中編

「ねえ、おばあちゃん、時任の狐憑きって、なに?」

 私がおばあちゃんにそう尋ねたのは、いつもよりもだいぶ早い夕食のあと、使ったお皿を洗いながらのことだった。隣に立って梨を剥いてくれているおばあちゃんに、ずっと気になっていた昼間の男の言葉について、なにげなく尋ねたのだ。

 おばあちゃんの反応は驚くほどだった。大きく目を見開き、剥きかけの梨と包丁をぎゅっと強く握る。危ない、と私は思って、ごめんね、と云いながらおばあちゃんの手から急いで包丁を取り上げてまな板の上に置いた。

「訊かないほうがいいことだったの?」

「真優、あんた、どこでそれを」

 なんだか一気に小さくなってしまったように見えるおばあちゃんの手から梨も取り上げて、私は彼女を片づけたばかりの卓袱台のほうへと連れて行った。歳のせいか病のせいか、薄く軽くなってしまった背中を支えるようにしながら座らせてやり、ちょっと待ってて、と声をかける。

「梨、私が剥いちゃうから」

 洗い物の続きを手早く終え、梨をきれいに剥いて、使った包丁とまな板を洗うまでのあいだ、おばあちゃんはひとことも口をきかなかった。

 おばあちゃんは、ステージの進んだ膵臓癌だなんてまるで嘘みたいに元気だった。口はよくまわるし、頭もはっきりしているし、変わっていたことといえば、食事の量が少なくなったことくらいだけど、それだって、病気だと云われていなければ気がつかないかもしれないくらいに些細なことだと思う。

 だけど、やっぱりおばあちゃんは四年半分しっかりと歳を取っていて、それは私の上に積み重なった同じ年月よりも、もう少し重たいものだったのかもしれない。そんなふうに思ったのは、梨を持ったお皿を手に居間を振り返ったときのことで、そのときのおばあちゃんは卓袱台の上に身を預けるようにして背中を丸めていた。

「おばあちゃんっ」

 具合でも悪くなったのかと急いで傍に寄ってみれば、おばあちゃんは、なんだい大声出して、といつもの調子で眉根を寄せていた。

「いや、あの、どっか痛くなったのかと」

「いやだねえ、どこも痛くなんかないよ」

「でも、ママが」

「倫代がなんだって?」

 おばあちゃんは胃が悪いから気をつけてあげてって云ってたし、ともごもごと口のなかで云えば、おばあちゃんは、倫代が、とけたけたと笑った。

「あの子がそんなこと云うなんてねえ。こりゃ、あたしもいよいよお迎えでもくるのかね」

「おばあちゃんっ」

 冗談だよ、とおばあちゃんは云った。

「ごめんね。悪い冗談だった」

 その云い方に、おばあちゃんはもしかしたら自分の病気のことを知っているのかもしれない、と私は唐突にそんなことを思った。ママや私の手前、知らないふりをしているだけで、もしかしたら本当は、本当は――。

「真優」

 どうかしたのかい、真優、と云われて、おばあちゃんが何度も私を呼んでいたのだということに気づく。ごめん、と私は答えた。

 「なんでもない。ちょっとぼけっとしちゃって」

 食べよ、と私は梨を指差し、おばあちゃんより早くひとつめを摘まむ。おばあちゃんは、しょうがないねえ、と云いながら、近くにあった急須でお茶を入れてくれた。

 それからしばらくはあたりさわりのない話が続いた。私のほうからは、最近はどんな仕事をしているのかとか、資格の勉強は進んでいるのかとか、ママは元気そうかとか、それこそいつもしているようなことを少し詳しく話す。おばあちゃんからは庭先で子猫を産んだ母猫の話とか、花を荒らす烏の話とか、軒先に蜂が巣を作りそうになって、慌てて駆除してもらったこととか、そんな日常をのんびりと聞かせてもらう。

 帰ってくることこそなかったけれど、おばあちゃんはしょっちゅう私に電話をかけてくるし、私もとくに面倒がらずに話をするから、互いの近況はよく知っている。

 私に恋人ができたことももちろん話してあったけれど、おばあちゃんはそのことについていい顔をしなかった。おまえは資格を取って仕事をして、自分の力で生きていくつもりなんだろう。恋人なんかまだ早いと思うけれどねえ。

 早いもなにも、二十歳をとっくに越えてからできたはじめての恋人だ。遅いってことはあっても早いってことはないだろうと私は思うけれど、きっとおばあちゃんは私にママを重ねて見ているんだろうと思う。


 ママがわたしを産んだのは十九歳のとき。都会に働きに出て、ちょうど一年後のことだった。

 ママの最初の結婚相手、つまり私の生物学上の父親は、ママと同い年の学生だった。高卒で小さくとも堅実な会社に就職して事務の仕事をしていたママは、仕事には真面目だったみたいだけれど、遊ぶほうにも熱心だった。仕事が休みになる前の日には決まって飲み会に出かけては、男の人たちと大騒ぎして盛り上がるのが大好きだったらしい。

 生物学上の父親ともそういう飲み会で知り合って、盛り上がって、ついでに余計なところまでサカってしまった。若いせいなのか、相性がよかったのか、とにかくたった一晩で私ができて、そうしてふたりは一気に現実に引き戻された。

 一度だって堕ろす気になんかならなかったわよ、とママは云うけれど、本当のところはどうだかわからない。だって妊娠がわかったとき、ママはまだ十八歳だ。退屈な田舎からやっと出てきて就職したばかりで、なにもかもがさあこれからってときにこども。そのときのママがなにを考えていたとしても、私にはママを責められない。

 少なくとも現実のママは一生懸命私を守ってくれた。逃げ出そうとする男の首根っこを実家に乗り込んでがっしりと押さえ、婚姻届に判子を押させた。結婚していない女がこどもを産むのは、社会的にハンデが大きい。それを知っていたママは、たとえこのあと離婚することになるとしても、と男を脅しつけ押さえつけ云うことを聞かせたのだ。

 案の定というかなんというか、私が生まれて数日で離婚届を出した男はすぐに姿を消した。ママは乳飲み子を抱えてひとりで生きていかなきゃならなくなった。妊娠が発覚したとき、産むことに難色を示したおばあちゃんのことは金輪際頼るもんかと、心に決めていたそうだ。無理に決まっているというのに。

 まだ手の離せないこどもを抱えた若い母親に、そうそう仕事なんかない。水商売や風俗ならどうにかなるかもと思ったらしいけど、おっぱいをほしがってわんわん泣く赤ん坊を抱えている女に酌をしてもらいたい男はいないだろうし、オムツを換えたばかりの手で自分のナニをアレしてもらいたい男も少ないだろう。

 結局、ママは田舎に帰ってこざるをえなかった。おばあちゃんに頭を下げ、ここに置いてくださいと、仕事はこれから探すからと、そう云って頼み込んだそうだ。ママは私をおばあちゃんに預け、ここからどうにか通えないことはない近くの町のそこそこ大きな会社に勤めるようになった。

 私がまだとても小さいうちは、ママも心を入れ替えたように仕事と育児に専念していたそうだ。若いころの過ちを取り戻そうとするかのように私を可愛がり、おばあちゃんを労わった。きっとママなりの贖罪だったのだろう。

 だけど、そのうち私が大きくなってくると、ママはまたもとの奔放さを思い出したようだった。贖罪に飽きたのかもしれない。仕事の帰りに飲みに出かけ、そのまま帰らないことも多くなった。一泊だった外泊が二泊になり三泊になり、しまいには平日はあっちで暮らすからとアパートまで借りてしまった。

 おばあちゃんはママの勝手をさんざん詰ったけれど、家を離れられない彼女は圧倒的に分が悪い。ママはとうとう月に一度、三か月に一度、半年に一度しか帰ってこなくなり、私はおばあちゃんとふたりきりで暮らすことにすっかり慣れてしまった。

 挙句、連れてきたのが件の再婚相手だ。倫代、なんだっておまえ、真優を邪険にするようなあんな男がいいんだよ。おばあちゃんは泣きながらママを責めたけど、ママは全然相手にしなかった。だって真優、あなたここが好きでしょう? 前にママと一緒に暮らそうかってアパートに連れて行ったときも、あなた帰る帰るって、そればっかりだったもんねえ。

 そりゃあそうだろう、と私は思った。なんの説明もなくいきなり学校を休まされて見知らぬところへ連れて行かれ、そのうえアパートの一室でひたすらにママの帰りを待たされるばかりの暮らしでは寂しくもなる。友だちもいない、おばあちゃんもいない時間に耐えてみれば、帰ってくるのは仕事に疲れてろくに口もきいてくれないママだけなのだ。

 あのときのなんともいえない苦い気持ちを思い出し、もういいよ、と私は云った。ママの好きにすればいい。私はおばあちゃんとここで暮らすから。

 倫代っ、とあのときのおばあちゃんはものすごい剣幕でそう怒鳴って、ママを引っ叩いた。びっくりしたのかほっぺたを押さえたままぽかんとしているママに、おばあちゃんはなおも怒鳴った。あたしたちはもう娘でも親でもないっ、もう二度とここへは帰って来るんじゃないよっ。


 私が手に職をつけることを、おばあちゃんはずっと望んでいた。自分で食べていけるすべがあれば、男なんかに縋らなくてすむだろう、というのが彼女の持論なのだ。

 そのせいもあるのかなあ、と私は梨を齧りながらぼんやりと恋人のことを考えた。いまの私は資格試験に挑戦している最中の半人前だ。だから、私は恋人をおばあちゃんに会わせる気には、まだならないのだろうか。恋人なんかまだ早い、というおばあちゃんの呪いは私の中に確実に根付いていて、彼と一緒にいることを、本当はどこかうしろめたく思っているのだろうか。

 もし、そうなのだとしたら、彼をここへ連れてくる気にならなかったことも、ぐっと前向きに考えられる。私がここへ来るあいだに考えていたことよりはずっと平和で建設的だから。私が早く一人前になればいいだけのことだから。

「真優」

 ふとおばあちゃんが私を呼んだ。急須で新しいお茶を注ぎながら、さっきのあれだけどね、と小さな声で続ける。

「さっきの?」

「おまえ、云ってたじゃないか。ほら、あれだよ、狐憑き」

 あ、うん、と私は吃驚びっくりして口のなかの梨をほとんど噛まずに飲み込んでしまった。大きな塊が喉に痞え、息苦しさに咳き込んだ。

「莫迦だね、ほら」

 差し出されたお茶を飲んで、一息ついて、涙の滲んだ目でおばあちゃんを見る。おばあちゃんはどこか遠い目をしながら、その話、どこで聞いたんだい、と云った。

「どこでって」

 家の前にいた怪しげなコスプレ男からです、とはとても云えない。あいつの着ていた服の説明をするだけで寝る時間になってしまいそうだ。

「誰かになんか云われたのかい」

「誰かって?」

「このへんの誰かさ」

 おばあちゃんは小さな声で云って湯呑に口をつけた。低い声だったけれど、いや、低い声だったからこそはっきりとわかる憎しみが、その声音には込められていた。私は驚いておばあちゃんをじっと見つめた。

 誰かが晒す醜い感情は、その本人よりも周囲をより深く傷つけるものだということを私はよく知っている。おばあちゃんとママが云い争いをするたびに泣いていた小さいころに、この身をもって覚えたことだ。

「ううん、違うよ」

 誰もそんなこと云ってないよ、と私は云った。おばあちゃんの憎悪を――それはもしかしたらそんなふうに呼ぶのに似つかわしくない、ごくささやかな感情かも知れないけれど――、これ以上煽るようなことをしたくなかったからだ。

「この前、仕事でね、この辺が出身だっていう人に偶然会ったの。その人が云ってたんだよね、狐憑きって知ってるかって。私、知らなかったから、知らないって答えたんだけどさ、おばあちゃんならなにか知ってるかなって、それで訊いてみただけなんだけど」

「その人、時任の狐憑きってそう云ったのかい?」

 え、と私は動揺した。

「ど、どうだったかなあ。時任ってあんまりある苗字じゃないからなあ。珍しいから思い出したんだけどって、名乗ったときに、そう云われたような気もするんだけど、ごめん、よく覚えてないや」

 ふうん、とおばあちゃんはさも納得していないというように頷いた。あまり頭がよくなくて嘘の下手なわたしのことを、おばあちゃんは私以上によく知っている。小さいころ、悪戯や失敗を知られたくなくて嘘をつくたび、おまえは嘘が下手なんだからやめておきな、といつもいつも見破られていたものだ。

「狐憑きってのはね、おまえのひいおばあちゃんのことだよ」

「え?」

「ひいおばあちゃん。おまえは会ったことがなかったね。ママが生まれるよりもずっと前に亡くなったからね、あの人は」

 ひいおばあちゃんはおばあちゃんの母親だ。自分の母親を、あの人、という冷たい呼び方をするおばあちゃんにショックを受け、私は言葉を上手く見つけられなくなってしまった。

「ひいおばあちゃんはね、唐沢という家の娘だった。評判の美人でね、時任の跡継ぎ息子、つまりひいおじいちゃんに見初められてこの家に嫁いできた。だけど、本当は嫁いでくるずっと前から好きな男がいたんだよ。その男のことが忘れられなくて、夫のことを受け入れられなくて、こどもまで産んだくせに、この家を嫌い抜いて嫌い抜いて、最後には自分を失って獣に帰ったようになって亡くなったんだ」

「病気、だったの?」

 精神を不安定にさせるいくつかの病気の名前を挙げると、おばあちゃんは力なく笑った。

「いまでならそう云うのかもしれないね。だけど、あのころはそんな言葉はなかった。ほとんどおとなしく寝ているだけだったけど、そこにいもしない相手と長いことそりゃあ楽しそうに喋り続けて、ときには金切り声を上げてあたりを走りまわることもあった。そうなってしまうと、あたしらこどもや夫のことはまるで目に入らない様子でね。最後は譫言のように男の名を呼びながら亡くなったよ。たまき、たまきって」

 背中がぞくりとした。自分の中にはたしかに曾祖母の血が流れている。男運のない祖母、男狂いの母、そして――、男を見る目のない私。

「あの人も苦労しているんだ。それはわかるんだよ。なにしろ時代が時代だった。大きな戦争、災害、それからまた戦争。世の中は滅茶苦茶だった。いろんなことがどんどんどんどん変わっていって、昨日正しかったことが明日には間違いになるし、お金だって何度も紙屑同然になる。そんななかで結婚して、こどもを産んで、育てて、家を守らなきゃならなかったんだ」

 時任の家はそれなりに大きな家でもあったからね、とおばちゃんは云う。

「いまとは時代が違うだろう。嫁に来いと云われれば、好きな相手がいたって断れるはずもなくて、それでも嫁いだら嫁いだでこの家の人間にならなくちゃいけない。あたしにはここは生まれ育った家だけど、あの人にとっては最後まで他人の家だったのかもしれないね」

 なんという寂しい言葉だろう、と私は胸が苦しくてたまらなくなった。望まない結婚を強いられても、必死に自分の居場所を探し続けたのであろうひいおばあちゃんのことも、そんな自分のお母さんのことをあの人と呼び続けるおばあちゃんのことも、気の毒でならない。

 だけどね、とおばあちゃんはそこで少しこの調子を変えた。

「お父さんとあの人、あたしと妹たち、家族水入らずで暮らしていた時期もあったんだ。そのころだけはあの人も母親らしい母親だった。お裁縫が上手でね、いろいろ仕立ててもらったものだよ。学校へ通うための制服まで縫ってくれた」

「制服? 小学生で?」

「おばあちゃんはね、うんと小さいころ満州にいたことがあるんだよ」

「満州?」

 そう、満州、とおばあちゃんは懐かしむように繰り返した。

「いまの若い子たちには歴史になっちゃってるかもしれない。それも、なんだか触っちゃいけないような、むずかしい歴史にね」

 そうかもしれない、と私は思った。深く勉強したわけでもないけれど、日ごろほとんど意識することのない近代史は、どこかうしろめたく、できれば触れたくはない、云ってみれば、まだ塞がったばかりでひどく疼く傷のような存在だ。いつもは忘れているけれど、その気になればいつでもその痛みを思い出せるような。

「だけどあの人もあたしたちも、その時代を生きてきた。そういう世代にとってはね、いまと同じひとつの時代にすぎないんだよ。いいこともあれば悪いこともあった。たしかに混乱は多かったけれど、人はみんな逞しくて、そういうなかにも笑いや楽しみはたくさんあったのさ。満州もね、そういう場所だった」

 なにを云うこともできずに私はただ頷いた。

「おばあちゃんのお父さんという人は鉄道会社で働いていたんだよ。家族を連れて向こうに渡って、ほんの少しのあいだだけど、そのころは本当に楽しかった。お父さんの仕事も順調だったし、あの人もまだいたって普通の母親でね。あたしや妹たちのことも可愛がってくれた。でも、そのうちに戦争がはじまった」

 おばあちゃんの眼差しが居間と隣り合った仏間の奥へと向けられた。そこにはひいおばあちゃんだけじゃない、時任の家の先祖たちの位牌がずらりと並んでいる。

「戦局が悪化するにつれて、暮らしはどんどん厳しくなっていった。最後はもう命以外のなにもかもを捨てて帰ってくることになった。人の浅ましさや汚らしさ、残酷さ、いやなものを山ほど見たよ。もちろん、あたしたちもそういういやな人間のひとりだった」

「おばあちゃん」

「お父さんが大きな鉄道会社で働いていた。だからほかの人よりも早く、いろんなことを知ることができたんだろうね。混乱が本当にきわまる前に、家族みんなで日本に帰ってこられたのはそのおかげなんだよ。あっちで親しくしていた方たちの中にはね、こどもを置き去りにしてきた人も、奥さんや旦那さんとはぐれてしまった人もいた」

 もちろん、帰ってこられなかった人もね、とおばあちゃんは力なく云う。

「あの人はやさしい人だった。望まない結婚をして、産みたくもない子を産んで、それでも夫やこどものために尽くしてくれるような、やさしい人だった。そんな人にはね、あの経験は耐えがたかったんだろうと思うよ」

 子を守る母であらなければならなかったぶん、ひいおばあちゃんの見たものはおばあちゃんが見たものよりも数段残酷であったのだろうということは、その時代を知らない私にも想像できる。

「帰ってきて、戦争がひどくなって、でもここは田舎だったからね。家を焼かれることも、ひどく飢えることもなかった。人はたくさん亡くなったけれど、おばあちゃんのお父さんはこの家の長男だったから戦地へ行かされることもなくて、どこか遠い話だった。だけど、それはあたしがまだまだこどもだったからの話で、あの人にとっては違ったんだろうね」

 召集された義弟たちが次々に戦死し、暗く沈んだ家の中で姑も亡くなった。厳しい舅と不在がちの夫、まだまだ幼いこどもたちを抱えて、ひいおばあちゃんは必死に生きた。やがて戦争が終わって、世の中が少しずつ落ち着いてきて、そして、ひいおばあちゃんは心を病んだのだという。

「少しずつ少しずつ様子がおかしくなっていった。周りの者は誰も、あたしもお父さんも、誰も気づかなかった。みんな生きるのに必死だったというのはただの云い訳で、本当はおとなしくて口数も少ないあの人の気持ちを、みんな忘れていたんだと思う」

 本当はこんなところにいたくはなかったんだ、というあの人の気持ちをね、とおばあちゃんは悲しそうに云った。

「ある日、朝起きたら食事が用意されていなかった。そのころにはもう舅、おまえのひいおじいちゃんのお父さんという人は亡くなっていて、あたしたちもそれなりの年齢になっていたけれど、毎朝の支度を調えてくれるのは、あの人の役目だった。寝室に様子を見に行ったらね、蛻の殻でさ。そこからは大騒ぎだったよ」

 結局ひいおばあちゃんは裏手の山、先祖代々の墓のあるほうで寝間着姿のまま蹲っているところを無事に発見され、保護された。夜のあいだの記憶はなく、着衣に乱れもなく、とくに抵抗することもなく夫に手を取られて家へと戻ったのだそうだ。

「それからそういうことはたびたび起きるようになって、ひどくなるのに時間はかからなかった。夜のあいだに家を抜け出して、おかしな叫び声を上げて近所を走りまわって、いもしない男と話をするようになった」

「たまき」

 呟くように私が云うと、そうだよ、とおばあちゃんは頷いた。

「いまから考えれば、それもごく短いあいだのことだったけれどね。そうなってから亡くなるまで、そう長い時間はかからなかった。おばあちゃんのお父さんは心労であとを追うように亡くなって、おばあちゃんは家を守るためにおじいちゃんと結婚したんだよ」

 余所者で、あの人の噂をろくに知らなかったおじいちゃんとね、とおばあちゃんは笑った。

「時任の狐憑きっていうのはね、おかしくなったあの人を近所の連中が陰で嗤うときに使っていた呼び名だよ。このあたりで大きな顔をしている家の嫁が物狂いになって、さぞやおもしろかったんだろう。いやな言葉だよ、まったく」

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