第5話月下のコウモリ

 記憶の底を覗いてみよう。

 産まれた海に面した殺風景な南の島の集落であった。十年間ほど過ごした土地である。だが、これまで一番、長く過ごした場所である。

 その懐かしい集落名を思い出せず愕然とした。忍び寄せてくる老いのせいだろうか。

 珊瑚に砕ける海なりの音、鋭い雷鳴、雲が空を覆い突然に襲ってくる夕立、海を赤く染め尽くす夕日。

 薄暗い石油ランプの明かりが頼りだった。

 電気の灯りに初めて触れたのは五歳の頃だった。空に厚い雲が空を覆うものなら村の路地も漆喰のような闇に塗り込められて、一寸先も見えない世界になった。

 ところが空が晴れ月が煌々と輝く夜に村の路地を哀愁がこもる短い旋律が村の路地に流れた。ゆったりとした哀愁の籠もる旋律は、まるで悪魔を説得し、村から払う歌声であった。

 歌っているのは初老の女だった。歌詞の内容は気分で日々、変わった。

 もと歌の歌詞は「月のかいしゃ十七、八よ」という単調な内容で月も満月の十五夜を過ぎた十七夜、十八夜美しく、娘も十七、十八才の頃が一番美しいと掛け合わせただけの歌であるらしい。彼女ははるか南の島で生まれた。彼女が歌う唄は、その島に長く伝わるトゥバラマーという唄で、人々は、その時々の想いをこのメロディーに託して歌い続けていた。

 彼女の唄はは江戸時代も末期の一七七一年、百五十年前に沖縄の南に浮かぶ石垣島や宮古島の島々を襲い一万二千名の人々を海底に飲み込み村落に壊滅的な被害をもたらした高さ四十メートルを超える明和の大津波の物語を伝えた。

 それは小さな島が、せり上がる海面に飲み込まれる恐怖である。小さな地震が島を襲うたびに人々は沖の海鳴りの音に耳をそばだてた。

 彼女を慰めるように闇に包まれた村に、百年前まで薩摩藩の圧政に苦しみ続けた頃から伝わる哀調が染みた島唄が流れることもあった。

 彼女は子をなさなかった。だから隣に住む自分らの子を我が子のように大事にした。

 熱病にうなされて、僕は大きい丸い岩に追いかけられる悪夢に苦しんだ。正面には海に鋭く落ちる崖に向かい一直線に逃げる夢にうなされた。背後から転がり迫る大きな丸い岩から野原の一本道を逃げるしかなかった。目の前には海に落ち込む鋭い崖が見え隠れしていた。だが逃げても逃げても一向に崖が近づく様子も背後に迫る大岩が近づく様子もなく、永遠に恐怖だけが続くような夢だった。

 その時も耳元で僕は優しいトゥバルマーの歌声を聞き悪夢から目覚めたはずだった。ところが彼女も看病に疲れて寝入っていた。

 目覚めた時、全身汗まみれになっていた。

 そばで母も熱病に伝染し倒れていた。

 か細く灯っていた灯油ランプも消え、壁板の隙間から差し込む数条の光の線が、まるで髪の毛のように彼女の顔に揺れていた。

 黒いコウモリが家の天井を飛び回っていた。

 「この島に産まれた者の運命は決まっている。無知と貧しさにあえぎ、行き着く所は草も茂るらない村はずれの墓地だ」と意地の悪いコウモリは鋭い音波を発しながら出口を求めていた。

 やがて私は自分が生まれる十年前に沖縄で起きた戦争による惨劇を、戦後処理の出稼ぎからから沖縄から帰って来た者たちの口から知ることになった。

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