21.儚げな視線~紗奈~

 むむむ。まただ。今日の陸先輩は絶対におかしい。いや、昨日からおかしい。心ここにあらずといった感じだ。さっきからぼうっと遠くを見つめている。昨日は私が一人で仕事を進めたんだから、遠くを見てないで目の前のパソコンを見ろよ。自分の仕事をしろよ。


 今日は学校が休みの土曜日。陸先輩は昨日遅くに帰ってきた。夜の10時前だったかな。原因はサッカー部のマネージャーの木田先輩に拉致されたこと。

 私がその画策を知ったのは昼休み。私とオフィスラブの予定があるのに拉致とは何事だと思い、私は木田先輩の教室に駆け込んだ。すると昨年の体育祭での陸先輩の凛々しい画像データをくれたので、それで私が引くことで手を打った。


 しかし、帰ってきた時間は遅い。良からぬことでもしていたのかと勘ぐってしまった。

 すると帰ってきた陸先輩に聞かされたのは、商談をしていたという事実だ。なんと木田先輩が社長令嬢で、会社社長であるそのお父さんから接待を受けていたとのだと言う。陸先輩もその席で知ったそうだ。

 仕事なら帰りが遅くなるのは仕方がない。私は陸先輩の仕事を手伝うけど、仕事に理解のある良き妻でもあるのだ。


 けど、なのである。昨晩帰ってきてからの陸先輩は様子がおかしいのだ。ずっとぼうっとしている。まさか、恋煩いではないよな。にやけた面はしていないから何か事があったとは考えづらいが。けど、浮気はダメだよ、陸先輩。


 そしてまただ。遠くを見つめ始めると、一定の時間で私を見る。なぜ私を見る? 昨晩の接待に私は一緒にいなかった。けど様子がおかしいのはこの接待後からだと思う。私を見ることに何の関係あるのだ? そして私と目が合うとすぐに目を逸らすし。何なのまったく。


「代表?」

「……」

「代表?」

「……」


 だめだ。やっぱり心ここにあらず。今度は首を傾げたような体勢で机の上を見ているし。今、陸先輩の机上には書類が置いていない。そして目はパソコンに向いていない。仕事から意識が離れているのは明らかだ。それならちょっと私も脱線しよう。


「先輩?」

「……」

「陸くん」


 バッ!


 うお、反応した。勢いよく私の顔を見た。しかも陸先輩、顔が真っ赤だ。初めて君付けで呼んでみたのだが、それで反応するとは。一体、どうしたのだ? しかもまたすぐに目を逸らすし。顔は赤いままだし。体調でも悪いのか?


「体調悪い?」

「ん? いや……」


 会話は人の目を見て話せよ、まったく。けど、心配だな。本当に体調が悪いのだろうか? 私は一度立ち上がり、陸先輩の脇に立った。陸先輩の頭を掴んで自分の肩に引き込んでみる。なかなか素直だ。いつもみたいに抵抗しない。これはおかしい。

 そのまま額に手をやり、熱がないかを確かめてみる。この時少し陸先輩の頭を私の胸に当てたのはサービス。手のひらに陸先輩の体温を感じる。熱は……、あるかも……。それを確認すると陸先輩の頭を解放してやる。すると……。


 プシュー!


 正にそんな音でも出そうなほどフニャフニャになって陸先輩が机に突っ伏した。さっきよりも顔が真っ赤だ。


「え、先輩? 大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫」


 なんて締まりのない顔をしているのだ。もしかして照れている? あの陸先輩が? 私のスキンシップで? そんなわけ……。


 すると陸先輩がムクっと体を起こした。そして凛々しい表情でパソコン画面に向き直った。何だったのだ、一体。けど、ちょっと可愛かったぞ。そして何故だかわからんが、私のスキンシップを拒否しない。それならば一つ試したいことがある。


「ちゅっ」


 私は再び陸先輩の顔を引き込んでほっぺにキスをしてみた。やぁん、しておいてこっちが照れる。とうとうしちゃった。ついにしちゃった。陸先輩へのちゅう。私の唇が初めて人にちゅうした瞬間だよ。


 すると陸先輩は私を向いた。真剣な表情でまた顔が真っ赤である。やばい、これは本気で怒られるかも。どうしよう。逃げ場がない。こうなったら開き直ろう。ここはおチャラける。


「口にもしてあげよっか?」

「……」


 陸先輩、すっごい真剣な表情で私を見る。どうしよ……。さすがに今のは冗談だったのだけど。私のファーストキスは陸先輩と心が結ばれた時だと決めている。いつものように拒否してよ。この沈黙が嫌だ。むしろ怒られた方がマシだ。


 コクン


 え、嘘? 今首を縦に振った? 私の目から視線を外さずに私の言葉を受け入れた? いや、見間違いじゃない。確かに陸先輩は首肯した。どうしよう。するのか、私。陸先輩とキスを。ドキドキしてきた。落ち着かない。本当にどうしよう。

 陸先輩、今のは冗談だよ? そんな目で見つめられたら私も引くに引けないじゃん。陸先輩の方こそ冗談だって言ってよ。だめだ、引けないよ。


 私は陸先輩の頬を優しく包むと腰を屈めながらゆっくりと陸先輩に顔を近づける。陸先輩の目に吸い込まれるように、距離が近づくにつれて私の目が少しずつ閉じていく。あぁ、あと少し、あと少しで陸先輩に触れてしまう。先輩……。


 ガチャ


「はぁ、明日試合だから対戦相手のDVDに目を通しておかなきゃ」


 ばっ!


 私は陸先輩から素早く離れた。陸先輩も素早くパソコン画面に目を向けた。書斎に入室してきたのは梨花だ。あともう少しで私の唇と陸先輩の唇が触れるとこだった。まだドキドキが止まらない。


「あぁ、またそんなにくっついて」

「違うよ。ファックス送ろうと思って」


 陸先輩のすぐ後ろに複合機があって良かった。なんとか誤魔化せそうだ。


「ファックスって、原稿ないじゃん」

「……」


 目ざとい奴め。しっかり嘘がバレているではないか。私はこの後梨花にこめかみをぐりぐりされたのだ。すごく痛かった。


 そして書斎は三人になった。梨花は仕事の邪魔をしないように耳にイヤホンを付けて、パソコンでDVDを見ながらノートを開いている。海王高校のサッカー部は今インターハイ都大会の真っ只中だ。次の対戦相手の分析をしているのだろう。

 ただ陸先輩は相変わらずで仕事に集中していない。ぼうっと遠くを眺めて、そして私達を見て。そう、梨花も同じ場にいると私だけでなく、梨花のことも見るのだ。今まで陸先輩が梨花を見る時に目がハートだと感じることはあったが、昨日からは何か違うのだ。


 梨花は分析に集中しているから陸先輩に顔を向けない。だから陸先輩と梨花の目が合うことはない。

 ただ私は仕事を進めながらも時々陸先輩を気にしている。だから私とは頻繁に目が合う。そして梨花を見た時と同じように儚げな視線……そう、目がハートではなく梨花にもこの視線を向けるのだ。それが私の場合はドキドキする。落ち着かないから仕事中は止めてほしい。


 私が梨花のスマートフォンに個人メッセージを送ると、すぐに梨花のスマートフォンが振るえた。梨花は内容を確認すると私を一度見てにやりと笑った。梨花も昨日の夜から陸先輩の様子がおかしいことには気づいている。

 梨花はイヤホンを外し、パソコンを操作した。恐らく動画を一時停止させたのだろう。そして梨花は声を発した。


「先輩?」

「……」

「先輩?」

「……」


 やはり陸先輩は梨花の言葉にも反応を示さない。


「陸くん」


 バッ!


「うお、本当に反応した」


 梨花が感嘆の声を上げた。陸先輩、顔が真っ赤だ。本日何度目だよ。やっぱり照れなのか? 陸先輩は私と梨花の視線を感じて慌ててパソコン画面に向き直った。表情は凛々しい。さっきのことがあるから今度はすぐに切り替えたようだ。


『先輩って呼んでも陸先輩が反応しないの。けど陸くんって呼んだら反応した。梨花も試してみて』


 因みにこれが私から梨花に送ったメッセージだ。心配ではあるものの、なんだか面白いからこのままの陸先輩を玩具にしちゃうぞ。いや、いかん。仕事、仕事。そうだ、昨日の商談内容。


「陸くん」


 バッ!


 本当に何なんだよ、その勢いのいい反応は。面白いな。やっぱり顔真っ赤だし。けど、今呼んだのは仕事の話をしたかったからだからね。


「昨日売ってくれって打診があったオーケー製作所の株式どうするの?」

「あぁ、迷ってる」


 良かった。ちゃんと仕事モードに切り替わった。一度反応を示した時にすぐさま話を振れば、ちゃんと受け答えはできるらしい。


「条件としてはいい話だよね?」

「うん。けどオーケー製作所の専務とは懇意にしてるから」

「連絡は来た?」

「いや、来てない。たぶん木田社長は内密に動いてると思うから、こっちから連絡するわけにもいかないし」


 陸先輩がこうしてちゃんと仕事をするなら、もうこの言葉遣いと呼び方でもいいけど。


「私とのデートはいつしてくれるの?」

「え……」


 いきなり話を大きく脱線させてみた。もちろんわざとだ。悪戯心である。陸先輩があたふたしている。可愛いなぁ、もう。梨花はもうイヤホンを耳に戻していて、こっちの会話があまり聞こえていないようだ。


「約束してくれたでしょ?」

「デ、デ、デ、デートしてくれるの?」


 何? 何? その下手な言い方は。今までそんな言い方したことないのに。陸先輩の動揺も見て取れるし、逆にこっちがあたふたするよ。


「あ、明日、なんて、どう?」

「する」


 即答? そこで即答するの? そんなに私とデートしたかったの? どうしちゃったんだよ、陸先輩。私、ドキドキが止まらないよ。


「どこ行きたい?」

「えっと、先輩、となら、どこでも……」

「じゃぁ、紗奈が楽しめるように今晩デートプラン考えとく」

「う、うん」


 何よこれ。そんなこと今まで一度も言ってくれたことないのに。紗奈が楽しめるように、って言ったよ。どうなっているの? 本当に訳がわからない。


「ふぅ、こんなもんかな」


 梨花が終わったようだ。イヤホンを外したからこの話題は止めよう。せっかくデートできる話になったのに梨花に邪魔されたら叶わない。そして梨花はノートを持って書斎を出て行った。


 ……。


 て言うか、だめだ。二人きりのこの空間、これ以上陸先輩を直視できない。もうすぐお昼だし、少し早いけどキッチンに行こう。恥ずかしくてここにはいられない。

 そうだ。昨日一人でお仕事頑張ったし、月初でそれほど忙しくはないし、午後はお休みもらえないかな? 梨花を誘ってどこか遊びに行こうかな。ご飯の時、陸先輩に相談してみよう。

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