第17話開聞岳山頂にて
開聞岳は薩摩半島南端に位置する円錐形の今は活動を休止している活火山である。日本百名山に選ばれている標高900メートルほどの山である。夏は暑く風や光をも遮る鬱蒼と生い茂る樹木の葉のせいでサウナの中を歩くようだと酷評する者もいる。下手をしたら熱中症になり救急ヘリコプターの世話にならないとも限らない。
晩秋から春にかけては雪も降らず樹木の葉も薄くなり、射し込む光や青い海を眺めながら登ることが出来る登山初心者から中級者が登るのに格好の山である。しかし油断は出来ない。頂上にたどり着くには岩場もあり、樹木の枝を握り、ロープや梯子、自ら用意するステッキ、手袋の助けを借り、はい登るように進むしかない。かといって地元の元気な若者は運動靴で山頂までかけ登る者やコンビニで買ったペットボトルをスーパーのビニル袋にぶら下げて登って行く若者もみかける。
頂上は溶岩が冷えて固まったままのゴツゴツした岩肌が剥き出しになっていて、風化して出来た転石は見当たらない。
下りも大変である。岩の棚や杖に頼りお尻を岩場に預けて下らねばならない。所々、数千年前の噴火の名残の軽石が山積し、まるでビー玉の上を歩くように尻餅を着くのである。
思うことがあり、昨年の秋から4月になった最近まで数回、山頂を目指した。
これから書くことは春盛りの先日のことである。
晴れているが、生憎の春霞で遠くを望めそうもないが登る機会があった。山頂にたどり着くと10名前後の者が既に居た。ある者はお湯を沸かしコーヒーの楽しみに、ある者は持参した弁当を食べ、眼下に池田湖が微かに霞んでいるとは言え、記念写真を撮る者もいた。
狭い山頂を探検し皇太子殿下登頂記念というプレートを発見し、平成天皇も登られたと質問する者がいた。いや違う今の天皇陛下、令和天皇がお父上が天皇陛下になられた直後に、この山に登られた。若い皇太子殿下も心に期すことがあったのだろう。この山は天皇家にとっても特別な意味を持つ山です。何しろ知覧や万世の飛行場を飛び立った特攻兵達が眺めた本土の最後の山だ。飛行場を飛び立った特攻兵はこの山を目指し次は硫黄島と屋久島目指し、南西諸島の島々を辿り、本土の見収めと開聞岳を見下ろし沖縄に向かった。
と年配の男性が説明した。
子供が感心して、へえ、この石板は皇太子殿下が背負い登ったのと質問する山頂は笑い渦につつまれた。
笑い声が収まった時である。
頂上から数メートルしか離れていない赤い鳥居を備える祠からパンパンと大きなかしわ手を打つ音がした。
異変はその時から始まった。
春霞が突然、見る見る内に濃くなっていくのである。山頂に佇む者たちは全員、驚いた。
そしてあたかも、幕が降りるように漆喰の闇が天空から降りて来たのである。
山頂は混乱した。
「こんなことあり」と、悲鳴を上げる若者もいた。
毎週のように頂上を目指していた自分も気休めを言う余裕もない。突然の変化に座り込むしかない。いよいよ数メートルの位置の人影も見えなくなる頃に、皆、動かないで、隣に人がいたら手を繋いで若い女性の声がした。
その頃からである。
周囲の声は不思議なことを語り始めた。
父は足を失った。父の兄は戦艦大和とともに海に沈んだ。伯父は遠い南国の山野に倒れ遺骨の一欠片も戻って来なかった。祖母の姉は長崎で原子爆弾の犠牲になった。東京で空襲で死んだ。伯父は無事、戦地から帰って来たが生まれ育った家の敷居を跨ごうとせず、渡世の世界に身を投じた。私の叔母はアメリカ兵の花嫁になった。
僅かな間、山頂で一緒になった者とは言え、告白する声は全て聞き覚えがあった。先まで眼下や遠い島影の景色を愛でていた聞き覚えのある声である。しかし、どの声にも怨みなど感情は籠っていず乾いていた。70年前も昔の話であり、歴史上の物語となっているようであった。彼らは何ら屈託もなく、自らの先祖の記憶を告白しているように見えた。私は違った。
私は竹という叔母の存在を思い出していた。
私が生まれたのは奄美大島という島であり、昭和29年に生まれた。奄美大島昭和28年12月のクリスマスの日に本土復帰を果たしており、元々、貧しい島であり、戦後の苦労も筆舌に尽くしがたいものがあったに違いない。
私の最初の記憶には本来あるべき母や父の記憶ではなく、竹と言う叔母の記憶である。竹は父の妹である。私の父と竹を産んだ母である牛という祖母の記憶から始まるのである。
竹は私を背中におぶり、山を越えて隣の村まで連れて行った。
竹は公衆水道の蛇口で水遊びをした。私は暑い日差しの下で竹を見ているしかなかった。
祖母の牛は、いつも気難しく竹を叱っていた。直ぐ隣の家の住民を恨んでいるように見えた。
ある日、突然、竹は私の目の前から姿を消した。
父と母の記憶は竹が姿を消した頃から始まっている。
そして竹が戻って来たのは、私が小学生3年生になった頃である。竹が何処に行ったかも知らなかったが、直前に祖母から竹が戻って来るが嬉しいかと聞かれて、素直に嬉しいと答えた。竹に会った時には竹とのことを覚えているかと聞かれて覚えていると答えた。竹は同じような質問に覚えていないと答えた。彼女の表情に怒りを感じ、応えにガサツさ感じ怯えた。幼いなりに、直ぐにこの竹と言う叔母がまともでないと直感した。父との間に諍いがあり、竹は直ぐに姿を消した。その頃から私の父に対する印象が悪くなっている。竹には、それ以降、会ったことはない。
竹の精神分裂病を患っていると言うことを知ったのは高校生になった頃であった。ひどく傷付いた。自分なりに精神分裂病という病で今で言う統合失調症であると言うことを知った。漠然とした不安を感じながら、精神疾患全般や精神疾患が発生する理由についても関心を持った。密かに遺伝性の病ではないかと思うこともあった。
三十二才の頃に沖縄勤務をした時のことである。私は隣家の息子の家に招かれた。粗末な家であった。天井は無く低いトタン屋根が頭に迫り、壁は内装も施されていず、細い柱が剥き出しになっていた。床も土間から数センチしか浮いて居なかった。彼は私の成功を喜んでくれた。彼とは年も離れ、それまで面識も無かった。
何気なく竹の話をした。私と隣家を住民を結び付ける記憶は竹の存在であり、祖母が隣の家の者たちをひどく憎んでいたような記憶だけである。
彼は竹が敗戦間際に沖縄に来ていて、その時は普通だったと証言した。敗戦間際の奄美大島に若い女性が働ける仕事がある訳がない。本土とは分離されたままであり、奄美大島の女性たちの多くは沖縄に働きに出掛けるしか無かったのである。まして私の産まれた村は平地が乏しく農業にも向いていなかった。竹は沖縄で精神分裂病を患って帰って来たのであろう。
竹が居なくなった後の記憶に母親や女たちが大島紬を織る間に交わした記憶がある。彼女たちは誰某の家の娘はアメリカ人の嫁になったと言う言葉が語られていた。牛が怨む隣の家の名前も出ていた。その隣家からは、時より悲しげな蛇味線の音に合わせて父親の唄が聞こえた。
想像するしかないが、竹はアメリカ人の花嫁になったのか、あるいは戦場の後始末を担う仕事にありついていたかも知れない。沖縄の戦争跡の光景の惨さは筆舌に尽くしがたかった言う。その後始末は奄美大島から働きに来た青年たちが担ったと言う。まだ中学を卒業して間もなかった竹は、そこで精神に変調を来したに違いないと想像するしかない。
そして竹が隣家の娘たちに勧められて沖縄に渡ることになったに違いない。私が記憶の隅々を探る間、暗闇の中は静まり返っていた。そのように理解すれば、祖母の牛の隣家に対する怨みも理解できる。また彼女は幼児の子守りをさせることで竹の回復を願ったのかも知れないとも思う。
パンパンと柏手を二度と叩く音がした。すると漆喰の暗闇の中に、仄かな光が戻ってきた。
山頂の人々も安堵する声も聞こえてきた。
完全に前のような、かすかな春霞が山頂に戻り、互いに顔を見合わせることが出来るようになった時に人々の顔には自己の秘密を打ち明けた後のような晴れがましい顔になっていた。
互いに親しみを感じ合う雰囲気であった。
私も周囲から親しみを込められ受け入れられた。長年、心の中に抱え込んでいた秘密を闇の中で打ち明けていたようである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます