第18話父の板付船

二年前の夏に二歳違いの弟が出稼ぎ先の東京の急性肝硬変で野垂れ死するように他界し、今年の一月早々に四歳違いの妹が他界した。実は母は長男の私が仕送りしていた金子などを秘かに貯めていたようである。その金子は二百万円には及ばなかったが、弟の不幸の際には離婚した妻に従った実の息子夫婦を東京に出向せ、妹の前年に乳がん除去手術を受けさせたる時に使ったが、子共たちを救うにはほど遠いものである。乳がん摘出手術後の抗がん治療を続けさせるか否かは亭主や息子に任せるしかないと覚悟を決めた結果である。

 妹の死を死を私は母の病室で告げた。母は、「あの子が一番、心が奇麗だった」と慟哭し、彼女の死を悼んだ。その後、私は、意識のある母の病室を訪れることはなかった。医師から延命処置を望むかどうかと確認を求められる時に妹と二人で病室を訪ねた。特別な延命治療は望まなかった。数日後、息を引き取った。妹が息を引き取り、わずか二か月後のことである。


 十五年ほど前に他界した父のことも書き残しておこうと思う。

 私たち家族は自分が十歳の頃、奄美大島を着の身着のまま、鹿児島の父の妹夫婦を頼りに引き上げて来た。自分の記憶に残る奄美大島での記憶は父の妹が鹿児島の精神病院から退院してきた時から暗転する。精神病患者の妹を気にかけてることは父にとっても大変な負担だったに違いない。子供たちを抱える母は一刻も村を逃げ出したいと思ったに違いない。父はその頃に重度の糖尿病を患い、島での生活を諦めるしかなかった。

 父は島を離れる時に、生計を立てるために購入した小さなサバニを手放すことを、ひどく残念がった。手に入れて一年も経っていなかった小舟である。板付船とは沖縄でサバニと呼ばれ本格的な漁師船に似ているが奄美大島の板付け舟は外洋航海に相応しくない形状だと言われている。それでもサバニを持つことは自活を目指す男にとって夢だったに違いない。それを失うことは自らの病気のせいだとは言え、父にとって夢を絶たれた瞬間だったはずである。父たちの時代は奄美大島にには薩摩藩支配時代から受け継がれていた家人という経済的奴隷制度の記憶が生々しく残っている時代である。

 財産らしいものを一切、処分し、島を離れた。

 島を離れてからも貧しいままであった、その貧しさは今も変わらないかも知れません。

 父が他界するまでの数十年間、私は父に対し他の兄弟に比べてもひどく冷酷で親不孝な息子であった。

 ひどく貧しい生活を送らざる得なかったせいかも知れない。私に残るのは貧困の記憶のみである。半額の売れ残り商品を探しスーパーの売り場を徘徊しても、母や兄弟など家族に対する肩身の狭さを感じる。

 供養も満足にできず、母の長生きのお祝いにロブスターを食べたいという望みにもこたえなかった。

 母が死去したのは三年前のことである。肺炎であった。八九歳になっていたと思う。もちろん悲しかった。しかし、それ以上に悲しかったのは四才下の妹の死だった。五八歳だった。一年前に乳ガン罹患が分かり、家族でお金を都合し、摘出手術を行なわさせたが、抗がん剤治療まで面倒を見てやる余裕はなく、ガン再発で死去した。ガン摘出後の抗がん剤治療さえ続けておれば、もう少し長生きできていたかも知れない。まるで妹も彼女の夫も生き続けることを望んでいなかったように思えた。母は妹の死後、一ヶ月半ほどで後を追うように死去した。死去する前に妹の死去を隠し通しておくべきか迷ったが、話すことにした。辛い役目だった。

 ニ才年下の弟も、その二年前に五八才で死去した。東京に仕事で行き、急性肝硬炎であった。離婚したが、息子を遺していたので息子に頼み遺体を火葬に付した後に、ひっそりとお寺で葬儀のみを執り行った。


 多くの後悔を残して旅を続けている。せめて家族の死を書き残すべきだと思い続けた。その上で自分が思春期に打ち立てた人生の目標を追求し、旅を続けている。

 貧困の記憶は、未だ消えず。 

 

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