺はそのタブーを犯した。自己嫌悪が凄まじい。二人が帰って来たらどんな顔をして迎えればいいのだ。
プルルルルッ プルルルルッ
むむ? 書斎の電話が鳴っている。仕事だ。仕事をせねば。俺は急いで書斎に向かった。
「ありがとうございます。天地事務所です」
『オーケー製作所の
心臓が跳ねた。一気に仕事に意識が戻った。オーケー製作所の酒井専務だ。土曜日なのに出勤しているのか。
「お世話になっております」
『ご無沙汰しております。天地代表』
ん? おかしい。この人は俺のことを『天地君』と呼んでいた。恐らく高校生だから。最低限の礼儀は尽くしてくれていたし、お世話になっていたことは事実だ。しかしどこか高校生だからと言って俺を下に見ている印象があった。まさか……。
「お久しぶりです、酒井専務。声がお元気そうですね?」
『いやいや。代表みたく若くはありませんから。体中ガタがきてますわ』
「またまた。けどゴルフは行かれてるんでしょ?」
『やや。どこかで見られてましたかな。ははは』
はい、とりあえず、冒頭挨拶の雑談。恐らくここから用件が始まる。
『今日はご自宅にお見えのようで?』
書斎、つまり事務所の電話にかけてきて俺が出ればわかるわな。
「えぇ、自宅で細々と仕事をしてます」
『またまた。バリバリやられてるんでしょ? お若いのにさすがです』
「そんな、とんでもない」
そんなとんでもないお世辞をありがとうございます。利益を出すために毎日必死だよ。学校の授業中でもスマートフォンで株価の動向をチェックしているし、経済ニュースはアプリで逐一読んでいるし。
『もしお邪魔でなければ、この後伺ってもよろしいですかな?』
「この後ですか?」
『えぇ。最近お会いしておりませんし、ご挨拶をと思いまして』
今月末に株主総会で会うのに。けど魂胆がおよそ読めてきたぞ。お世話になっている会社の役員だし、無碍にするわけにはいかない。
「たいしたおもてなしはできませんが、ぜひ」
『とんでもない、お構いなく。夕方4時なんていかがでしょう?』
「えぇ、大丈夫です」
『では4時にご自宅に伺わせていただきます』
「はい、お待ちしております」
そう言って俺は電話を切った。うむ、面白くなってきた。いろいろと駆け引きが見られそうだ。4時か。紗奈もせっかく仕事を覚えてきたし、同席させようかな。
俺はスマートフォンを掴むと紗奈に4時から来客の旨、メッセージを送った。紗奈はすぐに返信をくれて、4時までには帰るとのことだ。
そして日が傾き4時になった。
酒井専務が製造部の部長を引き連れてやって来た。紗奈はもうすでに帰って来ていて、お茶出しもしてくれた。そして紗奈の紹介が終わると面談が始まった。梨花は風呂掃除をしている。
サンルームのブラインドは下ろしているから洗濯物は見られない。梨花の姿も見られていない。人の気配はお手伝いさんが家事をやっているというのが建前だ。紗奈は高校の後輩で近くに住んでいて、仕事の手伝いに来てくれているという設定だ。共同生活のことは隠している。
L型ソファーの短手方向に俺が、長手方向に酒井専務と部長が座っている。紗奈は俺の脇に座布団を敷いて床に座っている。先方が紗奈の容姿をやたら褒めまくるという雑談を経て本題に入った。
切り出したのは酒井専務。と言うか、部長は腰巾着のようでほとんどしゃべらない。
「実はですね、株主様の中のある企業さんがね、当社を子会社化しようと画策しておりまして」
きた。やはりこれが本題だったか。どこから入手した情報かはわからんが、とりあえず俺は今中立の立場。少なくとも今は学校の同級生の木田を立てたい。素っ惚けよう。
「そうなんですか? どちらの企業さんですか?」
「キダグループホールディングスさんなんですわ」
「また大きな会社さんですね」
「ええ。それで現経営陣は満場一致で子会社化を反対しておるのです」
やはり反対派だったか。昨日の崇社長の様子から確信に近いものは得ていたが、親会社ができることで、現経営陣の発言力と手取りの低下が反対の本音だろう。それを承知の上で質問を返してみる。
「それはなぜ?」
「やはり社員がかわいそうで。待遇が変わります。やりたい仕事もやらせてもらえなくなります」
「それは、それは。しかしそれほど大きな会社さんが親会社になったら安泰なのでは?」
「いえ。今とある新作部品の開発が終りまして……」
それを皮切りに酒井専務は事業計画を説明し始めた。部長が資料を提示してくれ、それは昨日崇社長から聞いていた特許の製品だった。事業計画書はなかなか良くできている。収益見込みも大きい。説明の最後にはこれが成功すれば当社の株価は間違いなく上がると念を押してきた。確かにそうだろう。ただ昨日提示された売却益と比較したらトントンか。
しかし俺はまず人で判断したい。経営者や社員の人柄。それに、今後社員の生活がどう変わるのか。その次が利益だ。人が良ければ会社に活気が出て、業績が伸びる。それが利益に繋がるのだ。だから一番は人と人に対する情が大事だと思っている。
「それで株を売却しないことをお願いしたいのと、次の段階として、株主総会で子会社化反対に票を欲しくてお願いに上がりました」
「そうですね……、御社の事業計画をもう一度熟読させていただいてからお返事します」
「ええ、何卒。それからこれは今日の手土産です」
すると部長が有名洋菓子店のケーキを差し出してきた。女子中高生に人気の店だ。
くそっ……!
俺は相手に悟られないように奥歯を噛んだ。お願いに上がる時は確かに相手の好みを把握して、それに合った手土産を持参するのは営業手法の基本だ。最近では受け取らない人や企業も増えているが。
しかし今目の前にいる酒井専務と部長は調べ過ぎだ。恐らく俺が紗奈と梨花と一緒に暮らしていることを掴んでいる。これは明らかにプライバシーの侵害だ。
「すいません。こういった物は受け取らないようにしておりますので」
そんなことはないが、俺は菓子折りの受け取りを拒否した。さすがにこれは冷めてしまった。
「そうでしたか。それでしたら近いうちにお食事でも?」
「いいですね。ただ学校があるので何とも言えませんが」
ちょっと様子見。すぐさま誘いに乗る返事はしない。
「来週の週末なんていかがですか? 美味しい料亭を知っておりますので。その後は懇意にしているクラブがありますのでそこに繰り出すなんて言うのは」
はい、アウト。俺は高校生だ。大人の店に入れるわけがない。それに個人情報を調べているのであろう。それならば紗奈か梨花が俺と深い関係だと考えるのが自然。それを紗奈の前で言うとは。
「そこのクラブがね、個室もあって融通が利くんですわ。代表の年齢も隠しますので」
違法ながら年齢のことはクリアしたか。しかし、後者がまだだ。あなたほど社会経験がある人なら奥さんの理解もあるだろうが、女子高校生に大人の店の理解があると考えているのだろうか? まぁ、ただ悲しいことに、本当は俺に深い仲の女子はいないが……。
それに対し、昨日の崇社長は商談が終わり次第、ほぼ学校の話を求めてきた。ほとんどは娘の碧のことだったが、俺の話も聞きたがった。酒井専務の誘いのように飲み食いと女ではない。食事と歓談だ。
まぁ、木田のしたことは本人が自ら進んでしたことなので考察除外だ。思い出すだけで心から申し訳なくなる。
「すいません。株主総会の直前まで中間テストでした。今月はちょっと無理そうです……」
俺はスマートフォンのスケジュール帳を開いてアピールし、お断りを伝えた。実際中間テストになっていたので憂鬱になるが。
「そうですか、それは残念です。では、またの機会で。検討の程、宜しくお願いします」
「はい、それでは総会で」
そうして酒井専務と部長は去って行った。恐らく俺が株主総会に出席することはないが。その前に手元の株を売ってしまうから。社員の待遇に関しては話を聞く限り、賛否両論と善し悪し両方があるだろう。しかしそれは多少の差があれども均してイーブンだ。
その後すぐ、書斎に戻ってのこと。紗奈が目を輝かせながら突然言った。
「陸先輩、超格好良かった。ビジネスマンって感じ」
「……」
マジでそんなに褒めないでくれ。今はあなたへの免疫が弱いのだ。くらくらしてしまう。
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