後編
胸がどきどきしてうまく寝つけなかった。
狐憑き。
昼間の男の言葉が、自分の曾祖母のことを指すのだとわかって、なんとも云えないいやな興奮が身体のうちに渦巻いている。
男はこの家に用があると云っていた。
曾祖母の名を知っていた。
自分のことが見えるのかと驚いていた。
いやな符牒だ。とても――、いやな。
気づけば私は布団を抜け出し、Tシャツに短パンのままサンダルをひっかけて、玄関の引き戸を開けていた。ガラガラと大きな音が響いたけれど、きっとおばあちゃんには聞こえないだろうと思った。
玄関から庭を歩いているうちに、門の向こうに男が現れるのが見えた。昼間の男、コスプレ好きの変態だ。
「こんな時間にどうしたのじゃ? 散歩か? 夜中のひとり歩きは感心しないが」
私は黙ったまま男を見た。すっきりとした容貌。色香を含んだ眼差し。尖った獣の耳とふさふさとした獣の尻尾。
――狐。
「たまき」
男の双眸が驚きに見開かれた。
「たまきって、あんたのこと?」
男の喉がごくりと鳴った。
「なんで」
「答えてよっ! たまきって誰? あんたのことじゃないのッ?」
落ち着け、と男が云った。
「大声を上げるでない」
「なんで? ひいおばあちゃんと同じように、頭がおかしくなったって思われるから? なら、なんであんたがそれを云うの? あんたのせいでしょ、なにもかも。あんたがひいおばあちゃんをおかしくしたくせに!」
私が放った言葉の刃で、男の胸が切り裂かれるのが見えたような気がした。だけど言葉を止めることはできなかった。おばあちゃんの不運も、ママの放埓も、私の愚昧も、みんなみんなこの男のせいであるような気がした。この男に心を渡してしまったひいおばあちゃんのせいであるような気がした。
ひどく傷ついたような顔をして、それでも男は静かに言葉を繋いだ。
「そう思うならば声を落とせ。吾のせいで多江のようになりたくないと思うならば」
「やっぱり、あんたが」
そうではない、とは男は云わなかった。ただ、悲しげに首を横に振り、尖った耳とふさふさとした尻尾を垂らす。
なによ、と私は云った。
「自分のせいじゃないって云いたいの? あんたのことでしょ、たまきって」
私には奇妙なまでの確信があった。
あたりまえのようにひいおばあちゃんの名を呼び、私にしかその姿が見えないと言った男。コスプレには見えない――違うと思いたいのが本音だけれど――耳と尻尾。
狐のたまき。
狐。――妖狐。
私はいまにも卒倒しそうだった。狐? 妖怪? なんだそれは?
だけどいまはそんなことにこだわっている場合じゃない。妖怪なんて、そんなものこれまで全然まったく頭っから信じちゃいなかったけど、目の前に現れてしまったものは仕方がない。
なにしろ文句をいう相手は、この孤男しかいないのだ。狐だろうが、人だろうが、構うものか。
「なんでここにいるの? ひいおばあちゃんはもう死んじゃったのよ? ここにはおばあちゃんしかいない。あんたのせいで自分のお母さんのことをあの人としか呼べなくなっちゃった、可哀相なおばあちゃんしかいない。もう帰って。もういいでしょ? もう十分苦しめたでしょ?」
「苦しめた?」
違うの? と私は訊いた。
「自分を裏切って、違う男の人のところへお嫁にいっちゃったひいおばあちゃんが憎かったんじゃないの? だからひいおじいちゃんを苦しめたんじゃないの?」
違う、と男は激しく否定した。
「多江は夫も子も裏切ってなどおらぬ。吾もそんな間男のような真似はしておらぬ。誤解じゃ」
「なにが誤解よ」
あんたがひいおばあちゃんに付き纏ってたのは本当のことでしょうが、と私は言って男を睨んだ。
「こんな、家の前まで来て、なによ、狐ならあの世まで追いかけていけばいいじゃないの。できるんでしょ、妖怪なんだから」
「できぬ」
なんでこんなことに律儀に答えるんだ、こいつは、とこんな場面なのに思わず頭の中で突っ込む。さらっと流しておけよ、そこは。
「吾はあくまでも
さすがは狐、論点がずれていっている。大事なのはそんなことじゃないわよ、と私は強引に話を元に戻した。
「あんたがひいおばあちゃんをおかしくさせて、この家を滅茶苦茶にしたのは事実でしょ? もうとっくに死んじゃったっていうのに、まだ苦しめ足りないの? 恋仲でもなかったなら、なにがそんなに気に入らないのよ」
「恋仲ではない。だが、吾は多江を慕っておった。その多江の子が死病に捕らえられていると知り、様子を見に来たのじゃ。身や心が弱るとの、悪い
思わず青褪めた私の頭をそっと撫でた狐は、音もなく笑う。
「多江の子にそんな目には遭ってほしゅうない。吾がここにおれば、弱いモノは近づけぬし、そうでなくとも吾が払うことができる。寿命と定められたものを変えてやることはできぬが、せめて最後の日々を穏やかに過ごさせてやろうと思っての。それでここにおることにしたのじゃ」
狐の本意を掴みかね、私はその綺麗な瞳をぐっと覗き込んだ。
「おばあちゃんは膵臓癌なの。もうあんまり長くないって。いまくらいに進行しちゃうとかなり痛みもあるはずなのに、けろっとしてたわ。もしかしてそれも、あんたのおかげ?」
さあな、と狐は首を傾げた。
「吾にそんな力は……」
「ないとは云わせないわよ。病院にいたときはお腹や腰がすごく痛かったって、でも、ここに帰ってきたら嘘みたいにラクになったって、おばあちゃん、云ってたもの。やっぱり家が一番だなんてのんきなこと云ってたけど、あれ、違うでしょ? あんたの、その、おかげなんでしょ?」
狐はゆっくりと瞬きしながら、私の顔をじいっと見つめていた。金色の瞳がゆらゆらと揺れて、ごく近くまで迫ってくる。
「そなた、やはり多江の裔であるな」
狐は静かに笑っていた。見間違いでないのならば、――とても、とてもうれしそうに。
「多江もな、まだ幼い仔であった吾におそれることなく話しかけ、遊び仲間に誘ってくれたものだ。ちょうどこんなふうに、じっと目を合わせてな」
「遊び仲間? ほかの人には見えないのに?」
「まだほんの
「そんなことって、あるの?」
「吾の父は九尾の大妖だが、母は半妖だ。それゆえ力も存在も甚だ不安定での、狐でおることもあれば、人の子の姿のまま尾すら出すことができないこともあった。母は父の怒りを怖れての、半端者である吾を人の世で育てようとしたのじゃ」
まあ、結局は人としても生きられず、こうしてあちらとこちらを彷徨っているのじゃが、と狐は笑った。
少しもおもしろくない話だが、笑わないとやっていられないのだろう。その気持ちはよくわかる。私がママの話をするときとおんなじだ。
「吾がまだ牙も生えそろわぬうちに、多江はこの家に嫁いでしまった。最初に声をかけてもろうたときから、吾は多江のことを好いておったが、そんな気持ちを口にする前に、多江は別の男のものになってしまったということじゃ」
「じゃ、じゃあ、ひいおばあちゃんとは」
「そなた、自分の曾祖母の不貞を疑うのか?」
違う、と私は答えた。
「違うけど、でも、周りの人がそう云ったって。おばあちゃんたちはそれでつらい目に遭ったって、それで」
「時任の狐憑き」
私はこくりとひとつだけ頷いた。狐は深いため息をついて、また慰めるみたいに私の頭を撫でた。
「あれは吾のせいじゃ。幼かったとはいえ、悪いことをしたと思っておる」
狐の指が私の髪を乱しては直し、乱しては直し、そのたびにそっと耳やら首筋やらに触れてくる。なんだか少しばかり、落ち着かない気持ちになった。
「多江がこの家に嫁いできてからもの、吾はたびたび多江の様子を見にやってきた。ほかの者たちの目にどう見えていたのかは知らぬが、多江は幸せそうであったよ」
ほかに好きな人がいたというのは、と私が問うと、狐は寂しげに首を横に振った。
「あれは、多江の死の間際になって、誰かが云い出した根も葉もない嘘じゃ。多江が吾を呼ぶのを聞いて、下種の勘繰りでもいたしたのであろう」
夫と仲睦まじゅうして子宝にも恵まれた多江を見ているのは、吾にとっても幸せであった、と狐は云った。
「なんで?」
「なにがだ?」
「なんで幸せなの? 好きだったのに?」
「好いた
ううむ、と私は唸った。妖怪狐の恋心は、人のそれとは違うのだろうか?
「それに、たまに目が合うとの、多江は以前と変わらずやさしく笑いかけてくれた。吾の姿がほかの者には見えなくなってからは、誰にも気づかれぬよう、赤児の手に触れさせてくれたりもした」
「おばあちゃんの?」
ふふ、と狐は笑って、かもしれぬな、と返事を濁した。
「やがて多江はこの家を離れ、異国へと去っていってしもうた。出会ったころよりはだいぶ大きゅうなって、それなりに力もつけていた吾であったが、妖としてはまだまだ赤子にも等しかったのでな、さすがに異国の空の下まで追っていくことは、父も母も許さなかったのじゃ」
だいぶ過保護に育てられたらしい狐は、昔語りをしながらも私の髪を弄ることをやめない。いい加減にしてくれないかな、と私はそわそわする。なんだかちょっと変な気分になってきたじゃないか。
「しばらくすると多江は家族とともに戻ってきた。懐かしい気配に喜んで飛んできてみれば、多江はなんともいえぬひどい顔をしておっての。はじめは別人かと思うたほどじゃ。夫も、子らもみな、やつれた顔をしておったが、多江ほどではなかった。異国でのことが、よほど心に堪えたのであろうな」
これはあとになって多江から聞いたのじゃが、と狐は云う。
「家族とともに無事で帰るためには、多くの金が必要だったそうなのじゃ。引き上げ船に乗るには、役人や船主に多額の
多江は身を売ったそうだよ、という狐の言葉を理解するのには、ずいぶんと長い時間が必要だった。嘘よ、と私は云った。
「身、って、そんな」
狐は静かに頷いた。その指先が私の頭を撫で続けてくれていなかったら、私はそれこそ身を裂かれるような悲鳴を上げていたことだろう。
「家族の誰にも云えなかった。夫には着物を売ったと、そう説明したそうじゃ」
それはそうだろう、と私は思った。それがたとえ家族のためだとしても、妻がほかの男に身を任せるのをよしとする夫がいるはずがない。
私はぶるぶると震える身体を狐に預け、口許に握った拳に力をこめた。思いもかけないひいおばあちゃんの秘密を知った心に、やりきれなさと怒りとどうしようもない悲しみが押し寄せてくる。
どうして、どうして、そんなことを――。
どうして、どうして、そこまでして――。
「そうまでして、家族を守りたかったのじゃ。ひとりのこどもも自分自身も諦めることなく、故郷へ帰りたかった。夫を裏切っても、こどもを裏切っても、家族のために尽くそうとした。それが多江の愛情だったのじゃろう」
辛く苦しい時代を生き抜き、ようやく平和が訪れたころになって、けれど、家族を守るために身を汚した事実が、ひいおばあちゃんを苦しめるようになった。誰にも云えない秘密は少しずつ少しずつ彼女を蝕み、やがて破綻が訪れた。
「壊れていく多江をの、吾はどうしても見捨てることができなかった。夜のうちならばと部屋に上がり、眠っていてさえ苦しむ彼女の悪夢を取り払ってやった。いつか吾の存在に気づかれて、話を聞いてくれと秘密を打ち明けられて、ますます傍を離れられなくなったのじゃ」
吾の存在は人には見えぬ。多江の頭がおかしくなったと周囲が囁き出して、それでも多江は吾を離そうとしなかった。ほかに話せぬ秘密を知る吾が、そのときの多江にとってはたったひとつの拠りどころだったのじゃろう。
「しかし吾とて父と約した務めがある。それを果たすため、吾が傍を離れるたびに、多江は吾を探し求めるようになった。人目も憚らず吾の名を呼び、泣き喚いて、その姿には心が痛んだ。一日のほとんどを眠って過ごしているにもかかわらず、いまなら大丈夫だろうと傍を離れたときに限って目を覚ましては、吾を探すのだ。哀れで哀れでならなかった」
狐の目にとろりとした涙が浮かんだ。頬を滑り、唇を伝って、顎の先から滴り落ちる。
「多江が亡くなったとき、吾は心の底から安堵した。後悔し続けた多江の魂が、現世を離れることによって救われたのだと、吾にはちゃんとわかったからじゃ」
狐が喋るたび、彼の涙が私の頬に落ちてくる。ぽたぽた、ぽたぽたと、それはまるで彼の心そのもののようだった。
「だが、多江の家族にはそのことが伝わっておらぬ。多江が己が身を裂くようにして助けたこどもらですら、多江を厭い、恥じて、忌避しておる。多江の子の身を案じながらも、吾はそれが悔しゅうてならなかった。だが、人の目に映らぬ吾にはそのすべがない。仕方のないことかと、なかば諦めておったのじゃが」
狐の声の調子が突如として明るいものに変わる。
「そこへ現れたのがそなたじゃ。吾の姿を見、吾の声を聞く、多江の裔。これはなんじゃ、運命じゃ」
「う、運命?」
そうじゃ、と狐は嬉しそうに云いながら私の身体をぎゅうと抱きしめた。痛い。
「そなたがおれば、吾の言葉を多江の子に伝えることができるではないか」
「はあ?」
「多江は子を愛しておった。むろん夫のこともじゃ。最後の最後まで家族のことだけを思い、案じてこの世を去った。許されぬ罪を犯したのも家族を守るため。ほかの誰に許されずとも、その家族にぐらいは許されてもいいと思うのは吾だけかの?」
「いや、そんなことは、ない、と思う、けど」
でも伝えるってどうやって、と私は尋ねた。
「あんたの姿はおばあちゃんにもママにも見えないんでしょう? その、あんたから聞いた話を私がいくら伝えても、莫迦云ってんじゃないよって、一蹴されて終わりのような気がするんだけど」
おばあちゃんもママも頑固だ。自分の目で見ることもできず、耳で聞くこともできない存在の言葉なぞ、
簡単じゃ、と狐はなぜかそこできわめて艶めかしい笑みを浮かべた。
「そなたと吾が契ればよい」
「はあ?」
「そなたと吾が二世を誓えば、吾は人としての魂をも得ることができる。むろんこの身は人としての形を得て、誰の目にも触れることができるようになるのじゃ」
ぎゅ、と狐はひどくうれしそうに私を抱きしめる。
「まさか多江の裔をこうして腕に抱ける日が来るとはの」
長い命も捨てたものではない、と狐は浮かれたように云う。
いやだ! 冗談じゃない! なんで私がひいおばあちゃんのために、妖怪なんぞとほにゃららを誓わねばならないんだ! ほかにあるだろ! ちぎる以外にも方法が!
ところでちぎるって、なにをちぎるんだ? 紙か?
「もしやと思っておったのじゃがの」
狐のどこか呆れたような声が頭の上から響く。腕のなかで暴れまくる私を完全無視して、狐は私の身体を捕らえたままなのだ。ええい、忌々しい。
「そなた、少うしおつむが足りないのではないかえ?」
ほっとけよ! そこは! あほの子で悪かったな!
「契るとはの、あれじゃ、愛し合うことじゃ」
「愛し? 合う?」
「いまの言葉で言えばの、セックスじゃ」
ぶはっ、と私の口から悲鳴とも笑いともつかぬ声が響く。
「なに云ってんの、あんた? どうして私とあんたが! なっ! そんな、えっ?」
「なにをいまさら」
「なにがいまさら」
大声とともに狐の腕のなかを抜け出した私は、とにもかくにも家に逃げ込もうと門をくぐる。焦ったように追いかけてきた狐の足がぴたりと止まった。
「先ほどのそなたは吾の目をじっと見つめ、吾の胸に身を預けていたではないか! 頬を染め、目を潤ませて、あれはその、オッケーのサインではなかったのか!」
「なにがオッケーだ、この変態狐! んなわけがあるか!」
だいたい私には恋人がいるわ! と叫べば、狐は、なんじゃ、とからからと笑った。
「あんな男とは別れればよい。どうせ、浮気し放題の屑みたいな男なのだ。そなたが心を痛める価値もない。ささやかに残る傷も吾がすべて癒やしてやるゆえに、安心して、さあ」
「なにが、さあ、だ。私の恋人を勝手に浮気男扱いしないでよ! ろくに知りもしないくせに!」
「知っておるぞ」
門のあちらとこちらでいったいなんの話をしているのだか、私はだんだん莫迦莫迦しくなってきた。おばあちゃんの哀しい話を聞かされて、ひいおばあちゃんのつらい秘密を教えられて、いやでも
「なーにを知ってるっていうのよ? あんたと私はさっき知り合ったばっかりじゃない。私の名前も知らない、住んでるところも知らない、なのに恋人のことは知ってるって? はったりもいい加減にしなさいよ。あんまりいい加減なこと云わないでよ」
そうじゃな、と狐は色香漂う瞳をすうと細めた。
「吾はそなたの名さえ知らぬ。悲しいことじゃ」
「べつに、悲しくは」
「いまさらじゃが、訊いてもよいかえ?」
なにやら不穏なほどに真摯な空気に、私は刹那口を噤んだ。狐はわずかに首を傾げたまま、私の返事を待っている。悲壮なほど真剣な眼差しに、名前くらいいいか、と思わず私は絆されてしまった。ひいおばあちゃんの悲しい真実を教えてくれた狐なのだ。名前を教えたくらいで罰はあたるまい。
「真優。時任真優」
「まひろ」
狐が私の名を呼んだ瞬間、ぶわりと身体じゅうが熱くなった。頬と云わず耳と云わず首筋と云わずどくどくと脈打ち、胸の真ん中も指の先もお腹の奥までもが鼓動に合わせてずくずくと疼く。なんだ、これ、は――……。
狐の唇が三日月に笑みを刻み、白い牙と紅い舌がわずかに覗く。
「吾の名は
狐の求めに私は応じた。拒むことなど、頭の隅をよぎりもしなかった。
「おだまき」
耳の奥でしゃらりしゃらりと世界の変わる音が聞こえた。ぐらりと身体が傾いて、気がつけばまたもや狐の腕のなかにいる。
「な、なに」
ふふふ、と苧環はうれしそうに笑った。
「吾とそなたは名を交わした。魂に刻まれた真の名じゃ。これで吾はそなたのあるところどこにでも行ける。招かれねば入れぬ、家のうちにでもな」
うっそりと浮かべた悪い笑みに、騙されたと気づいてももう遅い。
「さて、あとは契りを交わすだけじゃ。見たところ、そなた、処女ではないようだが」
バッチーン、とわれながら驚くような音が響いた。すべらかな苧環の頬に、私の手形がくっきりと刻まれている。
「なんてこと云うのよ!」
「まことであろうが」
本音を云えばの、と苧環は牙を剥き出し、ひどくおそろしい表情になる。
「相手の男を八つ裂きにでもしてやりたいところだが、まあ、やってしまったものは仕方がない。これより先は吾以外の男は決して許さぬゆえ、心するのだぞ? まあ、ほかとやろうと思わないくらいに、やって」
苧環が途中で黙ったのは、やつのほっぺたに私の第二撃が命中したからだ。
「あのね! 意味がわからない! っていうか! あんたの! その突然のデレと独占欲はなに! 途中すっ飛ばしていきなりそっちに行かないでよ!」
いやだからね! と私は喚いた。喚きすぎて息が苦しいが、そんなことにかまっていられない。この色気ダダ漏れの狐をどうにかして遠ざけなくては。
「恋人がいるの! 私は彼が好きなの! 浮気とかさせないでよ!」
「浮気?」
「浮気!」
私に指差された苧環は、ひどく悲しそうな顔で、吾が、としょぼくれた声を出す。
「浮気をされているのは吾だ。魂の伴侶がこうして傍におるというのに、ほかの男とのことばかり口にしおって」
口惜しゅうてならぬ、と苧環はしなやかな腕を伸ばして私の身体を引きずり寄せる。
「憎いことばかり云う唇は、こうして塞いでしまおうな」
な、と文句のひとつも云い返せないうちに、私は苧環にくちづけられていた。容赦のないくちづけに私の思考はあっというまに乱されていく。なんで、なんで、とひたすら混乱するばかりで抵抗することはおろか、なにかを考えることもできない。
熱に潤む瞳を上げれば、せつなく狂おしいほどの苧環の瞳が見下ろしてくる。そして、くちづけはますます深くなっていくのだった。
そのときの私は、まるで知らなかった。百年ものあいだ孤独に生きてきた妖にとって、己の姿を見ることのできる存在、それがどれほどに得がたいものなのかということも。
めぐり会えたそのひとりを、己の存在を認めたというただそれだけの理由で、どれほど深く愛しうるのかということも。
狐の情の深さを知らない私には、気づけるはずもないことだったのだ。
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