狐火の梯子

三角くるみ

夏の章

前編

 ひさしぶりに帰った故郷は、あいかわらず鄙びた匂いがした。

 私は夏のボーナスで買ったばかりのトートバッグを肩にかけ、手には厚手のキャンバス生地でできたボストンを持って、無人の改札を抜けたところで大きなため息をついた。ここはあいかわらず、なにもないところだ。

 改札口の庇の下にあるわずかな日陰に立って抜けるような夏空を眺め、うるさいほどの蝉の声を聞き、どうにか諦めがついたところで仕方なく日傘を差した。これだけ蝉がじいじいじいじい鳴いていても、夕方には別の虫がりんりんりんりん鳴くのだから節操がない。夏なのか秋なのかはっきりしろ、と思う。

 おばあちゃんの家まではここから歩けば三十分ほどもかかる。この暑さのことを考えると心底うんざりするけれど、まさかおばあちゃんに迎えに来てもらうわけにもいかない。彼女の車の運転は、なんというか、そう、曲芸の域に達している。

 バスが来るまでは一時間、タクシーは電話で呼ばなくてはならない。日ごろの運動不足を補うつもりで、と意気込んで歩き出してすぐに額から汗が噴き出した。都会の湿った重苦しい蒸し暑さはない代わりに、乾いた容赦のない暑さが襲ってくる。人気のないアスファルトの道をとぼとぼと歩く身にはつらい。

 ここへ帰ってくるのは、じつに四年半ぶりのことだ。高校を卒業するまで暮らしていたこの町を出て、専門学校へ行き、都会で就職した私はもうすっかり新しい環境に馴染んでしまっていた。

 隣町の高校を卒業したあと都会へ出た私は、そのあと二年、建築系の専門学校へ通い、いまは設計事務所でアシスタントをしながら資格を取るための勉強をしている。

 贅沢をしなければ独りでちゃんと暮らしていけるだけのお給料が貰え、将来のための勉強ができるいまの事務所の居心地は悪くない。業界内の評判も悪くないし、仕事は厳しいけれど不満はなかった。

 専門学校での友だちにも、去年の終わりごろからつきあいはじめた恋人にも恵まれ、私の毎日はとても充実していて、だから、この町のことを思い出す余裕なんてどこにもなかった。本当に、全然。

 にもかかわらず、週末を含めてたったの四日間しかない短い夏休みを使ってここへ戻ってきたのは、ママからの電話がきっかけだった。

 おばあちゃんがね、癌なのよ、とママは云った。膵臓癌なんだって。ステージ三のね、えーと、なんだったかしら、とにかくもう治療もむずかしいみたいなのよ。歳が歳だから手術もつらいだろうし。もう、いつどうなってもおかしくないだろうって、医者はそう云うの。だから真優まひろ、あなた、一度会いにいってあげてもらえない? おばあちゃん、あなたのことだけはいつも気にかけてるみたいだから。

 癌。手術。いつどうなっても。ママの云った不吉な言葉が頭の中をぐるぐるとまわった。ママからの電話を切ったその場で、私は恋人に電話をかけた。ごめんね。夏休みの旅行、行かれなくなっちゃった。

 病気の祖母に会いに行く、と云うと、やさしい恋人は、それは心配だね、と快くキャンセルを許してくれた。

 ごめんね、と私は云った。この埋め合わせは必ずするから。

 期待してるね、と恋人は笑った。美味しいもの、探しておくよ。

 一緒に行こう、とは云えなかった。ここが私の育った町なの、と連れてくるにはまだ少し早いような気がしたし、いつも精一杯に都会の子ぶって彼に接している私の根っこを、こういうかたちで知られることにはまだ抵抗があった。

 たぶんその抵抗感は、私が彼をあまりちゃんと信じきれていないということに繋がっている。むろん理由があってのことなのだけれど、私はそれを口にはできない。言葉にしてしまえば取り返しのつかないことになるのは明白で――、だから、私は彼を連れて帰省しないことを当然と思いながらも、ささやかなうしろめたさを感じている。

 日傘の陰で、私は彼の顔を思い浮かべた。縁のない眼鏡をかけた、穏やかな容貌。癖のない顔だちよりも、常に浮かべているやさしい笑みが印象的だ。

 彼のどこが好きなのかと訊かれれば、明るい性格とよく喋るところ、それからやさしいところだと答えることにしているが、本当に一番気に入っているのは外見かも知れなかった。美容師という職業柄もあるのだろうが、彼はとてもお洒落だ。自分の容姿に似合う服をちゃんと知っていて、安易に流行に飛びついたりしない。

 そういえば、彼も私の外見を気に入っていると言っていた。まっすぐで艶のある黒髪と象牙みたいなこのやわらかい色の肌が素敵、と。ぼくたちは似合いの彼氏彼女だよね、と彼はそうも云ったことがある。ぼくたちの身長や体格、容姿や服装のバランスはとてもいいよね。そうは思わない、とショウウインドウに映っている私たちを眺める彼の目は、とても満足そうだった。

 あのときの自分がどんな顔をしていたのか、どんなことを考えていたのか、私はさっぱり思い出すことができない。もしかしたら思い出したくもないくらいに不愉快なものを見たか、考えたかしたのかもしれないけれど――、いやいやいや、やめておこう。こんなこと、いま思い出したってどうなるものでもないのだから。

 とりあえずいまは、おばあちゃんの家にたどり着くことのほうが大切だ。


 ああ、おばあちゃんには病気のこと云っちゃだめよ? 胃潰瘍って云ってあるんだから。云い訳? そんなの自分で適当に考えてよ。あ、そうだわ、お墓参りってことにしなさい。おばあちゃん、ああ、真優にとってはひいおばあちゃんね、の命日も近いし。ついでにお墓、お掃除してきてくれると助かるわあ。

 ママの台詞を思い出しながら、私はゆっくりと田舎道を歩き続けている。膵臓が悪いのに胃潰瘍って、ずいぶん杜撰な云い訳だと思ったけれど、ほかにきっと適当な理由が見つからないのだろう。

 それにしても、やっぱりママは自分では来ないつもりなのだろうか。

 私がこの田舎町をあまり好きにはなれないように、ママもこの町が好きじゃなかった。私と同じ隣町の高校を卒業してからすぐに都会に出て、あっというまに結婚して離婚して再婚した。私はママの最初の結婚でできたこどもだ。ママの言葉を借りれば、とんでもないろくでなしで人でなしの遺伝子を借りた割には上出来よ、ということになる。

 ママと私から逃げた最初の結婚相手に比べればだいぶマシだけれど、ママの再婚相手もやっぱり私の父親にはならなかった。彼はこどもが好きじゃなかったのだ。私はママを弟やら妹やらに取られちゃう心配はしなくてもよかったけれど、ママと一緒に暮らすこともできなかった。

 僕はきみと結婚したいんであって、あの子の父親になるつもりはないんだよ、というのが、ママと結婚するといって挨拶に来た日、お茶を用意している私とおばあちゃんにも聞こえるようにママの彼氏が云った言葉だ。

 まったくあの子はほんとうにろくでなしばっかり、とおばあちゃんは悲しそうにそう云って、客用の湯呑をお盆に載せていたっけ。

 私はといえば、悲しんでいいのか怒っていいのか呆れていいのか、もうなんだかとにかく半分くらいはどうでもよくなってしまっていた。どうせ再婚したころでママはここへは戻ってこないのだろうし、私は相変わらずおばあちゃんとここで暮らすのだ。ママもママの彼氏もいてもいなくてもおんなじ。

 ママがここへ帰ってきたのは、私がまだ小学五年生だったあのときが最後だ。少なくとも、私が知っている限りでは。

 ママとおばあちゃんはね、ウマが合わないの、とママはよく云っていたけど、それはそっくりそのまま私とママにもあてはまる。私とママはウマが合わない。合わせようとも思わないし、それでいいと思っている。

 だけどおかしなことに、私はずっとママとおばあちゃんには仲直りしてほしいと思っている。拗れてしまった親子くらい修復のむずかしい関係はないと知っているのに、それでも、と思うのはなぜなんだろう。

 私はいったん足を止め、トートバッグとボストンバッグをそれぞれ持ち直してから、また歩き出した。日傘が邪魔で仕方がないが、恋人が褒めてくれた肌をこの陽射しに晒す気にはならない。畳んでボストンに入れてしまっている帽子を、ここで取り出すのは面倒くさい。

 あのふたりはおかしな母娘だ、と私はまたおばあちゃんとママを思う。

 倫代みちよは元気にしているの。私に電話をかけてくるたび、おばあちゃんは決まって最後にそう尋ねる。まるで、それがその電話の本当の目的だったみたいに。いつも必ず。

 うん、元気にしているみたいだよ、と私は答える。本当のところなんてろくに知りもしないくせに。

 ママだって同じだ。おばあちゃんがしょっちゅう私に電話してくることを知っていて、おばあちゃんは最近どうしてるの、ってときどき訊いてくる。母親と同じように、なにかのついでを装って。

 ああ、もう、直接話をすればいいじゃないのって何度も云った。私を伝言係に使わないでよ。

 だけど、今回はさすがに私を伝書鳩に使うことはやめたんだわ、と私はふと気がついた。ママから知らされるまで、私はおばあちゃんの病気のことを知らなかった。病院から話があると知らせがあったのか、おばあちゃんから具合が悪いと連絡したのか。本当に大事なことはやっぱり私じゃだめなんだ。

 なんだろう、この疎外感。なんていうか、すごく、すごく――。


 左手側に畑が続く道を、相変わらずのろのろと歩いていく。右手側に並ぶ家は、どれも庭先から玄関までが見通せる開放的な造りだ。ろくに塀もありゃしない。せいぜいが丈の低い生垣だけで、都会の暮らしに慣れた目にはいかにも不用心な気がする。

 ここから四軒先がおばあちゃんの家――それはつまり私が生まれ育った家だという意味でもある――、というところまでやって来て、私はふと見慣れぬ人影に気がついた。もちろんこの町を出て何年も経っているし、辺りに私の知らない人がいてもおかしくない。だけど、そいつはいかにも怪しげに見えたのだ。

 やだなあ、と私は思った。あの人、うちの前にいる。うちの前にいて、うちを覗き込んでるみたいに見える。やだなあ。変な人じゃないといいんだけど。

 近づけば近づくほどに、その人影はいよいよ奇妙なところが目についた。

 まず、行動が怪しい。畑に背を向けるようにしておばあちゃんの家の門の真正面に立ち、腕を組んでじいっとなかを見つめている。ときおりなにかを追うようにゆらゆらと揺れているさまは、まるでその人自身が陽炎のようだ。

 それに、なんだかもっさりとした服を着ている。足元と腹のあたりが妙なぐあいに膨れていて、メタボを患っている人がサルエルパンツでも履いているみたいに見える。あれはスタイルのいい人が着ないと悲惨なことになるんだけど、ええと、遠目からだとそれほど悲惨でもなさそうなのが不思議。お腹が出てるのにスタイルがいいってどういうこと?

 さらに近づくと、またもや奇妙なことに気づく。うちの前に仁王立ちしている男――そこまで来ればもう、その人が男であることははっきりしていた――のお尻のあたりに、なにやらふさふさとしたものが、えっ? えっ? なにあれ、尻尾? 尻尾のコスプレ?

 不審は即座に恐怖へと変わった。

 変態がいる。出っ腹にサルエル履いて尻尾をつけた変態がうちの前に立っている。

 それに、それに、それに見間違いでないのなら、男の頭には、頭には耳が、いや、耳がついてるのはいいんだけど、その耳が――。

「そなた」

「ひっ!」

 思わず悲鳴を上げた。

「おい」

 背中に男の気配が迫る。やばい、まずい、追いつかれる前に家のなかへ入らないと――。

 いつの間に正面に回り込まれてしまっていたのか、ぽすっと音を立てて私は男の胸へと衝突した。激突とまではいかなかったのは、変態に怯えた私の足が思ったよりもスピードを出せなかったことと、男がうまいこと衝撃を吸収するように身を引いてくれたことが原因だ。

 視界いっぱいゼロ距離に男の胸が迫っている。なにやらよい匂いがして思わず和みそうになってしまった私は、慌てて数歩後ずさり、なんですか、と尋ねた。思いきりどもったのは、まあ、ご愛嬌と云ったところだろう。

「落ち着け。取って食ろうたりはせぬ」

 いやあ、と私は心のうちで悲鳴を上げた。喋り方まで変だ、こいつ。

「だから落ち着けと云うておろうに」

「おっ、おっ、落ち着いてますっ」

「どこがだ」

 獣の尻尾と獣の耳でコスプレした男に突っ込まれ、私は思わず切れた。

「あんたのせいでしょ! あんたのっ!」

われの?」

「あんたの、その! 耳と尻尾! それ! そのせい!」

 男は驚いたように目を丸くする。

「だいたいあんた誰? 人の家訪ねてくるなら、それなりの格好ってもんがあるでしょうよ? 耳と尻尾に、そっ、その、ええと、なに、その服?」

 そう、男は頭にケモミミを差し、お尻にシッポを生やし、おまけになんだか全体的に奇妙な衣裳――全身ダボダボしているが、少なくともダボTやサルエルパンツではない――を纏っていた。

 これを見て取り乱さないほうがどうかしている。都会のハロウィンパーティじゃないのだ。田舎のお盆だ。

「そなた、直衣のうしを知らんのか?」

「脳死?」

 動揺のあまり日傘もかなぐり捨てた私は、かんかんと照りつける日差しに脳細胞を焼きながら、目の前の非常識に常識を説こうと必死になる。男の服装などこの際どうでもいい。

「あの、どちらさまですか? うちにどんなご用でしょうか?」

「うち?」

「ここです。あなたがさっきからずっと見ていた、この家。ここ、私の家なんですけど」

「そなたの?」

 正確にはおばあちゃんの家だけど、と私は思ったが訂正はしなかった。

「はい、そうですけど」

 いまさら感はあるけれど、言葉を少しずつあらたまったものに変えていく。男の見た目はともかくも、言葉を交わしてみれば、会話はちゃんと成立することがわかって、ちょっと落ち着いてきた。同時に、あの態度はないよな、と反省する気持ちと、不審者にはすぐにでもお引き取り願いたい、というまっとうな気持ちが同時に湧いてくる。おばあちゃんの知り合いならきちんと家に通さねばならないし、知り合いでないなら帰ってもらわなくてはならない。みょうちきりんな形で家の前に立っていられるのは迷惑だ。

「あの」

 なにやら黙り込んでしまった男に、私は果敢に話しかけた。このときにはすでに、うちに用がないならないでとっとと追っ払ってしまいたいという思いが勝っていた。

「用がないなら帰ってもらえますか? あんまり妙な格好でうちの前に立っていられるの、困るんです。ご近所の目もあるので」

 おじいちゃんを早くに亡くし、女手ひとつで育てた娘はずいぶん若くして母親になったと、おばあちゃんの評判は近所であまり芳しくない。なにひとつとしておばあちゃんに責任はないはずなのに、夫に先立たれたことも娘が奔放に育ったことも、全部おばあちゃんが悪いみたいに云われる。ここはそういう町だ。

 郵便局に勤めていたおじいちゃんの寡婦年金で不自由なく暮らしてはいるけれど、おばあちゃんには友人という財産が少ない。家の前に奇妙な男が立っていたなどという噂が広まっては、ただでさえ少ないおばあちゃんの味方がますます減ってしまうかもしれないではないか。

 ふむ、と男は指先を顎に当てて考え込んだ。

「そなたには吾が見えるのか?」

 ――なんですって?

 先ほどの混乱がまたぞろ戻ってきそうな気配がして、私は三つほど呼吸を数える。大丈夫、大丈夫。落ち着いて、落ち着いて。スマホはトートに入ってる。すぐに掴んで110番。

「見えますよ。普通に。おかしなコスプレまで全部」

「こすぷれ?」

 違うんですか、と私は尋ねた。日傘を拾う余裕ができたのは、どうやら自覚のない変態であるらしい男が、少なくとも暴力的な手段には訴えてこないらしいことが理解できたせいだ。最初にぶつかったときを除き、男はわたしが腕をいっぱいに伸ばしても届かない場所に立っている。パーソナルスペースの確保は心を落ち着かせる。

 違うというか、と男はぶつぶつと云った。

「なにやらしばらくおらぬようにしておったあいだに、世の中はずいぶんと変わったようだの」

「世の中がいくら変わっても、その格好は非常識だと思いますけど」

「これは吾なりの礼儀ぞ? 参内さんだいも許される立派な衣裳じゃ。非常識とはなんたる無礼」

「三台?」

 だめだ、と私は思った。話がまるでかみ合わない。

「まあ、もう、なんだっていいですよ」

 それよりも、と私は差した日傘を持ち直して首を傾げた。

「うちになんのご用ですか?」

 そんなにおかしいかの、とかなんとか云いながら、自分の胸やら頭やらをぺたぺたと触ってなにかを確かめていたらしい男は、私の言葉に首を傾げた。

「うち?」

「そうです。ここ。うち。覗き込んでたでしょ、さっき。見てましたよ。あなた、誰なんです? おばあちゃんの知り合い?」

「おばあちゃん?」

「じゃあ、ママ? ママならここにはいないけど、昔の同級生とか?」

「まま?」

 あー、と男はしばし私から視線を逸らし、そういうことか、と云った。

 はじめに言葉をかけられたときから一瞬たりとも逸らされなかった視線が外れたことで、私はあらためて男を観察する余裕ができた。

 男に言わせると礼を尽くしているらしい衣服に包まれた身体は、ずいぶんと背が高くおまけにがっしりとして逞しい。たっぷりとした袖口から覗く手や、妙に詰まったデザインの首許から覗く喉、いまは余所見をしている顔は、いずれも驚くほどすべらかで、なんというか色白で体温が低そうだ。髪はごく薄い色をしたくせっ毛で、長く伸ばしているのを適当に括っているのか、だいぶラフというか、ずいぶんとぼさぼさに見える。顔だちは悪くない。全体的にあっさりしているけれど、切れ長の瞳には妙な色気がある。

 少なくともまっとうな勤め人じゃないわね、と私は思った。建築現場には世間様よりは自由な髪形が溢れているけれど、長い髪は監督や職長に嫌われるし、なによりちゃんと結んでおかないとヘルメットもかぶれないし、危なくて仕方がない。そもそも、お堅いサラリーマンや公務員には髪を伸ばすこと自体が許されないだろうと思う。

 それに、頭につけたケモミミカチューシャとお尻から生えてる尻尾。これでこいつがまっとうな社会人なのだと云われたら、世の中に絶望してしまいそうだ。

「そなた、多江たえすえか」

「なんですって?」

 タエノスエって、なんだそりゃ?

「多江。時任ときとう多江。この家に嫁いできた唐沢からさわの娘じゃ」

 嫁いできた、そう云われて、男がおばあちゃんの知り合いではないことがわかった。おばあちゃんは生まれたときからこの家の娘なのだ。ママもそう。だから多江というのは――。

「ひいおばあちゃん。あなた、ひいおばあちゃんの知り合いですか?」

 そうか、と男はやわらかく笑った。

「多江の曾孫ひまごか。そなたに会うのははじめてじゃが、多江の面影もなくはないの」

 なにやら急に親しげになった男の態度にふたたび不審なものを感じて、私はまたもや数歩あとずさった。男は腕組みを解き、そうかそうかと満面の笑みだ。

「あの、なんなんですか?」

「なにがじゃ?」

「ひいおばあちゃんはとっくに亡くなってますけれど」

 知っておる、と男は云った。人はとても儚いものだからの。

「じゃあ、なんで?」

 男は唇を綺麗な三日月に曲げて音もなく笑んだ。

「驚かせてすまなかったの」

「用はないんですか?」

「用はある」

 じゃあ、おばあちゃんを呼べばいいじゃないですか、と私は言った。

「そんなところで突っ立ってたって、おばあちゃん、気がつきませんよ」

「かまわぬ。ここにおることが、その用なのじゃ」

 え? どういうこと? それってつまり、ずっとそこにいるってこと?

 さも迷惑そうな私の心の声が聞こえたのだろうか、男は笑みを深くして答えた。

「吾はここから先には入れぬゆえ、安ずることはない。そなたのほかには姿さえ見えぬ。声も聴こえぬ。誰に咎められることもない」

「見えない? 聴こえない? え、どういうこと?」

「そのままの意味だ。見えぬ。気配さえ感じられぬ。吾はいないことになっていると、そういうことよ」

 いないって、だって、と私は今度こそ混乱のなかへと叩き込まれた。

「いるじゃない、あなた。ここに。こんなはっきり。耳と尻尾つけて。変な服着て。それでいないって」

 静かに、といつのまにか近づいてきた男の指先が、私の唇にそっと触れた。思っていたとおり少しひんやりとしていて、そのくせひどくやさしい感触だった。

「そなたに吾が見えることはもうわかった。往来でひとり騒いでおると、周りの者にいらぬ噂を立てられるぞ」

「噂?」

 ああ、と男は頷いて、悲しそうにぽつりと云った。

「時任の狐憑き、とな」

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