第二章  能力者が別な学校だと(生命維持的に)不便だと思った

第五話 『求婚?』

「おはよう~」


 俺はいつものように欠伸と挨拶を同時に垂れ流し、鞄をロッカーに放りこむと窓際最後尾の席に座った。

 窓の外はいつものように黄土色の校庭が広がり、朝練を終えた野球部が消えかけた砂埃の中で道具の片づけを始めている。桜はとうの昔に散り、植栽は深緑に染まって若々しい生命の香りを振りまいている。

 ああ、初夏だなぁ。


 ひかると同じ空間にいる予備校と違って、日中の学校生活は至極単調で感動のない毎日だ。

 つまらないかと言えば、そうでもない。友人とバカな話をしたり、たまにグループ学習などをしたりするのは、それなりに充実している。


 だが。

 授業、給食、授業、部活……

 そのルーチンワークをしていることには変わりない。


 ひかる。


 予備校で彼女と再会して、俺の中でひかるの存在は、確実に大きくなりつつあった。


 ひかる。


 いつしか俺が予備校に通うのは、ひかると会うのが目的になっていた。

 でも最近、もう一つの目的ができた。

 ひかるの志望校――第一高校に、俺も入ることだ。

 その名の通り、県下一の高校。難易度もハンパない。

 俺の県は『全県一学区』といって、第一高校には全県の猛者が集まってくる。でも、ひかると同じ校舎で過ごすには、必死の努力をし、その猛者どもを蹴散らすしかない。


 ひかる。


 それにしてもびっくりしたな。ウノシーがまた現れるのもそうだけど、今度はあいつが祓魔姫ふつまひめに変身して闘い始めるなんて。でも、あんな危険な場面にひかるが巻き込まれるのは、もうこれっきりにしてほしい。


 ひかる。


 ああああーーー。

 頭の中が『ひ』と『か』と『る』ばっかりだ~。

 俺、もしかしてひかるのこと……


「古屋~」


 脳内で悶々としていると、前の席の菊地直樹がこっちに身体を向けてきた。


「朝から呆けてるな~」

「お前に言われたくない」


 ひかるの脳内ヴィジョンをかき消された俺は、露骨に不機嫌な表情を作って直樹に言い返した。


「いーや、呆けてる!」


 だが直樹は俺の感情を無視して、まるでコントの酔っ払いのような様子で俺に絡みついてきた。


「この教室のざわめき、興奮……お前は気づかないのか?」

「ん? そう言われてみれば……」


 辺りを見回すと、確かに教室がざわついている。何か起こりそうなワクワク感が満ちていて、大イベントに期待している様子だ。


「みんな、何浮かれてるんだ?」

「バカだな~ホント、バカだな~」


 直樹は、心の底から哀れむような目つきをして俺の肩に手を乗せた。


「横を見ろ」


 言われるままに首を曲げると、昨日までなかった机と椅子のセットが。


「何だこれは」

「バカだな~ホント、バカだな~」


 二度も言われた。この菊地直樹という男は、ひとの怒りを喚起しない特殊能力を持っている。そうでなければ肩に乗った手を払いのけているところだ。


「で?」

「『で?』じゃないよ、古屋守君。新しい机と椅子と言えば、転校生だよ、て・ん・こ・う・せ・い」

「転校生……」

「そ・お・だ! さらに、菅井が校長室を覗いたところによると……女子らしい!」

「女子……」

「女子! 何て甘美な響き! 教室内に涼やかな風が吹きすぎるようだ」


 直樹は大げさにのけ反った。

 クラスの女子たちは、友達が増える喜びに、男子たちは新たなときめきの予感に湧いているということか。


「女子、ねえ」

「守ぅ。お前、反応弱いな。……よし! もし可愛かったら、お前のアタック順は最後尾だ!」

「へいへい」


 クラス中が転校生の印象について予想し合っているうちにチャイムが鳴り、数秒ほどの誤差もなく担任の吉澤先生が姿を現した。スポーツ刈りにワイシャツ。中年の割りに肉体は引き締まっている。


 いつもなら、『やれやれ』といった空気の中、朝の挨拶が行われるところであるが、今日は違った。

 衆目は、吉澤先生の後ろから来るであろう転校生の姿をいち早く拝もうと、ぎらついた視線を扉に向けていた。


 上靴、靴下、細い脚、真新しい本校の指定スカート(ここまで約0・5秒)。

 白い指先、白い夏服、発達した胸(ここまで約0・8秒)。

 すっと通った鼻梁、白磁の肌、色素薄めのショートカット(ここまで約1・2秒)。

 そしてちらっと俺たちを見回す。

 美っっっ少~~~女!

 女子から嘆息が、そして男子からは歓声の爆発が起こった。

 俺も無意識に歓声を上げてしまう。

 無意識の歓声と嘆息を誘う、そんな佇まいだった。


「はいはい、静かに」


 吉澤先生がパンパンと柏手を打って生徒を鎮める。

 どけ吉澤。美少女の右手中指の先とカブってる。


 一分近い苦労の後、吉澤先生はクラス全員を黙らせることに成功した。


「あー、机を見て気づいた人もいるかと思うが、うちのクラスに転校生が入ることになった……自己紹介してもらっていいかな?」

「はい」


 何と涼やかな声。羽毛で耳朶を撫でられているようだ。

 彼女はチョークを取ると、黒板に縦書きで自分の名前を書き始めた。あまり筆圧をかけていない細い線だが、止めはね払いはしっかりしている。


『栗茂詩乃』


 くりもうたの、と右にふり仮名を振る。


「栗茂詩乃です……」


 ……終わり?


 皆が転校生の美声に酔いしれようと半身を乗り出した時には、声は必要な情報だけを伝え、途切れてしまった。口下手なのかな?


「えーっと……ここはアレだ。質問コーナー!」


 ナイス吉澤先生。生徒たちのほとんどが挙手する。授業中とはえらい違いだ。


「好きな食べ物は?」

「もりそば」

「好きなアーティストは?」

「ベヒーモス」

「好きな男子のタイプは?」

「敢えて例えるならパイモンみたいな人」


 ? ? ?


 ゆるキャラ?


 ……よくわからないけど、可愛いからいいや。


 周囲も反応は大体同じで、ニコニコしながらも、頭上にハテナが浮かんでいる。


「じゃ、じゃあ栗茂は一番後ろ……古屋の隣の席だ」

「はい」


 詩乃さんは表情も変えず、机で築かれた通路を通り、後ろ、つまり俺の方に近づいてくる。

 クラス中の羨望と嫉妬が、俺の身体に刺さる。そこそこ痛い。

 じろじろ見るのも失礼なので、ちらっと見上げてみる。

 同時に詩乃さんもこちらを見る。

 その眼がはっと見開かれ、頬が紅潮していく。


「あの……よろしく」


 折角目が合ったので、声をかけてみる。


「あなたが、古屋君?」

「うん、そうだけど……」

「あなたには、私の運命を導く相がある」


 妙なことを言い出す詩乃さん。クラス中の視線が俺たちに集中する。

 ややあって、詩乃さんが口を開いた。


「私、あなたと結婚しなくちゃいけない」

「ええええーーーーっ⁉」


 いきなりの詩乃さん(美少女)の結婚宣言に、殺意と羨望と、そして若干の訝しみの視線が、絶叫を伴って俺に容赦なく突き立てられた。


「ふつつかものですが、どうぞよろしく」

「いや、でも……まだ初対面だし、俺たちまだ結婚できる年齢じゃないし……」


 急なプロポーズに、俺もしどろもどろになる。


「初対面? ……わかった」


 詩乃さんは鞄を片づけて俺の隣に座ると、紙片を差し出してきた。


「これあげる」


 なになに……げっ。

 緑のペンで、何やら魔法陣のようなものが描かれている。


「な、何かな……これは?」

「お守り」


 しれっと、詩乃さんが答えた。


「あ……ありがとう」


 絶世の美人が護符……不思議な趣味だ。いや、むしろ怖い。

 俺はそのお守りをきれいに折り、ポケットにしまった。


 ずごごごご……


 ふと周囲を見ると、クラスメイト(主に男子)が放つ嫉妬のオーラが、眼に見えるほどの勢いで吹き上がっている。携帯番号でももらったと思っているのか? この護符を見せたら、みんな何て言うだろう。


「ハイハイ、さっさと数学の準備をしなさい。廊下に高橋先生いらしてるよー!」


 吉澤先生は詩乃さんを紹介するという役目を終えると、さっさと出て行ってしまった。


 俺のルーチンワークに、詩乃さんという不思議な彩りが加わった。





 昼休み。


 給食前に「体育館の裏に来て」と詩乃さんに言われた俺は、ホイホイと向かっていた。


 あと一歩で体育館へと向かう渡り廊下だというところで、はたと立ち止まった。

 体育館裏。

 怪しい香りのする場所。

 大人たちは『不良のたまり場』と言う……

 小は持ちこみ飲食から、大は喫煙・暴力に至るまで、あらゆる学校の影の部分が集約された場所、それが体育館裏。

 そんなとこに俺を呼び出して、どうするつもりだ?

 まさか……詩乃さんはヤンキーの元締めだったりして? 何か気に入らないことをしたとかで俺のこと呼び出して、集団でボコる……とか。

 恐ろしい光景が脳裏をよぎる。

 俺は、できるだけ足音を立てないように、体育館の裏手へと回りこんだ。

 果たしてそこには、詩乃さんが一人で壁に背を預けて待っていた。


「ま……待った?」

「別に」


 呼びかけると、詩乃さんは相変わらず無表情なまま、こっちを向いた。


「どうしたの? ……こんな所に呼び出して」

「古屋君が初対面のとき結婚を渋ったから、人のいないところに呼んだ」

「そ、そう」


 詩乃さんの美貌を直視するのが憚られて、俺は彼女の横で体育館の壁に寄りかかり、空を見た。


「占いでは、古屋君が花婿になる、とある」


 うっ……

 そうだった。

 詩乃さんはさっき、初対面の俺に結婚を迫ってきたんだった。しかも理由が占い。てことは、ここで待つのはヤンキー集団ではなく、黒ミサか。詩乃さんは邪教の教祖で、俺は生け贄ということに……


「私ね」


 詩乃さんの吐息混じりの声が、小鳥の産毛のように耳を愛撫する。


「……私ね、お父さんの仕事のせいで転校しなくちゃならなくなって、最初はとっても不安だった。でも、占ってみたら『移動』『隣』『伴侶』と出たから、ちょっと楽しみになって……そして今日、新しい学校に来てみたら、本当に素敵な旦那様に出会えた」


 違った。

 詩乃さんは決して悪魔崇拝とか占い依存とかじゃなくて、転校が心配なごく普通の女の子だ。きっと不安感を紛らわせるために占いに頼って、いい結果だったと思いたいんだ。

 うん。それなら人助けも兼ねて、詩乃さんを傷つけない程度に占いの結果に付き合ってみようかな。

 急に得心がいって、気持ちがすっきりした。校庭の喧噪も遠い体育館裏で、心の中と同じく清々しい青空を眺める。

 そして隣では詩乃さんが、何やらプチプチやっているのが聞こえる。


 プチプチ?


 興味をそそって止まないその音に抗えず、俺は詩乃さんを見る。





 前開きの夏制服が……全! 開!





 そして、その中は、白い肌に、水色の、控えめなレース使いも、魅惑的な、布地に、包まれる、たわわに実った、二つの、禁断の果実ぅぅぅーーー!


 あわわわ……


 普通、キャミソールとか中に着てるんじゃないの?

 し……刺激が強すぎるっす……

 しかも、このブラのテラテラ感。サテンってやつですかーーー⁉

 ぬう……鼻骨の辺りが脈動してきた……

 こ……これが『鼻血出そう』っていう感覚か。


「効いてきた?」


 詩乃さんが前面をはだけた格好のまま、俺の正面に立つ。


「効いて?」


 効いてます。全身に効いてますっ。

 やばい、いろいろと……


「金星・伍(ご)の護符」

「金星?」

「心がつながる前に、肉体関係を結ぶための護符」

「な……なんですとー⁉」


 あれ?

 転校が心配な、ごく普通の女の子だと思ってたのにー!

 気が動転している間に、詩乃さんが俺の肩を押さえつけた。

 う……うそ。動けない。

 俺は情けない屁っ放り腰のまま、詩乃さんの瞳を見つめた。


「俺をどうする気?」

「二人の愛の巣は、お花畑の見えるテラスハウスがいいな」

「あの、ちょ……」

「占いでは完璧な相性なのに、なぜ拒むの? 結婚がだめなら、まずは恋人から始めましょう」

「いや、それを言うなら『まずは友達から』っていうんじゃ……ま、待って!」


 詩乃さんは、百パーセント大まじめな表情で、眼を閉じ、ゆっくりと……俺に顔を近づけてくる。


 ああ、浸食される……

 俺の脳内の『ひ』と『か』と『る』が、詩乃さんに上書きされていく……

 ああ、ひかる。俺はもうだめだ。


 ……父さん、母さん。俺は今日、男になります……

 俺は観念して目を閉じた。





 ずずずずずず……





 その時、辺りが急な地鳴りに見舞われ、二人は目を見合わせた。


「地震?」

「今日はこの世ならざる者に注意せよ、と占いに出てた」


 詩乃さんはそう言うと、制服のボタンを落ち着き払った様子で閉じ始める。

 この世ならざる……またウノシーか?

 校庭の方から振動が伝わってくる。


「行ってみよう!」


 俺と詩乃さんは、校庭に向かって走り出した。

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