67 それでも世界は回る

「ああああああああああああ!」


 目を覚ますと同時。誠は己に突如現れた喪失感に絶叫した。

 何故忘れていたのか。何故思い出せなかったのか。彼女こそが原動力。誠が何よりも戻りたいと思っていた場所の象徴だったというのに。

 

 理由はそう複雑な物ではない。ASIDになりかけたことによる後遺症。物理的な要因はその一つに尽きる。そしてもう一つ。この時代においても彼が異世界と言う今となっては妄想に縋り付いて目を逸らしていたように。ただ認めたくなかったのだ。最愛の人物を一人置き去りにして自分だけが生き延びたという現実を。

 

 だがもう目を逸らせない。向き合うしかない。ここが現実。目覚めた時から無意識にその可能性からは努めて眼を逸らしていた。時間と言うのは決して超えられない断崖だった。異世界だと考えれば然程ショックは大きくなかったのだ。それはやはり現実味が無かったというのもあるのだろう。記憶の継続性が無かったことがどこか物語めいた感覚を覚えさせ、そして何かを感じる前にこの時代に適応せざるを得なくなり自身の感じていた物にその場しのぎの使命感で蓋をしていた。

 だが今は違う。逃げ場も無いまま誠はこれが紛れもない現実であり、自分の生きていた世界の遥か未来だと突きつけられた。

 

「華……」


 ようやく思い出した最愛の人の名前を呟く。そしてその最後の別れも明確に覚えている。十七歳から脈絡も無く異世界に飛んできたという感覚は最早ない。華が誠を生き残らせるために未来に送り出したのだ。

 そこに空想(ファンタジー)が入る余地は無い。徹頭徹尾彼の十七歳の西暦2016年の世界から航空歴607年の世界は地続きだった。


 誠にとって何よりも許しがたいのは。

 

「何で、思い出せないんだ……!」


 今垣間見た記憶以上の事が思い出せない。それどころかその顔さえも。これだけ愛おしさが募っているのに、彼女の笑顔を思い出す事さえ許されないのだ。

 好きだったはずなのだ。その笑顔も。些細な仕草も。気が付いたらすべてに夢中になるくらいに好きだったはずなのに。その一つも思い出せない。

 

 それだけではない。たった今自覚した。両親の顔も、妹の顔も、明確に思い出すことが出来ない。これまで改めてじっくりと思い返そうとしなかったから気付かなかった。ぼんやりとした印象しか残っていない。友人達もそうだ。あれだけ帰りたいと願っていたはずなのにその場所の記憶は酷くおぼろげな物だった。

 会えば思い出せるという予感がある。だがそれ以上に会わない限り思い出せないという確信があった。しかしそれは不可能な話だった。

 

 もう会えない。

 そう、もう会えないのだ。

 六百年という壁は人間には超えられない。どれだけ望んでも、祈っても、絶対に彼女に会う事は出来ない。彼女だけではない。異世界だと頑なに信じたかったのは、戻る方法があると縋り付きたかったが故。戻る方法が無いとなればそれは――両親、妹、友人達とも二度と会えない。意図せずに訪れた別離を受け入れたくなかったのだ。


 だけどもう眼は逸らせない。現実と言う名の陥穽が誠を捉えて逃がさない。


 これが彼の現実。生まれた時代から六百年未来で一人生き延びた結末だった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 端末に表示された各種データを見つめてエルディナは目を細める。総合的には良い数字ではない。だが前回値と比較すれば全体的にプラス、つまり健康に近づいているというのがよく分かる。総括すれば良好な経過と言えよう。

 

「ふむ……経過はまあ良好だね。予定通りともいえる」

「そうですか。良かったです」


 エルディナの診察を終えてルカは安堵の息を吐いた。誠には隠していたが……ここしばらく通院していたのだ。そのきっかけはと言えば先日の都市襲撃。つまり二度も撃墜された大型飛行ASIDとの戦いが原因だった。ただでさえ消耗している誠に自分の事で更なる負担をかけたくなかったルカとしては順調に回復に向かっているというのは嬉しいニュースだった。

 

「だが油断は禁物だ。かなり危ないところだったのだからね」

「分かっています。ありがとうございますマクレガン先生」


 ルカの現状はしばらくの間フレームに乗るのを禁止している。だがある意味では丁度良かった。今の誠の世話をする人間がミリア一人では相当難儀していたのは想像に難くない。軍の仕事を全てキャンセルして私情を優先できるのは有難い話だった。

 

「柏木様の方はどうだね?」

「相変わらずですね。かなりショッキングな記憶だったようで」


 あの日、雫が遺したデータを誠がヴィクティムを介して閲覧した時。その時からまるで心ここにあらずと言った風情だった。実際、今の彼の関心はきっと取り戻したであろう記憶にあるのだろうとルカは考えていた。そしてそれは当たっている。

 記憶を取り戻してから三日。その間ずっと誠はその事を――華の事を考えていたのだ。何かを思い出せないかと繰り返し日記を読んでいる。

 事前に頼まれていたAMウイルスに関する資料は昨晩優美香が離宮に潜り込んで届けたはずだが、その事も忘れている様だった。放っておけば寝食を忘れて没頭しているので世話係は必須だった。

 

「旧時代の記憶か。思い出せたからと言って必ずしも幸福とは限らない……むしろ忘れていたのには理由があったはずだというのを考えるとこれが吉と出るか凶と出るか」

「どちらになっても支えるのが私たちの役目……だと思っています」

「良い心がけだ」


 エルディナは都市内で誠の状況について最も熟知している一人だ。その為こうして偶に相談などをする時間はルカにとっても楽しい物だった。

 

「……君のメンタルケアは必要なさそうだね」


 ルカは一瞬それが何を指しているのか分からず、一拍置いて理解した。雫の事だろう。エルディナの言葉にゆっくりと頷いた。

 

「私も、お姉ちゃんもフレーム乗りですから。戦友が先に逝ってしまうのは慣れています」

「戦友か。そうだね。確かに君たちにとっては日常茶飯事ともいえる」

「はい。ですから私は大丈夫です」


 そう微笑むとエルディナも不健康そうな顔色ながらも笑みを浮かべた。残念なことに暗がりで見たら幽霊の類と見間違えそうな表情だったのだがこの場にそれを指摘する者はいない。

 会話が途切れるタイミングを見計らっていたわけではないだろうが、短い周期で赤いランプが点滅する。それを視界に認めてエルディナは表情を曇らせた。最優先通信――言い換えてしまえば離宮の物だ。

 

「……すまないねルカ君。用事が入った。今日はここまでにしよう」

「はい。ありがとうございました」


 一礼して立ち去っていくルカの背を見送ってエルディナは送信者の名前を見る。レオナルドの名前はエルディナにとってはそう珍しい相手ではない。度々医療についてのレクチャーを行っているある意味では弟子だ。こうして通信が入るのもおかしなことではないのだが……嫌な予感がした。

 逡巡は僅か。通信回線を開く。

 

「お久しぶり。レオナルド・クルーズ。先日の定期検診以来かな?」

『ええ。お久しぶりですマクレガン先生』


 久しぶりに見る彼の顔はどこか緊張に強張っている様だった。乾いた唇を舌で湿らせるというのは余りレオナルドが見せない仕草だ。そして何より向こうから連絡をしてきたにも関わらずこうして話題を切り出すのに躊躇っている様子から先ほどの予感は間違っていないと確信する。

 

『単刀直入にお聞きします。マクレガン先生』

「ああ。なんでも聞いてくれたまえ」


 これほどの前置きをして聞いてくる重大事。エルディナには然程多くは思い至らない。更にここ数日の変化を考え、レオナルドが何を研究しているかと言う前提条件を加えると見えてくるものがある。

 

『AMウイルス。アンチマンウイルスなんてふざけた名前の物は存在しない。貴女はそれを知っていましたね? マクレガン先生』


 その問いかけにエルディナは深々と息を吐いて一瞬目を閉じた。口を開いて出てきた言葉はレオナルドの問いに対する答えではない。

 

「どこでそれを知ったのかね?」


 だがその問いかけは彼の問いに是と答えるも同然の物だった。レオナルドの表情が悲しげに歪む。師に、延いては都市に裏切られたことに対する悲哀の情が堪えきれずに顔を覗かせてしまった。

 

『……誠の持ってきてくれた情報です』

「情報は遮断しておいた筈なんだけどね……彼もいろいろ手管を持っている様だ」


 特に今回の情報は必要以上に広まらないように都市側でも調整しているはずだった。こうしてそれを擦り抜けたのは例外的な特権を持っている誠が絡んでいたが故かとエルディナは推測する。今回の遠征は、大失敗だと喧伝されているがその成果は過去最高だと言う話は事実だったらしいと評価を改める。

 

『ではやはり』

「ああ、君の言うとおりだ。アンチマンウイルスなんて物は存在しない」

『アシッドメタモルフォーゼ……塵中毒も本来同じ物。そうなんですね』

「そこまで知ってしまったのか。ああ、その通りさ」


 知られたくなかった、と言うのがエルディナの本音だった。それは離宮の者に知らせるには不適切な内容と言うよりもただ単に、師として良い顔をしていたかったというひどく利己的な理由である自覚があるため彼女の表情も渋い。

 何故、と訴えかけてくるレオナルドの視線に応える様にエルディナは重い口を開く。

 

「言えるはずがないだろう。塵を吸い、一定量を超えるとASIDとなる。男性女性で初期症状の差こそあれ、その末路は変わらない。そんなことを公表したら忽ちパニックだ。都市外で作業をしたものはそれだけで差別の対象となる。たった十万の人類を割るわけには行かない」

『ならば! かつて教えてくださった弱性のAMウイルス……それはいったいどういう事なんですか? AMウイルスがアシッド化の事ならば生殖能力が落ちる物なんて出てこないはずだ』

「その質問をする前にもう一度よく考えた方がいい。答えを聞いてしまったら恐らく君は今までどおりではいられない」


 それはエルディナにとって純粋に弟子を思う忠告だった。だがそんな言葉で止まることも無いというのも分かっていた。分かっていてなお無駄な問答を挟んだのは、ただその問いを誤魔化すのも、正直に答えるのもどちらもエルディナには躊躇われるというだけの話だ。

 

『先生。教えて下さい』


 真っ直ぐにそう答えられて、エルディナは小さく溜息を吐く。後ろめたさで彼の眼を真っ直ぐに見ることが出来なくなった。

 

「これも一般には公開されていないことだが……ASIDは雄性体を優先して襲うという性質がある。特に一定数同種の雄性体が固まっていた場合襲撃率が格段に跳ね上がるというデータも。そこから浮遊都市では男性の数を一定にするという処置がとられた。……ここまで言えば聡明な君なら理解できるだろう?」


 その統計データはアークが唯一の浮遊都市となっても変わらなかった真実だ。その為に六百年の間数の調整をしてきたのも。

 端的な答えを聞いたレオナルドの表情をエルディナは見ることが出来なかった。ただ震える声が言葉を紡ぐのを聞くことだけが彼女に出来たことだ。

 

『それはつまり、管理していたという事でしょうか。我々離宮の男を。まるで、牛や鶏の様に! 一定数よりも増えないように時には去勢の様な真似までして!』


 表情を見るまでも無い。レオナルドは怒っていた。温厚な彼にしては珍しく――いや、もしかしたら生涯初めてかと言う程の激しい怒り。ある意味でそれも当然だ。今告げられた事実は離宮の男は家畜同然の扱いを受けてきたという事なのだから。

 

「それが人類を守る手だからだ」

『だったら。一人も残さなければいい! 人工精子で人を増やすことはできる。それで十分でしょう!』

「そうしたら今度は、ASIDを殲滅した後人類の復興に支障が出る。最低限の数は確保する必要があったのだよ」


 離宮の人間には決して知らせることの無かった真実を教え、エルディナは妙にすっきりとした気分になっていた。間違いなく自分はこの情報を暴露したことに対して責任を取らされるだろう。だが隠し事を明かしたというのは彼女にとって肩の荷が降りたと言ってもいい出来事だ。それを明かされた側は溜まった物ではないだろうが。

 

「軽蔑するかね? そんなことまでしてきた私たちを」

『……いいえ。そこまで人類存続の事を考え実行に移してきたことは敬服に値します。ですが……』


 そう答えるレオナルドの視線はエルディナからは明確に外されている。画面すら視界に入らないようにしているというのが分かる姿。絞り出すような声が喉から漏れた。

 

『しばらく顔を見たくはありません』


 そう言って通信は途切れた。当然の反応だろうとエルディナは諦観気味に考える。自分で言うと決めたにも関わらず虚無感が身体を支配する。だがそれでもレオナルドよりはマシだろうと考えエルディナはそっと目を閉じた。今日の仕事はもうない。このまま不貞寝しようと身体の力を抜いたタイミングで足元が大きく揺れた。

 

「……なんだか覚えのある感覚だね、これは」


 現在アークは着陸中なので地震と言う可能性もあったが、エルディナの持つ過去の経験は違う物を示していた。これは。

 

「浮遊都市に砲撃が命中したようだね」


 ◆ ◆ ◆

 

「……攻撃?」


 その振動は自室に引きこもっていた誠にも感じられた。瞬間的、且つ数度にわたる振動は地震ではないだろうという推測。着陸中であることを考えるとASIDの攻撃だという予測はすぐに立てられた。

 半ば反射的に立ち上がろうとしてふと思い直す。

 

 果たして戦う意味はあるのだろうかと。

 

 どれだけ戦いを重ねても帰りたかった場所には届かない。彼が望んでいた楽園は遥か以前に喪われている。それでもまだ戦う事に意味はあるのかと思ってしまった。一度でも浮かんでしまうと止められない。考えないようにしても次々と思いついてしまう。それらの考えは胸に空いた喪失感を埋める様に滑り込んでくる。

 

 もう良いのではないだろうか。戦いに臨む意味は無い。守りたかった人は六百年の昔に喪った。ならば、もう。戦っていた理由は間違いなく華と言う少女を守るためだった。家族を守るためだった。自分が生まれ育った世界を守るためだった。そのどれもが存在しない。世界と言うくくりでさえ、最早彼が守ろうと思っていた場所は全て塵に覆い尽くされASIDの都合の良い場所に変貌している。

 

 ここで終わりを甘受することに何の不具合があるだろう。

 

 そのまま数分誠は動くことが出来なかった。


「誠様!」

「ご主人様……?」


 流石の異常事態にこれまで誠の好きなようにさせていた二人も部屋に駆け込んできた。床を見つめたまま座り込んでいる誠を見てミリアは戸惑いの声を上げた。幼い容貌に疑問を浮かべている。

 

「……誠様。優美香から連絡が入りました。ヴィクティムの応急修理は完了したと。既に気付いているとは思いますが浮遊都市周囲に大量のASIDが出現しています。防衛軍が展開を始めていますがあの数では長くは持たないでしょう」

「そうか……」


 危険な状態だと伝えられても誠は動かない。ただ力ない返事で答えるだけだ。視線を上げる事さえしない。見るのが怖かった。ルカの眼に、失望の色を浮かぶ瞬間を見たくなくて誠は視線を逸らし続ける。

 誠のその態度にルカが浮かべたのは果たしてどんな感情だったのか。一分程の沈黙を経て、固い声でただ一言だけ告げた。

 

「分かりました。誠様はここにいてください」


 そうしてルカが立ち去り残ったのは誠とミリアの二人だけ。幼い少女は何を言えば良いのか迷った末、最初に感じていた疑問を口にした。

 

「あの、ご主人様。行かないんですか……?」


 俯いたまま誠は答える。その声はミリアが嘗て聞いたことの無い程覇気の無い声。

 

「ああ」


 それは戦わないという宣言。その言葉にミリアはますます困惑を深める。何故戦わないなどと言うのだろう。その疑問が頭を埋め尽くす。

 

「もう戦う理由が無い」


 そう言われてミリアは思い出す。ほんの数日前の出来事。二人が一体化しかけた悍ましくも悦びを感じた出来事。その時に見た誠の内面を。ただ帰りたいと願っていたその姿を思い出した。

 あれは間違いなくその人の本心だった。偽る事の出来ない根源だった。だからこそ、ミリアにも理解できてしまう。その帰りたいという願いが戦う理由だとしたら確かに無いと言えるだろう。しかし。


「それ以外に、本当に理由は無かったの……?」


 雫が死んだ時の悲しみを覚えている。あの悲しみは嘘ではなかったとミリアは知っている。そして誠もそれを知られた事を理解している。力ない笑いが聞こえてきた。

 

「ああ、確かにこの都市で知り合った奴らは護りたいと思ったさ。だけど、無意味だった。結局俺は護れなかった。六百年前も、今も。肝心な物は護れない」


 みっともない愚痴を吐いているという自覚はあった。十七歳だとしても五つも年下の少女に愚痴るというのは情けない。どころか実際には倍近くも年が離れている。最早無様とさえいえる行為だ。

 だがそれでも誠は言わずにはいられなかった。

 

「どうして俺はこんなところにいるんだ。どうして俺は一人生き延びたんだ」


 理由はわかりきっている。誠が言いたいのはそういう事ではなく、己の運命を嘆いていた。

 

「俺は、あの世界を守りたかったんだ。守って、その結果なら死んでも構わないと思ってたんだ。なのに、どうしてその世界が滅んだ後に俺は生きてるんだ」


 こんなことなら、と誠の口が小さく動く。物音一つしない室内にその囁きの様な声はミリアの耳まで響いた。

 

「あの時死んだ方がましだった」

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