第67話 62
ベルシェアリーゼ。
通称シアは、
『生を受ける』前は、死んでいるも同然だった。
彼女を取り上げた産婆は、鳥の爪を持っていた。
それに鱗と、翼。
まだ名を持たないその赤子は、冒涜大陸の中心で生まれた。
すなわち、恐竜人類アルケオの巣の中で。
なぜそのような赤子が生まれたのか、誰にも分からなかった。
彼女はヒトに似ていた。
翼を持たず、爪を持たず、しかし体の一部に鱗を持っている。
つるりとした肌を持つ赤子を産婆は「奇形」と呼び、野に打ち棄てるよう勧めた。
母はその子を愛した。
軍――『爪』の中でもひときわ怠惰で、昼から人間の男漁りに耽ってばかりの母親。
彼女はかつて妹を喪っていた。
妹は翼が黒く、不吉と称され、野に棄てられた。
まだ
姿形以外はまったく健やかな娘を捨てろと言われた瞬間、塞がりかけていた母の心の古傷が開いた。
母は安に貴重な品々を渡し、母乳を与えるよう命じた。
奇形の子を生かしていることに座と産婆は小言を言ったが、子はあくまでも母のもの。それ以上の追及はなかった。
ただ、生かし続けるわけにはいかない、と女王は告げた。
奇形の子を一人生かせば、次の子も生かさなければならない。
その次の子も。そのまた次の子も。
どの奇形なら殺し、どの奇形なら生かすのかも決めなければならない。
それはやがてアルケオという種族全体を弱くする。
一部の科学者は弱者や奇形の許容こそが種族の繁栄に繋がると唱えた。
だがその弁は女王の胸に響かず、座の同意も得られなかった。
母は子を諦めなければならなかった。
そもそも、既に安に渡す物品も底を尽きかけていた。
恐竜を駆り、雪深き大地へ。
獣皮を厚く纏い、「自分の子は自分で捨てる」と言い残して。
母は子を育てる術を知らない。
代々『爪』の一族――それも、人間漁りを好む淫蕩の一族――であったためだ。
群れの中で子を隠し続けるほどの知恵は無く、国を離れ娘と二人暮らすほどの才覚も持たない。
だが、助けたい。
妹のように死なせたくない。
恐竜が倒れてもなお、母は雪の中をさまよった。
どこかに一匹狼のアルケオがいるのではないか。
どこかにヒトがいるのではないか。
どこかに、この子を受け取ってくれる者がいるのではないか。
母はたどたどしい手つきで娘に乳を与え、雪の中を歩いた。
やがて霧に行き当たった。
アルケオの知る『世界の果て』。
幸か不幸か、その夜、霧は薄くなっていた。
科学者の話によれば数十年あるいは数百年に一度の奇跡。
母は片耳を潰し、鼻を潰した。
口に苦い葉を含み、両目を閉じ、霧に飛び込んだ。
感覚崩壊が起きた。
五感は狂い、混じり、入り乱れた。
だが、母は強靭な爪で子を抱いていた。
少しでもおかしな動きをすれば娘がズタズタになる。
命がけの戦いですら味わったことのない極度の緊張が、彼女の正気を繋ぎ止めた。
生物こそいないが、地形は複雑だった。
子を抱える母は何度もつまずき、転びそうになった。
何度も崖から落ちかけ、何度も行き止まりで肩を落とした。
次第に、遠い国から女の声が聞こえて来た。
男を楽しむ声。肉を齧る音。
温かな寝床。仲間たちの温もり。笑い声。
郷愁に膝をつきかけた。
落ち葉の冷たさが血管を冷やした。
子の泣き声が母を支えた。
母は霧を越えた。
家があった。
母の知らぬ材質、母の知らぬ造りの家。
母の知らぬ暖かさと、母の知らぬ食事の匂い。
霧の外には人が繁殖している。
人は国を作り、文化を築いている。
そう教えられていた母は、首から下を獣皮で包んだ格好のまま、肩で戸を叩いた。
棲んでいたのは白髪交じりの夫婦だった。
多くのアルケオは老いた人間を見たことがない。食肉に適した年齢のうちに殺し、食らうからだ。
母は呆けた顔で老人を見た。
老夫婦もまた深夜の、吹雪の、しかも血だらけの訪問客に驚いていた。
どこかで赤子が泣いた。
女はその場に膝をついた。
立ち上がると、雪深い地面に赤ん坊の姿があった。
ふかふかの羽毛に包まれたその姿に、老夫婦は驚いた。
母はこう告げた。
娘は皮膚病である、と。
だがそれ以外はごく普通の子なのだ、と。
自分は乳を出せるが、それ以外のことは何もできない。
仲間の元へ戻せば殺されてしまう。
助けてやってくれ、と。
老夫婦は困惑した。
母は決して外套を脱がず、娘は両腿が鱗に覆われている。
まともな子ではない、と直感していた。
だが赤子の泣き声を無視することはできなかった。
結局、夫婦は震える手で赤子を拾い上げた。
幸い、老夫婦の家の近くに娘夫婦が住んでいた。
そちらの母親も少し前に子を生んだばかりだった。乳を出すこともできるし、子育てに必要な道具も揃っている。
二人を育てるのは大変だが、老夫婦もいる。
鱗を持つ娘は迎え入れられることになった。
あなたも治療を、と告げられたが、母は決して獣皮を脱がなかった。
もし霧の外にアルケオがいるのなら、夫婦はかくも気安く戸を開けないだろうし、鱗を持つ子を受け入れることもすまい。
科学者が言った通り、霧の外にアルケオはいないのだ。
この姿を見せれば夫婦は確実に自分を恐れ、娘を棄ててしまうだろう。
母は愚かだったが、打算的だった。
他人を利用したり、騙すことに関しては知恵が回った。
アルケオの母は僅かだが極めて貴重な宝石、恐竜の牙、色とりどりの翼を残した。
そして自分で傷の手当てをし、朝にはその地を去った。
――――が、すぐに戻って来た。
霧が深くなり、戻れなくなったのだ。
彼女を支えていたのは子を想う心であり、故郷に戻ることにそれほどの情熱は感じていなかった。
霧を越える気力を振り絞ることができず、母はすごすごと老夫婦の元へ引き返した。
そして老夫婦の家から少し離れた場所に天幕を張り、そこに住み着いた。
柔らかい唇が碗に触れた。
シアは音もなく茶を飲み、俺と同じように碗の縁を指で拭う。
ぽかんとしていた俺は我に返った。
「……待て。待て待て待て」
話を振り返りながら、俺は指でこめかみを指で押す。
「何でお前は自分が生まれる前のことまで知ってるんだ?」
「出会った時の印象については祖父母がぽつぽつと話してくれました。あとは母の口から聞きました」
「どっちのだ? その……娘夫婦の方か?」
「いえ、アルケオの方です。サギのように首から下を隠していましたし、素性については決して明かしませんでしたが、自分がどんな『人間』だったかについてはたまに話してくれましたから」
シアは落雁をひと口噛んだ。
静寂の中に、さりりと小気味よい音。
「アルケオ内部の動きや細部についてはサギの話から組み立てた推測です。……多少、割り引いて聞いてください」
「人とアルケオの間にはアルケオしか生まれないはずです」
サギが険しい顔で告げた。
「それにあなたのその……鱗、ですか? それは、その」
「……」
シアが俺を見る。
鱗を見せるかどうかは俺の判断に委ねるということだろう。
「サギ。秘密にできるか」
「もちろんです」
シア、と促す。
ベルシェアリーゼは着物の帯を解き、腹に届く
「ワカツ」
「何だ」
「見ますか?」
「ああ。……」
意味に気付く。
顔が熱くなる。
「いや、あの、うまく隠せ。見なくていいところは見たくない」
「そんな器用なことはできません」
つんとした言葉。
続いて、冷ややかな微笑。
「私、体には自信がありますけど、見たくなければ目を閉じてください」
挑発的な言葉。
冒涜大陸でこの手の仕草に騙されたことを思い出す。
「お前はまたそういうことを……」
「けんか、だめ」
「……。大丈夫だ。喧嘩じゃない」
ちらとシアが俺を見る。
俺は両腕を組み、かっと目を見開いた。
「いいぞ。脱げ。お前の裸を目撃してやる」
「……いや、そこまで
シアは姿勢を崩し、両膝を抱くように座った。
そこから少しだけ足を伸ばし、衿先ではなく
藍色の
幕が開くようにして脛が見え、膝が見えた。
雪のように白く、軍人らしい筋肉を纏う脚。
ここまではいい。
するすると裂けるように着物が開き、腿に至る。
シアは腿の付け根を片手で押さえ、左右の衿下を襦袢ごと払いのけた。
一気に腰から腹にかけての肉が露わになる。
翡翠色の鱗。
それはちょうど太い腰帯のごとく腰骨から腿付近を覆っている。
手の平一枚分の面積をぐるりと一周させた程度だろうか。
「……!」
サギが口を押さえた。
「よく隠せたな」
「あまり人に見られる場所でもありませんから。普段は金の鎖を巻いています」
「鎖?」
「装飾品のように見えるんです」
「なるほど」
むににと唇が動いた。
おそらく、「あなたやシャク=シャカに見られた時もそう説明するつもりでした」と付け加えようとしたのだろう。
だがその言葉は出て来なかった。
「最悪の場合、『皮膚病』でごまかします。幸い、その手を使うことはありませんでしたが」
サギはしげしげとシアの脚を見つめた。
鱗に触れ、そして呻く。
「本物ですね」
「色も手触りもそうですか?」
「ええ。我々の鱗です。でも、なぜ……? 人とアルケオの間にこんな子が生まれるなんて……」
「アルケオと人間の間に生まれる子はアルケオ。それは間違いないでしょう。ですが、一部は人間の要素を受け継いでいる」
「一部? アルケオの血が人間の血を塗り潰すわけじゃないのか」
「おそらく違います。アルケオが人間と交配する度、本当にごく僅かですが人間の血が引き継がれているんです。それは本来、決して表出しない。アルケオ側の血があまりにも濃すぎて人間の要素は発現しないんです。でも――」
「シアさんの母親は違った。人間の男性と交わってばかりの一族だったから。代を重ねるごとに濃くなっていた人間の血がシアさんの代でとうとう表に出た。……そういうことですか?」
「ええ」
「……。……黒い塗料みたいなものか」
「黒い塗料?」
「黒い塗料に何度青を混ぜても黒は黒だろ? でも混ぜる『青』がある量を超えると――黒が青に変わる」
「そういう理解で良いと思います。もっとも、遺伝学はまだ途上ですから考え違いかも知れませんが。単に私が変異種なだけという可能性もあります。その辺りはアルケオの記録と照合しないと分かりません」
いずれにせよ、とシアは言葉を継ぐ。
「私はヒトとアルケオの子です。それも不完全な」
「……」
冷淡な言葉。
シアは自分の肉体にさほど興味を持っていないようだった。
「シア、わたしといっしょなのも言う?」
シアが頷くと、サギが困ったように俺を見る。
「ルーヴェちゃんと同じ……?」
「こいつは『味』を『見る』ことができる」
「……?」
「視覚と味覚が一体化してるんだ。見たモノの味を即座に理解することができる」
「舌に触れてもいないのに、その味を……?」
「自信満々のところすみませんが、ワカツ」
「?」
「違います」
「え」
「『何かを見た時、同時に味覚を刺激される』です。それが何であるかを正確に識別する能力はありません」
「……。……」
「例えばあなたの目を見たとします」
衿下から手を離したシアが俺の頬に触れる。
血が通っているはずなのに、ひやりと冷たく感じる。
「あなたの青い目は……涼しく甘い味がします」
「涼しく甘い味?」
「冷やした葡萄のような味です。でもそれは実際にそういう味がするわけではなく、私がそう感じているんです」
「……」
「野菜を漬けた塩水と砂糖水も同じです。私は実際に『塩水の味としての塩辛さ』や『砂糖水の味としての甘さ』を感じるわけではないんです」
「なる、ほど……?」
「普段、私が汗や涙を見ると、口に酸っぱさが広がります。でもあなたの野菜瓶を見た時はざらついた苦味を感じた。これは塩水の『味』ではなく砂糖水の『味』。だから中身が何なのか分かったんです」
少し、意味を考える。
そして違和感を覚える。
今の理屈だと、シアの感じる『味覚』は視覚に準ずるはずだ。
シアが『塩水を見た』と認識したら舌は『塩水の酸っぱさ』を感じ、『砂糖水を見た』と認識したら舌は『砂糖水のざらついた苦味』を感じる。
では目の前にある『透明の液体』が何なのか分からなかったら。
――シアの舌は何も感じないのではないか。
彼女が俺の野菜瓶を見て「砂糖水のざらついた苦味」を感じたのなら、一見した時点でその中身が何なのか識別できていなければ理屈に合わない。
そう話すと、シアは目を丸くした。
「ワカツ」
「何だ」
「かしこい」
「馬鹿にしてるのかてめえ」
で、と頬杖をつく。
「どうなんだ。お前、『見ただけで塩水と砂糖水の区別がついた』ってことか?」
「はい。自分でも不思議ですが、区別できます」
シアは帯を締め直しながら話を続ける。
「水の粘度なのか、細かな粒の動きなのか……私の目が何を見ているのかは分かりませんが、一見するとまったく同じ『透明の液体』を並べられたとしても、私はそこに何が溶けているのかおおよそ分かります」
もちろん、と彼女は付け足す。
「私が過去に一度でも『味』を感じたことがあれば、ですが」
要するに、シアは味覚から瓶の中身を言い当てたのではない。
視覚で瓶の中身を識別し、それを味覚で受け取ったのだ。
それはそれで、人間離れした能力だと言える。
「液体だけか?」
「いえ、文字や静物もです。例えば偽造された署名などは味が微妙に違うので見抜けますし、不純物の入った貨幣なども含有量次第では見ただけで判別できます」
つまり、と彼女は続ける。
「私に備わっているのは『何かを見た時に不特定の味を同時知覚する』感覚です。『見ただけでその物体の味を知る』わけではありません」
「それはルーヴェと同じか?」
「系譜としては同じでしょうね。でも質自体はまったく異なります」
自然、全員の目がルーヴェに向けられる。
本人はシアの落雁をかりかりと齧っていた。
「彼女は見たものを匂い、音、触覚、味で同時に知覚するわけですから、受容する情報量が私の数倍です」
「わたし、すうばい?」
「数倍だ。お前はすごいんだよ」
ん、とルーヴェは曖昧に応じた。
「お前の生い立ちと能力については分かった」
拳で自分の腿を叩く。
「……で、何で俺の砦に来たんだ?」
「まだ話は途中です」
シアは茶のおかわりを要求した。
俺は素早く茶を点てたが、彼女はもったいつけるようにゆっくりとそれを啜る。
たっぷり数分の間を置いて、再び唇が開く。
母は天幕の中でひっそりと暮らしていた。
力仕事が得意で、頼めばだいたいのことは夜の内に済ませてくれた。
薪を割るのも、運ぶのも。
獣を仕留め、解体することもできた。
ただ、人目につかない深夜にしか天幕の外へ出なかった。
天幕の外でも基本的に厚い外套を纏っており、その下がどうなっているのか知る者はいなかった。
娘は健やかに育った。
彼女と接する時も母は手を見せず、すっぽりと全身を覆う布を纏っていたが、愛情は本物だった。
老夫婦とその娘夫婦、更にその子――『一家』も娘を我が子のように可愛がった。
実際、乳の半分は義母に分け与えられたもので、夜泣きの半分も義母に静められていた。
義母にとってその娘は『我が子のように』ではなく、『我が子』だった。
一家には別の娘もいた。
『娘』より少しだけ早く生まれた、義父母の娘だ。
彼女は特殊な皮膚を持つ娘のことをまったく嫌いもせず、実の妹のように愛した。
二人は仲が良く、いつも雪の中を走り回っていた。
足の速さは妹の方が上だったが、それを妬んで意地悪をするような姉ではなかった。
姉は妹を愛し、妹も姉のことが大好きだった。
やがて母は学校の存在を知った。
子を健やかに育てるのみならず、子ども同士の集団を作ることで『小さな社会』を体験させ、文字の読み書きや算術まで学ぶことのできる食事つきの宿泊施設。
アルケオには存在しない概念。
母は素直に感服し、娘を通わせることにした。
元手は雪の中から見つけ出した稀少な生物で賄った。
熊や兎、狐や狼、鹿や猪といった生き物を母は果実をもぐ気安さで捕えた。
それらは時に解体され、時に学者に引き渡され、金や銀となって一家を潤した。
娘は学校に通い始めた。
娘は剣術も学び始めた。
娘は日常に関わるあれこれの雑事を、学校の中で学んだ。
自分の特殊な体質と皮膚のことだけは誰にも話さなかったが、それ以外は心のすべてを教師に、友人に明かした。
天真爛漫で運動の得意な少女。
誰もが彼女をそう評した。
休暇になると、娘は飛ぶようにして家に帰った。
そして天幕の母に学校で起きたあれこれを話した。
母は一言一句を噛みしめるように頷き、嬉しそうに緑色の瞳を細めた。
幸福な日々だった。
長くは続かなかった。
15歳の誕生日のことだ。
久しぶりの休暇で、宿舎から戻った娘は何か異様な雰囲気に気付いた。
夕陽の差し込む玄関先に、白い枝のようなものが落ちている。
拾ってみると、妙にぬるぬるしていた。
骨だった。
大腿か、上腕か。
見ただけではよく分からないが、『味』によると間違いなく骨だった。
娘は怯えはしなかった。
たまに骨のついたまま猪や鹿の肉を焼いて食べることがあったからだ。
ただ、骨が大きすぎるとは思った。
そして自分がいない間にこんなご馳走にありついた家族、そして姉のことを少し妬ましく思った。
いや、もしかすると自分の誕生日を祝うためにわざわざ焼いてくれたのかもしれない。
娘は士官学校へ入学することが決まっていた。
一家はもちろん、いまだに得体の知れない母にも内緒だったが、皆、喜んでくれるだろうと思っていた。
何せ座学試験は首席で、剣術については師範と互角なのだ。
学費はもちろん免除で、将来は近衛にすらなれるかも知れない。
誕生日は親が子の生誕を記念する日であると同時に、子が親に生んでくれた感謝を伝える日でもある。
娘は最高の贈り物を手に帰宅していた。
かぐわしいスープの匂いがした。
どうやら準備が整っているらしい。
期待と共に台所を覗き込む。
父母らしき肉塊が散らばっていた。
何度かまばたきをする。
すっかり血を吸った衣服には見覚えがあった。
残っているのは元の質量の五分の四ほどの肉。胸と腹は裂かれ、ぽっかりと穴が空いている。
顔は潰れ、目玉と耳、それに唇が無い。
無理やりこじ開けたのか、肋骨と胸骨が手の平のように広がり、肉を破っていた。
大小の骨がそこら中に散乱し、黄色っぽい脂が広がっていた。
口の中にとろけるような甘みが広がった。
それが初めて知る、『ヒトの死体』の味だった。
娘は悲鳴を上げた。
悲鳴を上げながら、短剣を鞘から抜いた。
腰を抜かすことはなかった。
死肉に縋りつき、泣き喚くこともなかった。
娘は唇を噛んで感情を殺し、これが獣の仕業だと結論付けた。
腹を空かせた熊だ。
どこかで人の味を覚え、ここを襲撃したに違いない。
素早く家の中を調べるが、それらしき生物はいない。
外に出る。
馬は無事。
厚い雪を踏んで駆ける。
ぼこぼことブーツが沈み、うまく走れない。
老父母の名を呼び、小屋に飛び込む。
二人は首を捻じ折られていた。
顔は青ざめ、だらしなく垂れた舌は口腔から這い出した
腐敗は進んでいなかった。
祖父は木彫りの牡鹿を握っていた。祖母の近くには手編みの帽子が落ちていた。
死肉は甘い味がした。
娘は顔を歪めた。
娘は短剣を取り落とした。
娘は両膝をついた。
娘は頭を掻きむしり――――絶叫した。
床にうずくまり、後悔すら沸かないほどの哀しみに泣き叫んだ。
赤子のように泣いていた娘は、はっと我に返った。
姉。
姉の姿が見えない。
自分より先に帰ったはずなのに。
娘は再び短剣を掴み、小屋の外に転がり出た。
涙が凍った。
鼻水が凍った。
吐く息が白く丸まり、それすらも凍って落ちるようだった。
厚い雪を走る。
天幕が見える。母だ。母の天幕。
そこで娘は恐慌に駆られた。
母が熊の接近に気付かないわけがない。
――まさか。
まさか。
まさか。
まさか。
母の笑顔が思い出された。
雪の中、自分を連れて遠い距離を旅した母の顔。
頭を撫でる代わりに身を寄せ、いつも頬ずりをしてくれた母の温もり。
母。
母。
母。
転び、泣き、怯え、息を切らす。
雪に残る血の跡に気付く。
母を呼ぶ。
返事をして、と。
お願い、と。
お母さん、と。
ごく短い距離を、娘は息を切らして駆けた。
凍るほど冷たい雪を踏み、天幕を開いた。
母が。
姉を食っていた。
最初、娘はソレが母と顔の似た怪物だと思った。
――違った。
姉の首筋に噛みついた母は、ぶちぶちと筋や繊維を噛み切った。
振り返った。口から血を流し、いつものように笑った。
おかえり、と。
布をすっかり取り去った母は、人の姿をしていなかった。
翼と鱗を持ち、姉に爪を食い込ませる姿は文字通りの怪物だった。
おめでとう、と。
母は娘が成人を迎えたことを喜んだ。
それは人としての成人ではない。
母は仲間――アルケオとしての成人を
誰も気づかなかった真実があった。
初めて出会ったあの夜、母が老夫婦に伝えた「助けてやってくれ」は懇願ではなかった。
あれは『命令』だった。
財物を分け与え、獣を狩ってやったのも、『自分に代わって娘を育む』奴隷への恵みに過ぎなかった。
アルケオは成人するまで安が面倒を見る。
だが霧の外に安はいない。
母は当初、ひどく困惑していた。
だが文化を持つに至った人間は安と同じかそれ以上の働きをする、とても具合の良い奴隷だった。
だから恵んだ。それだけだった。
だがそれも、娘が成人した今となっては不要。
アルケオの女は早ければ15歳で成人となる。
そして今日は娘の15歳の誕生日。
もちろん、母は一家に感謝していた。
感謝しながら、美味しく食べた。
老人は食うに値せず、夫婦は旬を過ぎているので柔らかい部位しか食せない。
姉は。
少し若いが、なかなか美味い。
だらりと垂れた姉の目は涙に濡れていた。
恨めしそうな目に見つめられ、娘は、違う、違う、と繰り返した。
それが母に向けた言葉なのか、姉に向けた言葉なのかは自分でも分からなかった。
ただ彼女は、違う、違う、と繰り返した。
何が違うのかも分からなかった。
母は姉の胸を爪で裂いた。
血の滴る心臓が取り出され、持ち上げられた。
まるで水底から掬い上げられた果実のように。
一番おいしいところをお食べ。
母は慈愛に満ちた目でそう告げた。
母の目に映っていたのはただの娘ではなかった。
一人前のアルケオに成長した、娘の姿だった。
理性が吹き飛び、娘は母に襲い掛かった。
だが相手は怪物。
短剣は易々と弾き飛ばされ、またたく間に地に臥すこととなった。
怒りが、娘を衝き動かした。
母に誇るはずの力で、母を突き飛ばす。
母は転び、姉が地を打った。
天幕が支柱ごと倒れ、橙色の雪景色が露わになった。
娘は短剣を操り、母に襲い掛かった。
自分に殺意を向けるその姿に、母は嬉しそうな顔を見せた。
アルケオの戦いを教えなかったにも関わらずこの躍動。
奴隷の間で生きたにも関わらずこの胆力。
涙を流しながら、悲鳴を上げながらも萎えぬ殺意。
その強さを母は讃えた。
やがて娘のナイフが母を掠めた。
母はその傷にすら愛着を覚えたのか、嬉しそうに指で撫でた。
だが、母は背を向けて駆け出した。
翼を広げたその姿は、娘の知るどんな鳥とも違っていた。
雪上にも関わらず、母は滑るがごとき速度で駆ける。
娘は怒号と共にそれを追ったが、すぐに見失うこととなった。
夕陽が落ち、空が紫色に染まった。
娘は残された足跡と血痕を追った。
その先には霧があった。
一歩踏み込んだが、五感崩壊に耐え切れなかった。
逃げるように霧から脱出し、激しく嘔吐した。
空が藍色に染まる頃、娘は立ち上がった。
娘は悲嘆に暮れなかった。
絶望に打ちひしがれることもなかった。
皮肉なことに、彼女に流れる怪物――アルケオの血が悲嘆や絶望を許さなかった。
娘はただ淡々と葬儀を済ませ、財産を引き継ぎ、軍に入った。
残されたのは憎悪だった。
暗く、冷たく、澄み切った憎悪。
全身から煙のごとく漏れ出す灰の
娘は自らが生み出すそれを吸い、臓腑に収め、心に隠した。
胸骨で抱き、脂肪で覆い、筋肉で包んだ。
実母に殺意を向けたことに、後悔は感じなかった。
憎悪の刃を研ぎ澄ますことに、葛藤を感じなかった。
彼女は母が望む通りの、強い女に成長した。
――母を殺すために。
ベルシェアリーゼ。
通称シアは、
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