EX3 浮遊都市で暮らすために必要なこと

 スープを口元に運ぶ。そしてそれを音を立てないように流し込む。僅かそれだけの動作を終えただけで彼は軽くランニングをしたかのような疲労感を感じる。


 誠が今いるのは食堂、と呼ぶにはいささか上等すぎる空間だ。テーブルの上には純白のテーブルクロス。天井には燭台を模したシャンデリア。誠の知識ではここよりも立派な空間と言うのは幾らでも浮かんでくる。が、その場所がアークで最も格式の高い場と言うのならば話は別だ。


 何故そんな所にいる事になったかと言えば、アークに帰還してからの事だ。トータスカタパルトの撃退を報告した後。いい加減に一休みしたいが、一体どこで休めばいいのだろうと思った所で秘書官が誠とリサを連れて風呂に叩き込んだ。特に気にすることなくそのまま入ろうとするリサを制して交代で入って上がったら着ていたパイロットスーツは片付けられ、礼服の様な着替えが用意されていた。着慣れないそれに苦労しながら袖を通して何事も無かったかのように現れた秘書官に案内されてきたのがここである。


 テーブルに着いているのは誠、リサ、安曇の三名だ。どう言った場なのかよく分からず、質問しても食事の後にしましょうと言われてしまい誠とリサはサーブされていく皿を飲み込んでいく。


 スープも本来ならば野菜を中心とした深みのあるコンソメスープなのだろう。だがリサは余りの緊張が原因でお湯を飲んでいるとしか感じられない。

 サラダは彩豊かな野菜が綺麗に盛り付けられている。それだけで一種の芸術品のようにさえ感じられるが、今となっては誠に手を付けさせることを躊躇させる要因にしかなっていない。

 魚料理は浮遊都市ではありふれたものだ。最も簡単に、そして大量に獲れる動物性蛋白質としてこの都市の食糧事情を支えている生命線とも言える。だがその調理に掛かっている費用は生半可な物ではない。ヒラメのムニエル。誠の中ではそう難しい料理ではない。主な材料はヒラメに、小麦粉、そしてバターだ。スーパーに行けば簡単に揃う物ばかりである。


 だが浮遊都市においてバター、即ち乳製品は超が付く高級品である。この都市に牛は全部で三十七頭しかいない。乳を搾れる牛の数となるとその半分にも満たない十七頭である。そこから取れる生乳の量は年間約127トンだ。その全てをバターに変えたとしても一年あたり5543キログラムのバターしか作れない。それを一日辺り一人が使える量で割ると何と0.15グラムという数字になってしまう。つまり一年間で一人当たり55グラムだ。実際には全てをバターにするわけではないのでその四分の一程度――即ち14グラムしか一年間で得られない。


 それほどの貴重品である。今回のヒラメのムニエルには一人当たり15グラムのバターが使用されている。その事に気付いたリサが卒倒しそうになっていた。


 そして肉料理。仔牛ヒレ肉のステーキ。牛から肉を一キロ取るためには穀物が十キロ必要とされている。広大な土地で豊富に穀物を育てられるならば兎も角、この世界からすれば猫の額程度の土地で作った少ない穀物の中から更にそれを牛に振り分けるというのは誠が想像している以上に難事である。加えて牛の絶対数の少なさがある。不慮の事態で死んでしまったら牛と言う種はここで途絶える事になるのだ。三十七頭と言うのは人が全力で補助してどうにか維持できている数である。その貴重な牛を一頭潰さないと牛肉は食べれない。年老いて死んだ牛の肉でさえ貴重品なのだ。それが仔牛の物ともなれば毎年新年を祝う祭りのくじ引きの景品、その特賞として浮遊都市全員からの羨望の眼差しを一身に浴びている存在だ。


 肉汁が滴る厚い肉は噛み応えがある。一噛みする度に染み出てくる肉汁。そんな物を一年の間で食べれる人間は手足の指で足りる数しかいない。その事に気付いたリサは白目を剥いていた。


 飾った料理ではない。ただ香辛料を刷り込ませ、絶妙な火加減で焼いただけの料理だ。その香辛料がこれまた貴重品だ。限られたスペースで食料を生産している以上、穀物を始め野菜類が優先される。一度に取れる量が少ない香辛料は生産量が少ない。最もそれを必要とする肉料理の機会が皆無なのである意味バランスは取れているのだが。ちなみに塩は余る程ある。海水から真水を取り出す際の副産物だ。


 デザートはアイスクリームだった。もはや言うまでもないだろう。生乳、卵、砂糖。生乳の貴重さは既に述べている。卵。こちらは鶏を大量に飼育しているため比較的入手は容易な部類に入る。それでも月に数度と言う頻度だが。砂糖に関しては貴重な糖分と言う事で相当数が生産されている。浮遊都市の砂糖はサトウキビが原材料だ。それ故に穀物に次いで生産量が多い。


 そして全てを食べ終わり、食後のお茶――こちらは完全な嗜好品なので生産数が少ない。その中でも良い出来の物を選んで提供されている。残念ながら誠にはその良し悪しが判断できないのだが。


「どうでしたか? 旧時代の物と比較すると見劣りするとは思いますが」

「いえ、そんな事は。とても美味しかったです」


 喉を湿らせてから安曇がそう切り出した。それに対する誠の返事は本心だ。特に施設を出てから食べていたのが保存食料ばかりだったので火の通った物を口にするだけでも感涙物だった。ちなみにリサは緊張の余り味が分からなかったと落ち込んでいた。


「そう言って貰えると料理を作った者達も喜ぶでしょう。マコト殿のお蔭で浮遊都市は救われました。これはそのお礼だと思っておいてください」


 流石に毎回こんな食事は無理ですので、と笑顔で言い切る辺り釘差しも兼ねているのだろう。これ以上は我儘を言われても無理ですので、と言う。


「さて、ここで生活をするにあたってマコト殿にはいくつか守ってもらいたい事があります」

「制限、って言う事ですか?」

「誤解を恐れずに言うのならばそう言う事になります。ですがこれらはマコト殿を守るためでもあると言う事を理解してください」


 守るため? と誠は首を捻る。無言の疑問には答えず安曇は話を進めた。


「一つ目は一人での外出は避けてください。常にこちらの用意した人間か……そうですね、リサさんを連れて歩く様にしてください」

「は、はい!」


 ――思い出せ、思い出すんだボク。確かにこの舌はあの夢の様な料理を味わったはずなんだ。

 そんな独り言をぶつぶつと言っていたリサは安曇に名を呼ばれた事で飛び上がる程に驚いていた。テーブルが若干揺れたので本当に飛び上がっていたのだろう。


「特に夜道には気を付けてください。一人で出歩いたら危険です」

「浮遊都市ってそんなに治安が悪いんですか?」

「いえ、その辺に連れ込まれて子作りをされないように」

「滅茶苦茶気を付けます」


 予想とは若干ベクトルが違ったが確かに危険だ。何という修羅の国だろうと戦慄する。


「他の男性の方は離宮に住まわれていますが、マコト殿はそれも希望しないとの事でしたので住居は都市内に用意してあります。ですが男性がその辺をうろついているとなると浮足立つ者が出てきますので」

「ああ、補助金目当てでしたっけ……」


 以前リサに聞いた事を思い出してげんなりした表情で誠がそう言うと安曇は無言で首肯した。それを見てますますげんなりした表情を浮かべる。


「男子の確保は最優先事項と言っても良いでしょう。仮にASID殲滅が叶ったとしてもその時に男子がゼロ人では人類の再興など不可能……人工精子の精製技術が進歩し、Y染色体が可能となったとしてもその大元がいなければ意味が無いのですから」


 女性の染色体はXXだ。女性しかいない世の中になったらY染色体をどうやっても生み出すことは出来なくなってしまうだろう。今はかなりギリギリのバランスなのだと思い知らされた。


「話が逸れましたね。外出時は可能な限りの変装をお願いいたします。帽子を被る、首元を隠す、なるべく喋らない……それだけでいくらでも誤魔化すことが出来ます。通常男性は離宮にしかいませんので」

「離宮ってのは男性が住んでいる場所。その認識でいいのですか?」

「間違っていません。先ほども言いましたが、男性が一人でうろつくには危険ですので。同時にアークがASIDに襲われた時に一番安全な場所でもあります」


 見も蓋も無い言い方をするのならばシェルターと言う名目の監禁か、と誠は心の中で吐き捨てる。だがそうなると疑問なのはそこまでして男を隔離しているのに何故自分だけが自由を制限付きとはいえ許されるのかと言う点だ。まさかそうして欲しいと言ったから、などと言う事はあるまい。

 その疑問をそのまま口にする。


「それは簡単な話ですよ。現状マコト殿が協力してくださらないとヴィクティムと言う戦力は扱えない。今回の様な出来事があった時に無理やり言う事を聞かせるよりもお互いに利益のある交渉の結果、対応して貰う方が話がスムーズに行くでしょう。まあそもそも、無理やり言う事を聞かせると言うのが不可能と言うのもありますが」


 現在のヴィクティム一機で都市のアシッドフレーム部隊とほぼ互角の戦力だ。それにはサブドライバーの協力が必要不可欠なのだが、それを抜きにして誠一人だとしても手ごわい相手になる。そんな損にしかならない内輪揉めをするよりは、と安曇は判断したのだ。

 逆に、誠が無理やり浮遊都市を占拠すると言う事も難しい。浮遊都市が破壊されたら誠も住む場所が無くなる。ヴィクティムから一切下りずに恐怖政治を行うと言う手もあるが、それでは監禁場所が離宮かコクピットかに変わっただけで誠に得は然程ない。


 結局、お互いに欲している物を提供し合う今の形が一番良いと言う事になる。


「都市の居住区にある一軒家を用意しました。そちらを使ってください」


 そう言いながら手渡されたのは契約書めいた物だ。先ほど口頭で言われた注意事項も含め、幾つかの取り決めが書かれている。誠からはヴィクティムと言う戦力を。安曇からは都市内でのある程度自由な生活を差し出す契約。眼を通して自分に不利益になる様な物が無い事を確認する。人口増加への協力は都市側から強制出来ない事とすると言う一文があるのを確かめて誠はサインをした。


「はい、ありがとうございます。マコト殿の新居は私の秘書に案内させましょう。明日以降、都市内で生活するために必要な書類等の記入をお願いします」

「分かりました」


 正直に言ってもうクタクタだ。早いところ眠りたいと言うのが本音だ。だから、と言う訳でもないが誠は一つだけ見落とした。サインをした時に安曇が口元を吊り上げていたのを。


 ◆ ◆ ◆


 自動車、としか思えない乗り物に乗り込み誠は新居に案内される。ハンドルを握るのは秘書官だ。誠は既にうとうととし始めており、それを察した秘書官も声をかけないので車内は走行音だけがする状態となっていた。

 途中寝ていたため彼は気付かなかったが、市街地を抜け、住宅地も抜けて都市内でも郊外――言い換えれば外縁に近い区画まで車は入っていく。強化ガラスのドームが良く見える位置だ。


「着きました。起きてください。柏木さん」

「ん……。すみません寝てました」

「お気になさらず。こちらが家の鍵です」

「……デカいですね」


 てっきりどこかの集合住宅の一室を与えられると思い込んでいた誠は予想に反して立派な一軒家――屋敷と言った方が良いかも知れない――を与えられたことに驚く。


「安曇様の別邸として使用されていた物です。柏木さんがASIDと戦いに出ている間に荷物の入れ替えは行っておきました。必要な物があったら中の電話から私の方に連絡を」

「はあ……」


 眠気のせいもあって今一頭が回っていない誠を見て秘書官は小さく微笑んだ。


「大分お疲れの様ですね。今日の所は休まれると良いでしょう。部屋はいくつかありますのでお好きな場所をお使いください」

「そうします……すみません」

「仕事ですので。それでは」


 そう言い残して秘書官は去っていく。車は屋敷の駐車場に停車されたまま、足音を響かせて。もしかしてこの車使っていいのだろうかと誠は思ったがすぐに眠気が思考の邪魔をする。今日は諦めて寝ようと屋敷に入り込む。調度品などには目をくれず扉を一個一個開けて行き、寝室らしきベッドが置かれた部屋を見つけた瞬間ベッドに飛び込む。そしてすぐさま寝息を立てて寝入った。


 彼が目を覚ましたのは連打されるチャイムの音に起こされたからだった。一体誰だと思いながら寝ぼけ眼を擦りながら玄関に向かい、扉を開ける。


「あ、おはようございます。マコト君」

「……リサ? どうしたのさ、こんな朝早くから」

「もう昼ですけどね。今日からここで御世話になるんですよ。聞いてませんか?」

「ああ、そうなんだ………………はあ!?」


 余りに当然の事の様にリサが言うので一瞬流しかけたがその意味が未覚醒の頭に浸透すると一瞬で目が覚めた。


「どういう意味それ?」

「どういう意味も何も……マコト君契約書にサインしてたじゃないですか。外出時には人を付ける事~とかそう言うの」

「した、したけど……」

「まさか外出する度に電話して、何て面倒なことするつもりだったんですか?」


 そのまさかです、とは言えなかった。


「と言う訳で連絡要員兼護衛としてボク達が派遣されたんですよ」

「まあ、地下施設の時と大差ないか……ボク達?」


 そう考えれば今更な話だった。部屋数は多い。四六時中監視されている訳でもない。そこまで問題は無いと思った所で誠はリサの言葉の違和感に気付く。それとほぼ同時に、リサしか目に入っていなかったがその後ろにもう一人いる事にも。


「る、ルカ・ウェインです。この度は、ええっと……何だっけ」


 いい感じでパニックになっている昨日会った少女がいた。当人も急に言われたのだろう。困惑している様子が見て取れる。


「ボクと、ルカの二人です。当面は」

「当面は?」

「まだ何人か増やす予定みたいですよ。秘書官さん達は」


 それを聞いた瞬間誠は屋敷の中に戻り、電話機をひっつかみ安曇に電話を掛ける。


『本来はアポイントメントが必要なのだと言う事を理解しておいて下さい。マコト殿』

「これはどういう事なんですかね」

『これ? ああ、二人がそちらに着いたんですね。マコト殿の世話役です』

「これから増やす予定らしいですが」

『はい。契約書にも書いてあるでしょう? マコト殿が快適に生活できるように都市側は補佐すると。家中みたいなものだと思っておいてください』


 曲解だと声を大にして言いたい。だがその様な抜け道と言うには大きすぎる穴を残したのは誠自身だ。


「全然俺が落ち着かないんだけど」

『部屋数はたくさんあります。各部屋に鍵はかけられますし……そう考えれば集合住宅と変わらないでしょう?』


 そう言う問題ではないと誠は思う。何か間違いがあったらどうするのかと思った所で気付いた。それが狙いだと。


「……こっちから手を出させるつもりだな……」

『何を言っているのか分かりませんね。ではマコト殿。名残惜しいですが私も公務があるので……それでは』


 そう言って通話は途切れる。


「マコト君マコト君。どこの部屋使っていいですか?」

「お姉ちゃん……もうちょっと遠慮しようよ」


 そんな姉妹の声を背中で聞きながら誠は思った。

 やはり十代の子供で百戦錬磨の政治家に交渉事を挑むなんて言うのは無謀であったと。

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