無題

かしはら

第1話 追われる

 いつの間にか私は、見覚えのない部屋で椅子に座っている。天井に電灯が見当たらないのに、壁から床から何もかも白く薄く光っているようで、おかげで目がちかちかする。よく見わたせば、五十畳じゃきかないような相当の広さのようであり、また圧迫されるような狭さにも思われたが、床には継目も模様もないので全容がつかめない。座っていたパイプ椅子の座面は冷たく、たった今座ったかのようだった。

 出口は見当たらない。拘束されている訳ではないから、その気になれば直ぐにでも立ち上がることは出来るが、そんな気が起こらないのが不思議に思われた。どうも私は、誰かを待っていたのではないだろうか。頬を頻りに掻きながら、今までのことを思い出そうとする。しかし、何も覚えていない。

 鋭く息を吸った。その音だけが部屋に響いて、俄にこの部屋を出たくなった。

「やあすみません、お待たせしました」

 急に後ろから声をかけられて、私は振り向いた。見た目三十代くらいの、細身の男がニコニコして私を見下ろしていた。その表情とは裏腹に、男の纏っている白衣のように顔も白くて病的だった。頬から口にかけて疎らに生えた、無精髭の黒さが際立っている。

「やあ、どうもお待ちしてました、多分」私は立ち上がって男の方を向いた。思ってもいない言葉が勝手に出て、どきりとした。

「申し訳ないです、なにぶん予定外のことがあったもんですから」

 男は私の背後に周り、いつの間にか置いてあった新しいパイプ椅子に腰掛けた。妙に思われたが、私だけ立っているのも可笑しいので、男に倣って座った。

「じゃあ早速ですけど、先ほどの続きと参りましょう。えっと、どこまでお聞きしましたっけ」

男が腕を組んで首を傾げた。直ぐに返事ができず、男の言葉尻が部屋中に響いていくように思われた。

この男と私が会話をしていたらしいが、何も思い出せない。この男と何らかの交渉があったとは思われない。間違いなく初対面のはずであった。

 ふいに、男の姿勢がわざとらしく感じられた。本当はなにも関り合いがないのに、私がまごついているのを良い事に、からかっているのではないかという考えが閃いた。

「冗談は止して下さい。あなたとは初めて会った筈じゃないですか」私は上目がちに言いながら、右手の小指の付け根が細かく震えるのを感じた。

「そうでしたか、まあいいでしょう。些細な問題ですから」男は含み笑いをしながら、今度は足を組んで椅子に持たれた。「じゃあ最初から話を辿りましょう。あなたが見た夢の話です。何を見ましたか」

「はあ、夢ですか」

「そう夢です」

 夢といえば、この妙ちきりんな状況こそ夢に違いないと思うが、しかしそれにしては意識や感覚がはっきりしすぎている。男の問う夢というのは、私が最後に見た夢のことを指すのだろうか。

 私は元来あまり夢を見ない体質で、だから極稀に見るときは、鮮明で印象的だが、意味の分からない経験をする事が多い。その中でも特に印象深かったものを、私は思い出そうとした。……


 いつ見た夢だったかは覚えていない。私はトイレの便座に座って、内田百閒の短編集を読んで震えていたが、それが小説の中身に怯えていたからなのか、便を気張っていたからなのかは分からない。とにかく小刻みに震えていた。やがて読んでいた話が結末に近づき、「うわ、これからどうなるんだ」と緊張しながら文字を辿っていた時、急に外から爆発したような音が直ぐ近くで聞こえ、同時に部屋を揺るが衝撃を受けて、思わず便座から転げそうになるところを踏ん張った。その拍子に本が手から滑り落ちた。私は恐ろしくなって、呼吸も忘れて固まってしまった。

 すると急に四方の壁が、鴨居を失った襖のように、音もなく外側に倒れた。開けた視界には、澄み渡る晴天の下に、青々とした草原が広がっていた。思わぬ(文字通りの)展開に私は呆然として立ち上がり、下ろしていたズボンをずり上げた。

 草原の奥から風が這ってきたらしい。緑の波が段々と迫ってきて、足元で砕け、清々しい風が通り抜けた。得も言われぬ爽快感だった。

 それから、どれほど経ったか分からない。直後だったかもしれないし、間に断絶があったかもしれない。とにかく、ふいに後ろから、ぐぐもった声が聞こえた気がして私は振り向き、身体を強張らせた。

 便器のすぐ後ろに、私の背丈の倍近くある、ゴツゴツした黒い岩の様な何かが、ジロリと私を見下ろしている。全身が墨をひっくり返したように真っ黒な毛並みに覆われ、風に吹かれて毛先が微かに揺れていた。

 岩のような生き物が、私の握りこぶしと同じくらいの鼻穴から、ふんっと息を吐いた。私はその瞬間、悲鳴を上げようとしたのに、息が喉につっかえて、ただ震えるばかりだった。……


「ああ思い出した、ゴリラです、ゴリラが居たんだ」私は失った記憶の端緒を掴んだ気がして、嬉しくなって顔をあげた。

男は腕を組んだまま口元がニコニコと笑っていた。その横にゴリラが佇んでいた。

「えっ、えっ、えっ」私は痙攣したようにえっえっを繰り返し、男の横を指差した。

「おやどうされました」男が可笑しそうに首を傾げた。

「どうしたって、ごっ、ゴリラじゃないですか」

 私は恐ろしさに声を詰まらせ、指先を震わせた。ふと、首筋に生暖かい息遣いを感じて、驚いて振り返った。目を見開いた私の顔を、ゴリラが不貞腐れたような表情で見上げていた。

「ま、またゴリラだ」私は立ち上がって後退り、はっとした。男の方に振り返ると、隣にもう一匹のゴリラが、丸太のような腕を億劫そうに持ち上げて頭頂を掻いていた。

 私は身動きが取れなくなったしまった。ゴリラが腕をおろして、ごっと床が重く鳴った。

「あなたの夢のなかに現れたのは、今ここにいるのと種類が違うようですね。頭頂部を御覧なさい、毛並みがまだ明るいでしょう。この種類はニシゴリラと言って、学名をゴリラ・ゴリラと言います」

「ゴリラ、ゴリラ……」

私は口の中で呟いた。すると視界の両端からゴリラが現れて、鏡写しのように、ゆっくり男のほうへ迫っていく。

「あなたの夢で見た真っ黒い種類は、きっとニシローランドゴリラでしょう。学名をゴリラ・ゴリラ・ゴリラと言うんです」

「ゴリ、――」私は学名を復唱しかけて、寸前に口を手で塞いだ。男は肌を青白く光らせて、笑っている。

つまりはそういう事らしかった。

私は椅子を蹴飛ばしてその場を離れた。

果ての見えない白い部屋を、方角もわからないまま走り続けて、体感で五分も経たずに息が切れた。へろへろで歩きながら、あの黒い瞳がずっとこちらを見つめているように思われて、気味が悪かった。

ふいに恐ろしい思いつきがあって、恐る恐る後ろを見た。遥か遠くで胡麻粒みたいなものが見えた。――いま私が此処で、彼らの名前を連呼したとしたらどうなるだろう。この果てのない場所で、あの黒い毛並みの豆粒が、和紙に染みがつくように広がっていくのだろうか。それとも、私を取り囲んで圧し潰してしまうだろうか。逃げ場のなさそうなこの部屋の中で、もう助からないと自棄(ヤケ)になる気持ちと、好奇心の衝動を抑えることが難儀になってきた。

私は立ち止まって振り返り、高鳴る鼓動と乱れた呼吸を静まらせた。

そして、胸いっぱいに息を吸い込んだ。

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無題 かしはら @morarara

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