第85話 78

 

 灰色の狩衣。

 葉のついた芋蔓の髪飾り。

 もったりした佇まいのアマイモ十位は、俺に気付くや顔を輝かせた。


「九位! おはようございます!!」


「!」


 音が壁となって衝突するような感覚。

 うぐっとアキまでもが呻く。


「十位……声がでかい……!」


「あ、ごめんなさい! 大きくてごめんなさい……!」


 ばっと腰を折り、十位が俺に謝る。

 巨大な弓の両端は肩と、その対角の膝裏から突き出している。


「何か用か、十位」


 プルを人質に取られ、アキに葦原観光を許している。

 仲間は不在で、七位の指し手も盤外の事故で台無し。

 更に帯でプルを留められ、もはや忍者ですら『一手』での奪取は不可能。


 極めて厄介な状況に置かれ、俺の頭は沸騰寸前だった。


「急ぎの用か?」


 言外に、「取り込んでいるから日を改めてくれ」と告げた。

 ――つもりだった。


「へへ~。実はですね!」


 能天気な声。

 そうだった。

 言外の意味を汲み取れるほど十位は機敏な女ではなかった。


「いつもの……。……」


 十位の目がアキに向く。

 頭二つか三つも違う巨女を前に、さすがのアキも唖然としていた。


「何このおっきい子……」


 十位の目が、はっきりとアキを捉えている。

 緑の目を。


「ん。どうかしたの?」


 狩衣を目の当たりにしたアキが声音に警戒を滲ませる。

 が、十位はにっこりと笑った。


「わあ、綺麗なおめめですね……」


「!」


「……!」


 俺とアキは同時に驚いた。


 アキは軽蔑と呆れで。

 俺は――――


(……嘘だろ、十位)


 俺は感嘆で言葉を失っていた。


 アマイモ十位は俺よりずっと嘘が下手だ。それに、世辞にも切れ者とは呼べない。

 その十位がアキを見た瞬間に七位と同じ最適解を導き出した。

 つまり、『知らない振り』。


「……」


 ふっとアキが警戒を解いた。

 ちらと俺に向けられる、軽蔑の眼差し。

 お前が利達にこだわって情報を隠したばかりに、こうも易々と敵の侵入を許したのだ、と。

 諌めるような情も混じっているようだった。


 だがそれは見当違いだ。

 なぜなら十位はアルケオのことを知っている。

 つまりこれは極めて巧妙な演技。


 形勢と呼ばれるものが、再び俺に傾きつつある。


「十位。話の途中だっただろ? 聞くぞ」


 俺は先ほどまでよりいくらか柔らかい声音で問うた・


「あ、そうそう。実はですねー」


 十位は身を大きくかがめ、俺の耳に口を寄せる。

 俺は大声を出されても良いよう、少しだけ後ずさる。


「いつものお茶屋さんで、新しいお餅が出されてるんですよ~!」


 いつものお茶屋さん。

 左遷される前や、たまに御楓に戻った時によく通っていた茶屋だ。

 彼女にとっては「いつもの」場所らしい。


「何と、『くるみ餅』です! 一緒に食べに行きましょう!」


「……」


 自然な語調。

 先ほどの七位と同じ。

 だが、何か異様だ。


 この緊張感の無さ。

 元獣面候補の七位ならともかく、十位の演技してはあまりにも淀みがない。

 まるで本気で茶屋へ誘っているような。


(こいつまさか……)


 ちらりと後方に目をやる。

 ネコジャラシ七位は小さく頷き、梟面、蛇面の忍者と共に身を翻すところだった。

 おそらく別の手を探ってくれる気なのだろう。

 それはいい。それはいいのだが――


「くるみ餅ってなあに?」


「はい! 私もまだ見てないんですけど、くるみのあんを練り込んだお餅らしいです」


 あ、と十位は無邪気に微笑む。


「一緒に食べられます? えっと……」


「アキ」


「アキさん!」


 きいん、と大声が俺たちの耳を貫通する。

 そこで俺は状況を察した。


(こいつ、本気だ……本気で俺を茶に……!)


 そうだ。それ以外に考えられない。

 さもなくば敵相手にこんな話、できるわけがない。

 それはつまり――――


(十位、俺の報告書を読んでないな……!)


 だからアキの目を見ても無反応だったのだ。


 この女、おそらく獣面に報告書を読み上げてもらい、重要な部分だけ頭に叩き込んで会議に臨んだのだ。

 途中でうたた寝でもしてしまったのだろう。

 最も重要な恐竜人類の情報のうち、『目の色は緑』という部分を聞き逃したに違いない。

 大方、「鳥さんが半分混じった人」ぐらいの認識なのだ。


(この馬鹿女……!)


 蹴り飛ばしてやろうかと思ったが、蹴って転ぶのは俺だ。

 ならばと獣面の姿を探すが、いない。


「十位。一人か?」


「はい!」


「いつもの二人は?」


「『用事があるから大人しくしてて』、って。さっき出て行っちゃいました」


 だったらなぜ大人しくしていなかった、という言葉を飲み込む。

 獣面が十弓を置いて姿を消すとは珍しい。

 しかも十位が指示したわけでもないらしい。


(……)


 どこかに下忍が潜んでいるのだろうが、そいつらはアルケオのことなど知らないだろう。

 先ほどの七位と似た状況。

 アキは十位への警戒を緩めている。

 一方、十位もまたアキに敵意を向けていない。

 この状況でどうにか――


「ワカツワカツ。行こうよ。私そのくるみ餅?食べたいな」


「……。分かった」




 茶屋は俺の屋敷から少し離れた場所にある。

 馬車や牛車を使うには近すぎる。

 おかしな風体の二人を連れ、街路を歩く。


(……。……)


 視線。

 それも、四方八方から。

 老若男女、職を問わず、庶民は漏れなく俺たちを見ている。


「何か見られてるねぇ」


 アキの声に再び警戒の色。

 彼女は先ほど俺の屋敷で『手』を見られている。

 それが噂となって人々に知れ渡ったと思っているのだろう。


 女中の口は七位が塞いでいるはず。

 アキの素性が庶民に知れ渡ったわけではない。


「あぅ……ごめんなさい。私、大きいから目立つんです」


「……」


 アキが俺に目を向ける。


「十位と歩く時はいつもこうだ」


 半分は本当だ。

 十位はどこを歩いても目立つし、俺が御楓に戻るのは久しぶりなので、なお目立つ。


 だが、それだけではない。

 注意して街路を見ると、不自然なものが目に付く。

 妙に大きな灌木。普段より多い編み笠の男。傘を差した女。

 ゆっくりと進む牛車。川辺で何かを囁き合う男女。

 晴天でありながら不自然に閉ざされた二階の戸。


 忍者。

 武士。

 弓取り。

 大貫衆らしき姿もある。


 アキの素性は『庶民には』知れ渡っていない。

 庶民以外には――おそらく完全に知れ渡っている。 


(!)


 視界の隅をツボミモモ六位が過ぎった。

 狩衣を着ていないので分かりづらいが、髪型でそれと分かる。


 続いて、四位の牛車。

 五位の馬車。六位の手勢。

 アキを封じ込める包囲網が作られつつある。


 アキも不穏な気配を感じ取っているようだ。

 先ほどから俺と十位にぴったりと身を寄せ、プルを巧妙に隠している。

 十位は身体が大きく、厄介な障害物だ。

 しかもプルは帯で結ばれているので、そう簡単には奪取できない。


 アキはまだ自分の優勢を疑っていない。

 だが俺は知っている。

 優勢を疑わなくなった瞬間、優勢は崩れる。


「九位九位! 通り過ぎちゃいますよ~!」


「ああ、悪い」


 十位は十位で、忍者の気配に気づいていない。

 自分が置かれた状況にも。

 だがそれでいい。今は。


(考えろ……)


 茶屋の屋内席は満員だった。

 賑やかな男たちが茶だけでなく酒を酌み交わし、女たちも忙しなく手を叩いている。

 おそらく何人かは獣面だろう。他はその辺の人間に金を掴ませているに違いない。


 アキは客の様子をじっと見つめている。

 不自然さを感じているのか、それとも純粋な好奇心によるものか、俺には判断できない。


「くるみ餅! 三つお願いします!」


 十位は楽器並みの声で吠え、のすんと屋外の椅子に座った。

 街路に面した長い丸太椅子。

 屋内が満員ではこれに座るしかない。

 すぐ傍には、三人を隠せるほど大きな赤い番傘。


 雀のように三人並ぶ。

 中心はアキで、十位と俺が挟む形だ。

 アルケオは貫頭衣から爪が覗かないよう、どこか淑やかに座った。


 後方には古びた雨戸。

 獣面が襲い掛かるにもひと手間を要する。

 更にアキの背には革帯が巻かれているので、プルを奪うにはもうひと手間。

 二秒で仕留めることは不可能だ。


 やはり、俺が動くしかない。

 手駒は俺と、アマイモ十位。


(……)


 十位は他の十弓と違う。

 彼女は技巧でも才能でもない、特殊な力を持つがゆえに『十弓』に抜擢された。


 特殊な力とは、尋常ならざる強靭な筋骨。

 それらを十全に働かせる極太の血管と、鯨並みに頑健な心臓。そして熱血。

 人呼んで『怪力かいりき』。


 一見しただけで異様と分かるその巨躯は、一見した以上の凄まじい膂力を秘めている。

 温厚で臆病な性格でさえなければ、十弓の序列が大きく変わっていただろうと呼ばれる女。


(考えろ……) 


 彼女の性格と今の状況。

 うまく噛み合えば、打開の道が見えるはず。


 くるみ餅が運ばれてきてからも、俺は上の空だった。

 つやつやした色味の餅は懐紙の上でふるりと揺れ、まろやかな匂いを発している。


「うっわ、何これ……」


「くるみ餅です!」


 十位が楊枝を入れ、餅を口に。


「んんん~~~美味しい!!」


「……」


 アキが十位を見、俺を見た。

 数秒見つめ合い、気づく。

 そう言えばこいつは両腕が塞がっているのだった。


「ワカツ! あー」


 アキが大口を開けた。

 幸い、歯の隙間に人肉が挟まっていることはない。

 アキが片目をちらと開け、また閉じる。


「あー!」


「……」


 俺はその辺に大きめの虫がいないか探した。

 残念ながら、いない。


「あー! あああー!!」


 アキは口を開けたまま俺に肩をぶつける。


 やむなく、餅をアキの口へ。

 むにむにと咀嚼したアキは感極まった声で叫んだ。


「うわ! 何これ! おいしーい!」


「ですよね、ですよね! 私もう一個頼んじゃいますね!」


(……)


 俺も餅に楊枝を刺し、口へ。

 確かに美味い。

 美味いが、今はそれどころではない。


 続いて運ばれる餅を、またアキの口へ。

 十位とアキは気が合うのか、他の餅の美味さについてきゃあきゃあと話し合っている。

 どうやらこのまま、わらび餅なども注文されるらしい。


 座ったままはしゃぐ女たちの能天気さに、俺はいくらかの苛立ちを覚えた。

 鬱陶しいことにアキが来る度に俺は餅を口へ――――


(!)


 気づく。

 十位をうまく『使う』方法に。


 アキは今、『座っている』。

 これなら――――


「アキ」


 俺は新たに運ばれた山盛りの餅に楊枝を突っ込む。


「なに?」


「口開けろ」


「おお~? ワカツ、気が利くねぇ」


 俺は楊枝の餅をアキの口に放り込んだ。

 ついでに茶碗を持ち、その口へ運んでやる。


「喉につかえるぞ。飲め」


「ワカツ。どうしたの急に。……まさか」


 アキの表情がぱっと輝く。


「私のこと、好きになった?」


「……」


 気づけ。

 俺はそう念じた。


「ねえねえワカツ!」


「ならん。死ね」


「ひどーい」


 むすっとしたアキは、しかし、餅を飲むようにがぶがぶ食べた。

 俺はせっせと楊枝を動かし、茶碗を口元へ運んでやる。


 気づけ、十位、と。

 念じ、視線を送る。

 気づいてさえくれれば、十位の性格ならおそらく――――


「あれ? アキちゃん、お手手は……?」


「え。ああ。皮膚病なの」


「皮膚病……!」


 十位が眉を八の字にした。

 困惑と憐れみ。

 次にかけるべき言葉を探すように俺を見る。


「気にしなくていい」


「でも……でも、皮膚病って……」


 十位はおろおろと周囲を見回したが、当然誰もいはしない。

 普段なら獣面が気の利いた言葉の一つも教えるのだろうが。


(そっちじゃない、十位……! 気づくべきなのはそっちじゃなくて……!)


 俺は再び楊枝をアキの口へ。

 今度は口に入れる直前で、釣り針のようにぐいと引く。


「んあー」


 アキがやや前のめりになった。

 ぱくんと餅を食われた瞬間、十位を見上げる。

 冷静に、気付かれないように。


「十位。弓の先が折れてるぞ。たぶん座った時だ」


「えっっ?!!」


 鈍臭くも十弓。

 弾かれたようにアマイモ十位が立ち上がり、背負う弓の地面側を見た。

 自らのふくらはぎを見るような、不格好な体勢。

 俺の狙い通りの姿勢。


「!」


 十位の視線の先には、アキの背中。

 つまり――――


「アキちゃん、その子は……?」


 プルに気付きた十位は目をぱちぱちさせた。


「その子、さっきからおぶってました?」


「うん。あれ、気づかなかったの?」


「ごめんなさい。私、大きくて……」


 背の高すぎる十位にとって、こうした事態は日常だ。

 目線が高すぎて低い位置のものが見えないのだ。

 真下に近い場合は特に。

 歩いている最中、アキは十位に密着していた。そのせいで十位の視界にプルが入っていなかった。

 椅子に座ってからは前しか見なかったので、やはり十位はプルに気付かない。


 だが今、彼女は気付いた。


「アキちゃんの子どもですか?」


「違うよぉ。私、お母さんに見える?」


「そうですよね。ごめんなさい」


 へへ、と照れくさそうに笑った十位は、ふっと笑みを消した。

 俺は密かに拳を握る。


「……その子、顔色悪くないですか?」


「え? そうかな」


「そうですよ。ほら、汗かいてる」


 十位がのそりと身を寄せると、アキは驚いたように身を揺すった。


「ちょっとちょっと。アマイモちゃん近――」




 めし、と。

 十位の両手がアキの肩を掴んだ。




「ッッ?!」


 アキの表情が歪んだ。

 こんな表情を見るのは、彼女がシャク=シャカと戦った時以来だ。


「診せてください」


「い、いいよ。この子は――――」


「ダメですよ!」


 俺は大きな声にのけ反った。

 が、アキは小さく悲鳴を漏らす。


「……!」


 貫頭衣の下、脚で地面を押したのだろう。

 ざりりと音が聞こえる。

 アキの顔が赤く染まる。

 アルケオが全力で、アマイモ十位の怪力に抗う。




 だが、動かない。




「~~~~~~っっっ!!!」


 十位の指はアキの肩にめり込み、彼女を完全に椅子に押さえつけている。

 腕があれば結果は違っただろう。

 それに近距離での戦闘ならアキの方が遥かに強いのだろう。

 だが今、アキは十位の手を剥がせない。

 立ち上がることもできない。


 ――プルを殺すことも。


「その子、熱があるんじゃないですか……?!」


 十位の顔が変じる。

 怒りに似た焦りの表情。


「違うよ! 気のせい! この子は――」


 俺は悪いと思いつつ、そこに『もう一手』を足す。


「道で拾った子だ。もしかすると病気かもしれない」


「……!!」


 十位の顔面に様々な負の感情が浮かぶ。

 悲哀。失意。憐憫。怒り。


 俺と十位は孤児だ。

 そして同じ境遇の者たちと共に、ニラバ二位の養子として育てられた。

 十位は甘く、心優しい女だ。

 今でも二位が孤児を預かる家に赴いては、子供たちと一緒に遊んでいる。


 だから、見過ごさない。

 自分と同じ境遇の子どもが目の前で苦しんでいる状況を。


「診せてください」


「い、いいって……!」


「私、ちょっとした病気のことなら分かります。小さい子たちの面倒、診てますから」


「……!」


 アキが口をつぐみ、いよいよ全力で十位に抗おうとした。

 だが、動かない。

 ぎりぎりと歯を軋らせ、おそらくは本気で地面を押しているのだが、アキの肩を掴む十位はびくともしない。

 むしろ押せば押すほど強い力で椅子に押し付けられる。


(――――!)


 絶好のしお

 今なら誰も、何もプル奪還を邪魔することはない。


 いや、一つだけある。

 革帯だ。

 プルが落ちないようきつく締めているので、外さなければならない。

 俺は懐刀を抜き、アキに――――




「九位」




 ぞっと背筋が粟立つ。

 気づけば十位の片手が俺の刃を掴んでいた。


 目には静かな怒り。

 静かな、本気の怒り。


「何してるんですか……?」


 どこかぼんやりした声が、今はひどくおぞましく聞こえる。

 ぱっちりと開いた目には、赤く細い血の筋。


「いや、この帯を切って――」


 掴まれた刃が動かない。

 空中で壁に突き刺さりでもしたかのように。


(う、動かない……!)


 以前、冗談で力比べをしたことがある。

 負けることが分かっていたので手を抜いたし、十位もおっかなびっくりだった。

 当時の俺は「確かに強いな」と天を仰ぎながら呑気に思うだけだった。


 その時とはまるで違う。

 これが十位の真の『怪力』。


 手加減無しの十位の力は、みぎん、と容易に刃をへし折った。


「っ!」


「危ないじゃないですか。やめてください」


 優しい言葉が、なぜか俺の全身に怖気を呼んだ。

 肝が冷え、肺腑が冷え、心の臓までもが冷える。

 得体の知れない恐怖。


 俺は柄だけになった脇差から思わず手を離す。

 かたん、と土を叩く音。


「っ」


 その瞬間、アキが立ち上がろうとした。

 立ち上がれば両脚の爪が自由になる。

 一瞬でプルの喉笛をかき切ることができる。


 が、十位の片手はアキの首に動いていた。

 淀みなく。

 首の裏側へ。

 すなわち、頸椎へ。


「ぅ……?!」


 立ち上がろうとしたアキが踏みとどまる。

 片手とは言え、相手は『怪力』。

 頸椎を抑えられた状態で無理に立ち上がろうとすれば、さしものアルケオも重傷を負いかねない。 


 そう判断したアキを、十位は『折りたたんだ』。

 つまり、両脚の間に頭が入りかねないほど背を倒したのだ。


「つっ?!」


「ごめんなさい。ちょっとその子の顔を見せてくださいね……」


 慈愛に満ちた声。

 だがアキの顔からは血の気が引いていた。


「っ! っ!」


 アキはじたばたともがくが、頸椎のやや下に乗った手で立ち上がることを妨げられている。

 これでアキは完全に封じ込められた。


 だが、俺も帯を外してやることができない。

 刃を向ければ十位の手が止めに入るからだ。

 なら――――


(……)


 ゆっくりと、靭に手を入れる。

 視界に入ったのか、アキがぎょっとしたように俺を見た。


「?!」


「……」


 両脚を潰せば、アキはミミズも同然だ。

 この毒はひと掠りで――――




「アマイモちゃん! ワカツが!」




「!」


 間の悪いことに、俺の抜いた矢はプルの方を向いていた。

 さっと伸びた大きな手が、矢ではなく俺の喉首を掴む。


「おぁ?!」


 気道が締まりかけ、呻く。


「九位。どうしたんですか……?」


 悲哀の混じる声。

 その声音とは裏腹に、アマイモ十位の顔にはおぞましい感情が浮かんでいる。


 哀し気な殺意。

 憐みを帯びる怨嗟。

 目は先ほどよりも危険に血走り、黒髪が僅かに浮いて見える。


「その矢、置いてください」


「……」


「ね?」


 喉に触れる温かい手が僅かに動いた。

 もうそれだけで、俺は失禁しそうになるほどの恐怖を覚える。

 十位がその気になれば俺の首など枯れ枝のように折ってしまえるだろう。


 ――いや、実際に彼女は折ったことがある。


 相手は俺ではない。

 アマイモ十位は『十弓』入隊時、当時の六位と九位を殺めている。

 事情は複雑だが、それも『孤児』絡みの揉め事だ。

 あまりにも危険な人物であるため、実力がありつつも十位に留め置かれている。

 そして彼女の前で孤児絡みの悪口を言うことは、厳禁。


 忘れていたわけではなかった。

 だが、アキの反論を封じるためには仕方がなかった。

 私の子どもだよ、とか。持病だけど治療法は知ってる、とか

 アキがうまく言い逃れれば十位は追及を控えただろう。


「靭もです」


「……」


 言われた通り、靭を置く。


「遠くに蹴ってください」


「……」


 言われた通りにする。

 これで俺は無力化された。

 ――だが、それだけでは終わらなかった。


「じゅ、十位……」


「……」


「くび。首の手……」


 ゆらり、と。

 十位がプルから俺に目を向ける。

 儚げな微笑。




「だめです。じっとしててください」




(く……!)


 まずい。

 良くない。

 良くない状況だ。


 十位は片手でアキを押さえつけ、片手で俺を締め上げている。

 帯で巻かれたプルは膳の魚さながらに十位の目の前。

 だが一歩間違えると、まずいことになる。


 はっと気づく。


(忍者……!)


 そうだ。

 俺たちのことは周りから忍者が見ているはず。

 だが――――


(……)


 十位がプルの顔をじろじろと見る間も、誰も助けに来ない。

 背に汗が滲んだ。


 俺はよく十位を軽く蹴るし、十位も俺の頭を掴んだり手を握ったりする。

 そして先ほどの、アキの口に餅を運んでやったやり取り。 


(じゃれてると思われてるのか……!)


 確かに、そう見えなくもないだろう。

 十位が怒ることは珍しく、その殺意が最も親しい俺に向くとは誰も思っていないに違いない。

 俺ですら思わなかったのだから。


(だったら――――!)


 呼べばいいのだ。

 呼べば。


 俺は忍者を呼ぼうと口を開いた。


「ァ――――」


「っっ!!」


 ぶん、とアキの脚が妙な動きをした。

 次の瞬間、傍に立つ番傘が、どたんと倒れる。


 街路から注ぐ視線が、完全に遮断される。

 言い方を変えるなら、『誰も俺たちの状況を見ることができなくなる』。


「ぅ……!」


「……」


 アキが小さく笑うのが分かった。

 これでは外部の人間が異変を感じることができない。


「アマイモちゃん! 手を離して!」


 アキが吠える。

 手がちらちら見えているはずだが、頭に血の昇った十位には見えていないのか。

 あるいは皮膚病という話を真に受けているのか。


「その子、お薬をあげないといけないの!」


「どこにありますか? 私が――」


「私のお腹側だよ! だから手を離して!」


(まずい……!!)


 十位の片手はアキの背。

 もう片方の手は俺の首。


 俺の首から手が離れれば、毒矢でも何でも使ってアキを行動不能にできる。

 だがもしアキの背から十位の手が離れれば、立ち上がったアルケオがこの場に血の雨を降らす。


 絶対に十位の手を動かしてはならない。


「十位! 嘘だ!」


「え?」


「薬なんかないぞ! 騙されるな! あったらとっくに飲ませてる!」


「苦しくなったら飲ませる薬なの!」


「違う! そんな便利な薬はない! 俺が言うんだから間違いない!」


「?! ?!」


 十位の目が俺とアキを行き来する。

 仲が良いと思っていた俺たちが口論することに驚いているのだろう。


「私から手を離して!」


「離すな! その子は俺が医者に連れて行く!」


「ダメ! ワカツは嘘ついてるよ!」


 逡巡。動揺。

 十位は理屈よりも声の大きさや同情に弱い。


「十位! 俺を信じろ! 俺から手を離せ!」


 これが効いた。

 十位はゆっくりと俺から手を――――




 膝に鋭い痛みが走る。




「ぐっ?!」


 その瞬間、十位が血相を変えた。

 あろうことか、アキの背から手を離しかける。


「九位?」


「っ。バカよせ! 離すな!!」


「そうだよ! ワカツは怪我してるの!」


 アキがここぞとばかりに哀れっぽい声を上げる。


「この子はいいから、先にワカツを見てあげて!」


「よせ! 俺じゃなくて」


 だが、遅かった。

 十位の手がアキの背中を離れ――――




「十位」




 アキの声ではなかった。

 もっとぼんやりした誰かの声。


 赤い番傘が横に動く。

 水色の狩衣がふわりと湯気のように漂う。




 立っていたのはカヤミ一位だった。




「?!」


「? 今度は誰?」


 木皿を手にした一位は流麗な所作で餅を切り、口へ運ぶ。

 閉じた薄い桜色の唇がむくむくと動いた。


「てをどけなさい」


「一位……! でも……」


「きこえませんでしたか?」


「……」


 十位がゆっくりと俺たちから手を離す。

 アキは身を起こしたが、すぐには動けないようだった。


 一位はゆらりと俺を見る。


「ワカツ九位。てつづきがおわったそうです。ごくろうさまでした」


「て、手続き……?」


「セーレルディプトラさまと、ナシースプートラさま」


 一瞬、誰のことなのか理解できなかった。

 セルディナとプルだ。


「ブアンプラーナおうしつは、しっそうしたふたりのおうぞくが、しんだとはっぴょうしました」


「?!」


「よくあることです。ひとのいきしには、かみきれのうえにあるのですから」


 つまり、と一位は短く続ける。


「そのこどもをいかすりゆうは――――」


 きりり、ぎりり、りりり、と。

 四方八方で弓弦を引く音。


 見れば、ランゼツ三位、イチゴミヤ四位、ツボミモモ六位、ネコジャラシ七位とその獣面が周囲に立っている。



「もはや、ない」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る