中編
『光陰矢のごとし』と昔の人はよく気づいてくれたもので、本当にあっという間に時がたった。中納と一緒に飲んだ日から何週間かが過ぎた。アイツは彼女と仲直りができたのだろうか。電話はおろか、メールひとつ寄こさない。
わたしの方はというと、大きな失敗もなく、仕事も順調で、売り上げもまずまず。忙しいけれど充実した日々を送っていた。彼のことは頭の隅にあったものの、こちらには関係のないことだ。またそのうち、いつものようにメールが来るだろう。
こちらがあきれ返るぐらい、あっけらかんとした顔で、『飲みに行こうぜ!』と誘ってくるに違いない。心配してあげても杞憂に終わると悔しいし、連絡が来るのを待っていたと思われるのも癪に障るので、わたしの方から連絡をしないで放っておくことに決めた。
ところが、そう決意した矢先に彼から連絡が来た。すっかり夜が更けて、そろそろ寝ようかとベッドに入ったそのとき携帯の音が鳴ったのだ。それもメールの着信メロディではなく、電話の呼び出し音で。
慌ててベッドから飛び起きると、携帯を手に取った。中納の名前がディスプレイに表示されていることを確認してから、電話に出る。
「どうしたの中納、こんな時間に。何かあったの?」
どこで電話をしているのだろう。電話の向こうはシンとして、やけに静かだ。街の中だったら、車のエンジン音や人の声など少しぐらい聞こえきてもよさそうなのに。やたらと自分の声が、夜の空気に大きく響いているようで、空っぽの空間に向かって話しかけているような気がする。
一秒、二秒、どのくらいたったのか。沈黙が続く。
「まさか、寝ているんじゃないよね」と思い始めたとき、ゴクリとつばを飲み込んだような音がした。
『んん~、藤岡ちゃん元気~? 俺はいつだって元気ッスよ~』
聞こえてきたのは、ふざけた調子の声。
「ええっ、ひょっとして……酔っ払ってるの?」
なんだか様子がおかしい。相当な量のお酒を飲んだらしく、今の声はろれつが回っていない感じだった。酔った勢いで、電話をしてきただけならいいのだけど。そうじゃなくて、彼の身に何かが起きて、やけっぱちになっているんだとしたら……。
どうやってたしなめようかと言葉を探しながら、部屋の時計を見た。夜中の三時をとっくに過ぎている。こんな遅い時間に非常識なことをするなんて、長い付き合いの中で、たぶん今回が初めてだ。どうしたらいいんだろう。
とにかく、彼を一人にしておくのは危険だ。最悪タクシーを呼んで、迎えに行った方がいいかもしれない。
「ねえ、ちょっと! 大丈夫なの? 中納、今どこから電話して――」
窓ガラスに何かが当たってコツンといった。
『ここ。おまえんちの前だよ、ま・え!』
――へ?
彼がそう答えた瞬間、わたしはベッドから降りて窓際へ走った。カーテンをつかんで開ける。窓の下を見おろしたら、わたしの家の前にポツンとたたずむ人影があった。小石のようなものを真上に放り投げては、片手でキャッチしている。何度も同じ動作を繰り返していた。さっき窓ガラスにあたったのは、あれと同じ石つぶてなのだろう。
「な、中納? そこにいるの、中納なの?」
携帯を耳に強くあてがい、人影に向かって呼びかけた。すると、その人影の右手がフラフラと上がり、わたしに応えたのだ。
――もう、あのバカ!
「ちょっと、そこでジッとしてて。すぐに行くから!」
部屋を出て、階下に眠る両親を起こさないよう、静かに階段を下りる。
玄関へ向かうあいだに流れる時間さえ、もどかしい。
どうか彼が消えていなくなりませんように。ただ、それだけを祈った。
突っかけを履いて外に出ると、寒そうに肩をさすりながら中納が待っていた。今は十一月。秋とはいえ、夜になると寒い。なのに、彼は上着を着ていなかった。会社帰りなのか現場用の青い作業着姿だ。『現場は暑いから、未だに夏物の薄い作業着で仕事しているんだ』と、前に言ってたっけ。無謀にも、その格好で飲みに出かけたらしい。
「小さいけれど、ないよりはイイよね。誰も見ていないだろうし」
パーカーを脱いで、わたしの頭より高い位置にある彼の肩に掛けた。小さすぎて、ちんちくりん。申し訳ない程度にしか体を覆うことができない。ちょっと笑える。
けれども、いささか寒さをしのぐのに役立ったらしく、中納はパーカーの生地を前にかき寄せると、安堵のため息をついた。
「おお、サンキュ。助かるよ」
照れくさそうに笑う中納の顔が、街灯の薄明かりの下に見えた。光が弱っているようで、蛍光灯がチカチカと点滅する。
ホッとしたら力が抜けて、今度は膝がガクガクと震えてしまった。
「いい年こいて、何やってんの。らしくないことをして、よけいな心配をかけさせないで」
思いがけず膝の震えがひどかったから、終いには唇にまで震えが伝わった。ガチガチと歯を鳴らしてしまいそうなほどだ。
「ああ、迷惑になると思ったんだけどさ。ちょっとぐらい、いいかなと思って」
たいていの男がそうであるように、中納は面倒くさそうに説明した。
震える声をごまかそうとして、わたしは思わず大きな声でさけんだ。
「バカ!」
気付いたら自然と手が動いて、彼の背中を思いっきりバシンと叩いていた。
「いって……! イテ! 何すんだよっ」
中納は飛び上がって後ずさりした。よほど痛かったのだと思う。だけど、そう簡単に終わらせることはできない。
「よかったじゃん。痛いってことは生きてる、ってことなんだから。ほら、もっとシャキッとして。ちゃんとしてよ」
いくら叩いても、まだ叩き足りない。休むことなく、右と左交互に腕を振り下ろした。彼の固い背中にこぶしをぶつける。わたしの手もジンジンとして痛い。
酔っ払って電話してきたうえに、家にまで押しかけて来るなんて。昔からやんちゃでお調子者なところがあったけれど、大人になってからはなりを潜めていたから、すっかり忘れていた。だからこそ、彼の非常識な行動の裏側にどんな理由が隠されているのか、知るのがとても怖いのだ。
「ゴメン、謝るよ。俺が悪かったって。もう二度としないってば」
わたしに背を向けたまま顔だけふり向き、中納は戸惑っているような顔をした。泣いているのか、笑っているのか、わからないぐらい情けない顔。酔いはすっかり醒めたようだ。
――ほんとにバカなヤツ。
女から暴力を受けているというのに、されるままになっているなんて。ほんのちょっと力を出して、わたしの横っ面を引っ叩けばそれで済むのに。
けれども、わたしは、彼がそんなことをしないのを知っている。わたしがいくら怒って責めても、彼は今まで一度も手をあげたことがないのだから。きっと彼女には、もっと優しくしてあげているのだろう。
彼を望んでいるわけじゃない。
彼を奪おうとしているつもりでもない。
ただ、失いたくないだけだ。
「わたしたち、もう大人なんだよ。いつまでも子供みたいなこと、やっていられないんだから」
どうしたら彼は、わたしという女をわかってくれるのだろうか。二人で歩いて帰ったあの月夜をスクラップみたいに切り取って、ずっと大切にしたいと思っているだけなのに。こんなふうにわたしを訪ねてきたら、胸の奥にしまい込んだ思いを、すべてあふれさせてしまう。
「本当にわかってるの? 本当に――」
全部言い終わる前に、彼の背中が急に前へ引いた。右手こぶしが空振りに終わる。行き先を失ったこぶしが、大きくて冷たい手によって包まれた。
浮き上がった太い筋がごつごつしている、大人の男の人の手だった。指も太くて、わたしのより長い。武骨な美しさと優しさを兼ね備えている。
ギュッと握りしめられた手の力に圧倒されて、わたしは黙り込んでしまった。
「俺ってバカだよな。もっと早くこうすればよかったよ」
中納がぽつりとつぶやくように言った。さらに強く手に力が入る。とたんに、パンと胸の中の何かが弾けたような気がして、自分が何をやっているのかわからなくなった。
「昔、部活の帰り道、二人で歩いてた時さ。おまえ歩くの遅すぎて、何度こうして手をつかもうと思ったか。俺がそんな下心持っていたこと、ぜんぜん知らなかっただろう」
「うん。うん、知らなかった……」
「今さらこんなことを言うのは、卑怯だと思われるかもしれないけれど、おまえのことかなり気に入ってたんだぜ。だけどさ、俺やんちゃやってたから、ダメだと思ったんだ。藤岡は、俺にはもったいなさすぎるんだよ。俺じゃ、ダメなんだと思う」
頬に風があたる。前髪が揺れている。ゆるゆると秋の風に吹かれながら、空を仰いだ。縹色(はなだいろ)の空に、細く光る月がのぼっている。
「今でも思い出すんだ。もし、あのとき、おまえの手をにぎっていたら、俺たちどうなっていたんだろうって」
ゆっくりと話す彼の声が、夜の闇に消えていった。
「そんなこと、わたしにだってわかんないよ」
「でも、これだけは本当だ。おまえは、俺なんかが手を出せないぐらい、他の誰よりも大切な女の子だったよ」
中納の方に視線を移したら、彼は笑っていた。泣きたいのを我慢しているような、寂しいのを諦めているような、曖昧な微笑み。
フラリと足が動いて、頭が彼の肩に触れた。背中にまわった彼の腕に抱き寄せられて、胸のぬくもりを感じる。
それから、どちらからともなく顔を寄せ合い、わたしたちはキスをした。一秒にも満たない、軽く唇が触れるだけのささやかなキスだったけれど。それでも、わたしにとっては十分すぎるぐらい幸せで満ち足りたものだった。
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