第6話蟻とキリギリスの話
キリギリスが同じ床下に住む小さい蟻に号泣し訴えた。
「ひどい目に遭ったな」
蟻は慰める言葉に窮しながら言った。
彼もキリギリス一家を襲った悲劇を知っていた。
以前から床上の住民の騒動には気付いていた。
だがまさか、その騒動の煽りが床下まで及ぶことになるとは想像もしていなかった。
もともと蟻は、暖かい夏の間、歌って過ごす怠け者だったが、蟻の説得でキリギリスは心を入れ替えて働き者なり、二人は信頼できる隣人同士になった。
その隣人のキリギリス一家を悲劇が、思いも寄らなかった悲劇が襲ったのである。
キリギリスも蟻もネズミから身を潜め生きていた。
キリギリスを襲った悲劇の元凶は半年前にも遡る。
床上の家族にある女が同居するようになったことが悲劇の発端だった。
その日まで、その女は遠く離れた精神病院に隔離され入院していた。
快癒したということで退院をすることになった。
女が帰ることを子供は素直に喜んだ。
一番上の子供の記憶には彼女の背におぶられ村中を見て回った記憶や小高い丘から、村の家々や沖の珊瑚礁の海を見渡した楽しい記憶だけが色濃く残っていた。女が自分の前から突然、姿を消したことを不審に思っていた。
「気が狂ったの」
もちろん子供には気が狂うなどいう意味が分かるはずはなかった。
少年の周囲にはキチガイと呼ばれる者たちが多くいた。
彼女だけが遠く隔離されねばならな理由が理解できなかった。沖縄戦から命辛々、生き延びてきた者が狂気の体験に耐えきれずキチガイのようになって帰ってきていた者たちである。
沖縄で彼らが目にした光景は山野に放置された腐敗しかけた人の遺体や銃弾で穴の開いた鉄兜や水筒だった。生きている者の心も荒みきっていた。彼らの仕事のそれらを片づけることだった。
子供の周囲には狂気に陥った者たちが多くいて、その者たちと女の区別が出来なかった。
子供は遊んだ記憶を辿りながら女が帰るのを心待ちにしていたが、その女の姿を見た時、子供心で違うと思い始めた。
父も自分の息子を自分の妹から遠ざけたかった。
母親は快癒した娘を息子が邪険に扱っていると非難した。
こんなことが原因で、半年間、小さな諍いが絶えなかった。
怒りが真昼に爆発したのである。
蟻もキリギリスもその時間帯は暑い日差しを避け、床下の鉄の斧の下で休息をすることが日課になっていた。
その日も、息子と母親は娘のことで諍いを繰り返した。
二人の母親を庇おうと、母親に向かってそのようなことを口にすると泡を吹き、気の狂った娘が絶叫しながら、床下から斧を引っ張り出し襲いかかろうとした。
「母に謝れ。母に謝れ」と。
娘は斧を片手に堅く握り締め、兄に迫った。
二人の間の母親が慌てて止めに入った。
母親はあの時の女である。
キリギリスも蟻も思い出した。
「鼠はハブの餌になる、鼠が家に巣を作ればとハブがやって来る」と言いながら、裁縫箱の針で子鼠たちの延髄を突き刺し、息の根を止め女である。蟻もキリギリスも鼠のことを思い出し、不吉な予感を覚え、用心し周囲を見回した。だが、その時は、鼠は近くにいなかった。
母親は何でもないと言い娘の気を静めた。
女の狂気は、やがて収まった。
その後だった。
突然、鼠が柱の影からキリギリス一家を襲ったのである。
女が奪った床下の錆びた斧は鼠たちの隠れ家だった。そこは日中は冷え冷えとしていて住み心地の良い隠れ家だった。女にその隠れ家を奪われたキリギリスたちは石ころの下に隠れようとしたが、突然、ネズミに襲われたのである。彼らに逃げる余裕なかった。キリギリス一家は食い散らかされた。
彼らを喰い散らかしたネズミは産まれたばかりの子ネズミを針で刺し殺された子鼠たちの母ネズミであった。母ネズミもあの日を境に狂気に陥っていた。
辛うじて蟻の前で号泣するキリギリスだけが生き延びた。
キリギリスが顔を上げた時、彼の目が怪しく光るのに蟻は気付いた。
ネズミの狂気が彼にも伝染をしていた。
密集し閉塞された環境下では、狂気は容易に伝染する。
狂気の伝染を防ぐためには狂気に陥った者を隔離するしかない。
キリギリスより小さな蟻はその法則を思い出し、恐る恐る身を退けた。
キリギリスが蟻に襲いかかった。
数日後、床下から蟻の姿もキリギリスの鳴き声も消えていた。
床上に住んでいた気の狂った女も子供の目の前から姿を消した。
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