第60話 55

 


 『彼女』を助けるためには最低一人の恐竜人類が必要だ。



 約束通りサギを連れて行こうとすれば子供たちが泣き、喚く。

 力づくで拉致すれば攻撃される危険すらあるだろう。


 では子供の方を連れて行くのか。

 ――ダメだ。そんな素振りを見せればサギが死に物狂いで抵抗する。


 女子供とは言え、相手は恐竜人類だ。本気で抵抗されたら『獺祭』を使わざるを得ない。

 獺祭を使えば、敵は必ず死ぬ。

 サギを連れて行くために子供を殺せば彼女は憤激し、子供を連れて行くためにサギを殺せば、やはり子供達が逆上する。

 結果、どちらも殺すことになる。


 とてつもない幸運に恵まれれば、獺祭を使わず彼らを行動不能にすることができるかも知れない。

 だが目の前で我が子あるいは母を連れ去られるのだ。

 生き残った者は復讐者と化し、葦原を荒らし回るだろう。


 サギと子供達を切り離して考えることはできなかった。

 どちらかを殺す場合、もう片方も殺さなければならない。

 つまりどちらを選んでも、血と憎しみと嘆きの嵐が吹く。


(――――)


 最も安全で確実なのは今すぐ獺祭でサギを殺し、続けて子供たちをも射殺すことだ。

 つまり、皆殺し。

 自分で救っておきながら、約束を交わしておきながら、皆殺しにする。

 それが最も賢明な道。


 弓を握る手の平に痛みを覚える。


(……)


 サギに仲間を呼ぶよう命じるという方法も、あるにはあった。

 何も知らない恐竜人類の仲間をここに誘い込ませ、獺祭による一射で仕留めるというものだ。

 これなら殺す相手は一人で済む。


 だがこれは現実的ではない。

 なぜならこの辺りにはもう恐竜人類が残っていないからだ。

 出会った時、サギは「女王」の命令でアキ達がこの場を去ったと告げた。


「どうにかして呼び戻せないのか」


 問いかける俺の声に力は無かった。


「無理です」


 サギの肩に乗る煤竹色すすたけいろの髪が揺れる。


「女王の住処はここからかなり離れています。往路だけで半日はかかるでしょう」


「……。それじゃ間に合わない」


 きゅっとサギが身を縮めた。


「ワカ」


 ルーヴェが汗に濡れた髪をかき上げた。

 藍色の忍者装束の隙間から、饐えた布と女の匂いが漏れ出す。


「できないなら、わたし、サギをやる?」


 放たれた殺気が眼球を刺し、唇を刺した。

 ぴりりと幻痛が走る。


「ワカ。ころすのいや? ならわたしがやる」


「……!」


 サギが我が子を抱くようにして庇った。

 黒い羽の混じる子供達は藍色の忍者に明確な敵意を向けている。

 彼女達の目にもルーヴェは「やると言ったらやる奴」に映るのだろう。


 その直感は正しい。

 サギと約束を交わしたのは俺であってルーヴェではない。

 彼女は必要だと感じれば平気で子供を殺すだろうし、その行為に対して後悔や罪悪感を覚えることも、おそらくない。

 生きる為にすべてが正当化される死地に身を置いていた彼女は、ある意味恐竜人類より恐竜に近い。


「だっさい、ちょうだい」


 僅かな恐怖を覚えながらも、俺は静かに首を振る。


「殺すために助けたわけじゃない」


「……じゃあ、どうするの?」


 ルーヴェは俺を責めはしない。

 ただ、問う。


「シア、どうするの?」


「……」


 どうもこうもない。

 選べるのは片方だけだ。

 何の罪もないサギ達か、大恩だいおんある彼女か。

 どちらを生かし、どちらを殺すか。

 それを選べるのは、今のところ俺だけ。



 流砂に吸われゆく砂ののろさで時が経つ。



 太陽は天高く昇っているというのに、指先が冷え、背が冷え、肺腑が冷えていた。

 否、冷えているのは心臓だ。心臓が送る血液が氷のように冷えている。

 これでは弓すら握れない。 


 汗が眉毛を横に流れた。

 眉間から鼻の脇を流れた滴は顎に至り、落ち葉を叩く。


 陽の光を浴びながら、視界が閉ざされていくような錯覚に陥る。

 意識しなければ呼吸を忘れてしまいそうだった。


(……)


 ウズサダが言っていた。

 指揮官ならば飲み込まねばならない『渋み』があると。

 これもその一つなのか。

 至誠一つを尽くすために、殺す必要のない奴まで殺さなければならないのか。

 正道を唱えたその口で、子を想う母か、母を想う子に死ねと命じなければならないのか。

 それが十弓である俺の義務なのか。




 ――――




 ――――いや。違う。




 違うだろう。




 間違えてはいけない。

 俺が行き詰まっているのは俺自身が愚鈍だからなのであって、俺が指揮官だからではない。

 仮に俺が十弓ではなかったとして、この状況に直面すれば今と同じように苦悩したはずだ。

 俺がぶつかっているのは誰もが行き当たる困難の壁だ。

 ――『誰もが』行き当たる困難。


 そうだ。困難に直面しない者はいない。

 比類なき武勇を持つシャク=シャカがそうであったように。

 生まれながらの権力者であるセルディナがそうであったように。

 涼しい顔で道理を説いたミョウガヤとて、やはり苦難の壁にぶつかった。


 皆、それを乗り越えた。

 乗り越えようとしたからだ。

 俺だけが膝を折って打ちひしがれているわけにはいかない。


(……!)


 視界が明るさを取り戻す。

 再び陽の光が俺の目を焼く。


 考えろ。

 そう自分に言い聞かせる。


 俺は今、打つ手が無い。

 だが俺以外の人間なら、何かを思いつくのではないか。

 こんな時、シャク=シャカならどうするか。

 セルディナなら何と言うか。あるいはミョウガヤやウズサダなら。


 皆、何かを持っていた。

 暴力。権力。知恵。策。人望。

 俺の手元にあるのは何だ。


 弓と、毒。

 本当にそれだけか。


(――――)


 ざあっと風が吹いた。

 冷たい汗に濡れていた体を撫でられ、くしゃみを一つする。


「……あの」


 無言でサギを見る。


「よろしければ、事情を伺っても?」


「……」


 俺は事情を話すことにした。

 恩義のある人間がいること。

 その人間がのっぴきならない状況に置かれており、解放のために恐竜人類が必要であること。


 伏せるべき部分は伏せた。

 すなわち、彼女が人類と恐竜人類の混血である可能性についてだ。

 この件についてはまだ彼女自身から何の説明も聞いていない。

 今、サギに打ち明けるのは性急すぎる。


「ご恩、ですか」


 得心するように頷いたサギは一言、呟く。


「……一つだけ、心当たりがあります」


「?」


「誰も死なせず、ワカツさんに迷惑も掛けず、その人を助け出す方法です」


「?! そんな方法が……?」


「ええ」


 間近で見るとサギの髪や肌はじっとりと汗ばんでいた。

 彼女には俺と同じ熱い血が流れている。


「それは――」


 それはごく単純な方法だった。

 ――――サギが、力ずくで彼女を奪取するのだ。











 馬は怯えるように葦原の領地を駆けた。


 俺は敵を――人食いの恐竜人類を自国の領土に招き入れている。

 助けようとしている相手もまた、肉体の半分は敵。

 尋問し、解剖し、これから始まる大戦争に役立てなければならない『希少生物』だ。


 許されないことをしている自覚はあった。

 ただ、間違っていることをしている自覚は無かった。


 サギが力ずくで彼女を奪還し、エーデルホルンへ連れ去る。

 俺は命を奪う代わりにサギからあらゆる情報を聞き出し、葦原に還元する。

 それで――少なくとも尋問で得られるはずだった情報、つまり俺が損ねた国益の半分ほどは取り返せる。


 残り半分――『敵対する恐竜人類の数を一人でも多く減らす』というものは俺自身が死体の山を築くことで取り戻す。

 サギに奴らの本拠地の場所を聞き、そこに強襲をかけ、獺祭で奴らを根絶やしにする。


 山ほどの情報をサギから吸い上げ、山ほどの敵を仕留める。

 ――――それだけでみそぎになるとは思わない。

 だから本懐を遂げるその日まで、俺は葦原の土を踏まない。


(……)


 一位と二位は何と言うだろうか。

 俺を愚かだと言うだろうか。それとも、無言でうなずいてくれるだろうか。


「ワカツさん」


 子供たちを安全な場所に匿ったサギは、『天蓋』と呼ばれる筒型の編み笠をすっぽりとかぶっていた。

 中からは外の景色を確認できるが、外部から中の人間の素性を知ることはできない。

 これで最も特徴的な緑色の目は隠せた。

 すっぽりと身を包む黒衣の裾からは恐竜の脚が見え隠れしているが、それも馬を止めれば見えなくなるだろう。


「方角、こちらで合っていますか」


「ああ」


 既に、赤い花に飾られた門が見えている。

 最も不吉とされる石蒜門せきさんもん

 俺の屋敷がある方角だ。


 その更に向こうには、朽葉色の瓦を乗せた城郭。

 山すら見下ろし、雲間から矢の雨を降らす俺たちの城。


 街路に茣蓙ござを敷いた行商人の姿が目に入る。

 俺に気付き、手を振る者や荷物を隠す者もいた。


「……ワカ」


 ルーヴェが馬の速度を落とした。

 つられて俺、続いてサギが速度を緩める。

 サギは見咎められないよう、さっと脚を隠した。


「どうした」


「あそこ、忍者がいっぱいいる」


 それはそうだろう。

 あの街、御楓ミカエデは弓衆の本拠地。

 護衛の忍者がそこら中をうろうろしている。


「サギ、大丈夫?」


「大丈夫だ。みんながみんなお前みたいに鋭いわけじゃない」


 舞狐の属する忍者衆、『獣面』には得体の知れない者も少なくない。

 もしかすると衣服の上からサギの素性を言い当てる者がいるのかも知れない。


 だが腕利きの忍者たちは今、この街にはいない。

 ブランプラーナの一件を解き明かすべく、奴ら自身の拠点に集合している。

 下忍は残っているだろうが、奴らが服越しにサギの正体を見破れるとは思えない。


(――――!)


 一計を閃くと同時に、じろじろとこちらを見る胡散臭い集団に気付く。


「無視しろ。近づいて来たら俺が追い払う」


「うん」


 街に入ったが、町人は誰もルーヴェやサギに近づかなかった。

 もちろん、俺に近づく者もいない。俺とお近づきになっても何一つ利が無いからだろう。


 俺は一度だけ屋敷に寄り、足りない矢と毒を補った。

 ルーヴェの装備も調達し、ついでに言付けを頼んでおく。


 客でも来ているのか、屋敷は賑やかだった。

 俺は邸には入らず、素早くそこを離れる。


「……ワカツさん。どこまでご一緒されるおつもりですか」


 馬を降りたサギはしずしずと歩みながら問う。


「もうこの辺りで別行動をとった方が良いのでは……? でないと、ワカツさんの手引きだと疑われてしまします」


「いや、いい。牢獄まで一緒に行く」


 サギの心遣いはありがたいが、無意味だ。

 サギが力ずくで彼女を助け出すことで、「恐竜人類が仲間の恐竜人類を助け出した」という体裁を繕うことはできる。

 だがそれを本気で信じる奴はいない。

 俺と『彼女』の歩んだ道程は既に『十弓』を始めとする精鋭に知れ渡っている。彼女が姿を消したとあらば、俺の手引きを疑わない奴はいないだろう。

 ――そもそも、アブラオやアワノが証言したらそれで終わりだ。

 俺は十弓の名誉を傷つけないまま彼女の命を救うことができるが、当の十弓は確実に俺を疑い、俺に追っ手を差し向ける。

 その結末に限って言えば、俺自身が彼女を奪還するのと大して変わらない。


 だったらせめて葦原への被害が少ない道を選びたい。

 今ここでサギと別れたら、彼女は牢獄中の人間を叩きのめして回るだろう。

 彼らは与えられた仕事を忠実にこなしているだけだ。殴られるいわれも、責められるいわれもない。


 守衛は愛想よく俺を通した。

 御楓ミカエデの牢獄は地下へ向かって伸びている。

 文字にするなら『地下五階建て』とでも言えば良いだろうか。


 俺は彼女の牢獄へ急いだ。

 海底へ向かう階段のように、世界は色を変えていく。

 縹色。群青色。藍色。そして黒。


 光の届かない牢獄は昼下がりでありながら真っ暗だった。

 空気はこもり、ひどく湿気た匂いがする。


 最下層に至る。


(……)


 俺が随伴できるのはこの辺りまでだ。

 今更退いたところで罪状は変わらないが、これ以上進めば俺の心が一線を越えてしまう。


「護衛は何人ですか」


「確か二人だった。……ルーヴェと同じ忍者だ。毒に気を付けろ」


 誰かに袖を掴まれる。

 ルーヴェだ。

 彼女は闇の向こうをじっと『視て』いた。




「……。シア、いなくなってる」




 肩と心臓が跳ねる。

 そんな馬鹿な。

 タネハルは三日後に護送されると――――


(! 早めたのか……!)


 ランゼツ三位の冷笑が脳裏に浮かぶ。

 忍者が戻らないことから推測したのか、俺の姿が見当たらないことで察したのか、それは分からない。

 だがいずれにせよ、三位が何か「余計なこと」をしなければ、彼女がいなくなったりはしない。


「え、いないんですか……?!」


 天蓋を外し、今にも駆け出そうとしていたサギがつんのめる。


「いない。においしない」


「追えるか?」


「……わたし、犬じゃない」


 そうだった。

 ルーヴェは『今、ここ』における知覚能力こそ人間離れしているが、色や匂いを無限に追跡できるわけではない。


 藍色の忍者は地上へ続く階段を見やる。


「ここに来るまで、シアのにおい、しなかった」


 それはつまり、彼女は既にこの街にいないことを意味する。

 そして彼女がここを発ってからそれなりの時間が経過していることも意味する。

 ルーヴェが焦りを滲ませた。


「ワカ。シア、どこ……?!」


「~~~!」


 答えに窮する。

 分かるわけがない。


 ただ、一つだけはっきりしていることがある。

 尋問を担当するのは大囚獄司だいしゅうごくしタネハルだ。

 彼の身柄を抑えれば必ず彼女の元へたどり着ける。


「出るぞ……急げ!」


 牢獄を飛び出した俺たちは再び馬に飛び乗った。


 既に日は傾きかけている。

 寸刻すら惜しい。


 門を抜け、街道を駆ける。

 田畑を横目に、赤とんぼと並び、ただ駆ける。

 酷使された馬は粘り気のある泡を噴き始めた。 

 疲労困憊しているのは馬だけではない。


「……ハっ……はッ……!」


 手足が重い。

 背を貫く骨が軋み、筋肉が鉛のように強張っている。

 思考がもつれ、ともすれば目の焦点が合わなくなる。


 人との戦いは弓箭きゅうせんで終わる。

 恐竜との戦いは獺祭だっさいで終わる。

 だが時間との戦いにはそのどちらも通じない。


 これまで感じたこともないほどの緊張と焦燥が、俺を追い詰める。

 血がざらつき、息が乱れる。

 汗が毛穴に逆流し、体温が急上昇と急降下を繰り返す。


 終わりの見えない道の先に、タネハルの屋敷へ続く山道が見えた。

 林立する木々の影は長く伸び、俺たちを見下ろしている。

 斑状まだらじょうに木の影が伸びる地面は、蛇の背中のようだった。


 灼け付くほどの陽光で溶けてしまいそうだった。

 いっそ溶けた方が楽になれるのではないか。

 力尽き、落馬してしまえば楽になれるのではないか。

 ――そんな考えをどうにか振り払う。


 かろうじて俺の意識を繋ぎ止めているのは、意地だった。

 借りを作ったまま力尽きるわけにはいかない。

 その意地が溶けかける身体の筋となり、腱となり、骨となって肉を支える。


「……! ワカ!」

「ワカツさん! 人です!!」


「!」


 顔を上げる。

 行く手に人影。

 俺より背の高い女だ。




 黒い小袖。

 目に焼き付く赤紫の狩衣。


 孔雀に似た冠羽の髪飾り。腰まで届くあでやかな黒髪。

 片腕を覆う巨大な骨の武具。




 ――ランゼツ三位。




 桜唇おうしんに冷笑が浮かぶと、三頭の馬が急停止する。

 断崖を前にしたかのように。

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