第61話 56


 苛立ちと共に『十弓』の名を口にすることは珍しくない。

 怒りと共に名を呼ぶこともあるし、煩わしさを覚えながら名を呼ぶこともある。

 もちろん、敬慕の情を込めることもある。


「ランゼツ三位……!」


 呆れに近い憎悪を覚えたのはこれが初めてだった。

 呆れ。

 憎しみ。

 どちらの感情も、仲間に向けるべきものではない。

 

「遅かったな、九位」


 急停止した馬の蹄が砂を巻き上げる。

 数十歩先で赤紫の狩衣が踊り、黒い袴が揺れた。


「もう少し思い切りのいい男かと思っていたが、そうでもないんだな」


「何故このようなところに……!」


「何故もなにもない。お前が来ると思ったからだよ。こそこそと妙な動きを「そうではありません」」


 無礼と知りながら言葉を被せた。

 馬から飛び降り、砂を踏む。


「あなたは『三位』でしょう? 国三番手の弓取りだ。そのあなたがこんな場所で……!」


「……」


「恐竜はもうそこまで来ているんです! こんな……たかが虜囚一人のために三位自ら動くだなんて――、……」


 言葉に詰まると、三位が引き取った。


「『大仰』か?」


「そ、そうです」


 三位はじっと俺を見つめた。

 人となりはともかく、外見だけなら国でも指折りの麗人。

 不覚にも寒気を覚える。


「見解の相違があるな、九位」


 穏やかな声音。

 だがその目には嘲りの色がある。


「恐竜共は確かにこちらの領土を侵しつつある。だがそれを防ぐのは兵の役目であって私が果たすべき勤めではない」


「そんなことはないでしょう。三位が加われば恐竜人類を返り討ちにすることもできるはずです。視察して声を掛けてやるだけでも……」


「要所は数百から数千の兵が護っている。私一人加わったところで大した違いは生まれない。それに指揮を執る者が増えればいたずらに状況をかき乱すだけだろう。……視察などそもそも国費の浪費だ」


「……!」


「次に虜囚についてだが、『たかが一人』だとは思っていない。恐竜人類の情報は多く入っているが、ここまで巧妙に人間に擬態できる個体がいるとは聞いていない。聴取は迅速に行うべきだ」


 それに、と三位は俺の方へ歩み出す。

 数十歩の距離が縮まっていく。


「お前は頑固で義理堅い。策に窮せば誰かに嘆願するのではなく、力ずくであの女を逃がそうとするだろう。そうなった時、忍者や太刀衆の束でお前を止められるとは思わない。『十弓』ですら一人二人では不足だろう」


 三位は事も無げに言葉を継いだ。


「お前は強いからな、ワカツ九位」


「……」


「恐れ入ることはないよ。お前は本当に強い。射手として見れば少なくとも五位相当の腕がある」


 高鳴る鼓動で鎖骨が震えた。

 胸の奥で銀杏の実が跳ねているかのようにも感じる。


「もっとも、強い『だけ』だがな。だから私だ。私一人で十分だ」


 賞賛か、侮蔑か。

 解釈に悩む言葉を放った三位は軽く上体を曲げ、上目遣いを見せた。

 骨の矢はまだ畳まれている。


「以前お前は言ったよな? 「叛意は無い」と。それは今も変わりないか?」


「ええ。ありません」


 俺は三位の目を見据えた。


 詭弁ではあるが、『俺に』叛意は無い。

 本当に叛意のある者は俺の数歩後方、鞍の上でじっとしている。


「ふうん」


 俺の目を見つめたまま三位が近づいてくる。

 そして正確に十歩の位置で停止した。


「三位」


「何だ?」


「無礼を承知で申し上げます」


 俺は彼女を睨みつけた。


「面白がっていらっしゃいませんか」


「……」


「本気で俺を止めるつもりなら、一位か二位に相談すれば済む。十位だって俺を説得する材料たり得るでしょう。それに彼女の護送は正当な手続きを経たものでした。大量の太刀衆や弓衆を動員することもできた。なのにあなたは一人で来た」


 俺が従うか否かは別として、三位の手の中には多くの選択肢があった。

 時間の掛からない方法もあるし、より確実性の高い方策もあった。

 なのに、わざわざ一人で来た。

 これはつまり、自分の力で俺を踏み潰したいという欲求が働いたからに他ならない。


「俺に何か恨みでもおありですか……!」


 三位の頬が緩んだ。

 開花に例えるにしては、邪な笑み。


「お前は機微に疎いと思っていたんだが……成長したな」


 嬉しくも誇らしくもない賛辞に奥歯を噛んだ。

 やはり三位は俺を個人的に攻撃するためにここへ来たらしい。


「非礼があったのならお詫びします。個人的に話すべきことがあるのならいつでもお呼びください」


 何を考えたのか、三位は肉の厚い舌で唇を舐めた。

 蛇の消化液を思わせる唾液が花唇を濡らす。


「――ですが今だけは何も言わず俺を通していただきたい」


「さて。どうしようかな」


「武人としてお願いします」


「私は武人ではないよ。武をさほど尊んではいないからな」


 焦りが心臓を軋ませていた。


 三位は道の中央に立っている。

 馬で突破することは不可能だ。

 押しのけようとすれば矢を射られるだろう。

 男女含めて三番手。女性に限れば葦原最強の女弓兵の矢を。


(……)


 まだだ。

 三位は俺が強硬手段に打って出たと考えているが、サギの存在には気付いていない。

 彼女さえ通すことができれば、勝機はある。

 重要なのは三位を道から排除することではなく、サギを先へ行かせることだ。

 その為にはどうすればいいか。


 舌戦では不利だ。彼女は圧倒的に俺より立場が上で、心持ちにも余裕がある。

 三位を言葉で揺さぶることはできない。


 傾く日がちりちりと俺を焼く。


「そんな顔をするな」


 三位はねっとりとした声で告げた。

 本人は粘着質な声を上げたつもりなのだろうが、そこには独特の凄艶さがある。


「……通してください」


「通すさ。お前の秘策を教えてくれたらな」


「!」


 三位はちらとルーヴェ、サギの二人を見やる。


「あの女を無理やり奪還するにしては手勢が少ない。何か秘策があるんだろう? それは何だ? 屁理屈か、それとも特異な暴力か。教えてくれたら通してやろう」


「……秘策も何もありません。俺はただ――」


「まどろっこしいな」


 押し付けるような言葉と共に、片腕を覆う『骨の矢』が傘のごとく開いた。

 一瞬で弦が張られ、次の瞬間、赤紫の矢羽が視界を走る。


「っ!」


 速射に自信がないわけではなかった。

 おそらく武器の違いが明暗を分けた。

 開くと同時に引き絞られた矢が、二射立て続けに放たれる。


「避けろッ!!!」


 ルーヴェとサギが馬上から左右へ跳ぶ。

 残された馬の首に矢が突き刺さった。


 一拍置き――ばづんという嫌な音が響く。

 馬が嘶き、血を噴いて倒れ、のたうち回る。

 サギとルーヴェが息を呑む気配が伝わった。


「三位! 今のはまさか――」


「こうでもしないとお前は本気になってくれないだろう?」


 すん、と鼻をひくつかせた三位は眉をひそめた。


「……お前は鉄で出来た花のような佇まいがとてもそそるのに、こんなに女臭くなって」


 三位は上目遣いを見せた。

 世にもおぞましい舌なめずり。


「そのせいか? 以前のお前なら喜んで私に矢を向けただろうに、小賢しい口上をつらつらと……。ほら、言ってみろ。『退かねば射殺しますよ』と」


 拳に汗が滲んだ。


 それを言うのはたやすい。

 だが俺の実力では返り討ちにされるのが関の山だ。

 それに三位に矢を向ければこれまで慎重に歩んできた意味がない。

 俺はただちに国賊に――


「ワカ!」


「!」


「やれやれ、だな。目上にも平気で噛みつくのがお前の数少ない美点の一つだろうに。強い者には噛みつけないのか?」


 三位がゆっくりと狩衣を脱ぎ、肩に引っ掛けた。

 白い指が腰帯に伸びると、背中側に隠されていた六つの矢筒がぐるりと左右の腰へ。


 矢筒の形状は尾羽を畳んだ鳥を模している。

 そこから突き出すのは狩衣と同じ鮮烈な赤紫に染め上げられた、孔雀の矢羽。


「三位!」


 名を呼ばれた女丈夫は虫の止まった稲のごとく、てろりと身を傾がせた。

 顔には歪な笑み。


「お前の困り顔はいつか見てみたいと思っていた」


「! そ、んな……くだらない理由で……!!」


「くだらないさ。だが私はお前より位が高い」


 三位はせせら笑った。


「悔しいか? 誰かの気分で自分の人生が揺さぶられるのは。悔しいならそう言ってみろ」


 挑発だと分かっていた。分かっていたが、こめかみで血管が疼いた。

 血は煮立ったように熱くなり、泡すら吹いているようにも感じる。

 闘気が伝染したのか、サギとルーヴェも構えた。


 俺は踏みとどまった。


「あなたに『十弓』としての矜持はないんですか……!!」


「矜持?」


 くくっと喉を震わせ、三位は笑った。


「知らないのか? 十弓の選定条件を」


「……?」


「私たちは葦原の弓兵の中で最も――――」


 風が止んだ。




「最も『美形の』十人だ」




「――――」


 十弓の地位に固執したことはない。

 本当に必要なら、それを投げ打つ覚悟もあった。

 だが、それとこれとは話が別だった。


「せいぜい美しく着飾り、眉の形が崩れぬよう整えておけ。それが私たちの『矜持』だよ」


 指先がすっと冷えた。

 潮が引くように、頭の中から激しい感情が引いていく。 


「三位」


「何だ?」


「今の言葉、取り消していただきたい」


「事実ゆえ、断る。……もちろん一定以上の強さは要求されるが、『十弓』の本質は弓の腕ではなく顔の良さだ」


 草履の音が耳に障る。

 先ほどまで感じていた焦りがどろりと溶け、別種の感情に変わっていくのが分かる。


「強さや賢さは証明に時間が要る。だが『美しさ』は一瞬で人を納得させる。特に、他国に比べ浅はかで流されやすい葦原の民などはな。だから――」


侮言ぶげん、しかと聞きました」


 俺は矢を掴んだ。

 自分でも驚くほど頭の中が冷たくなっていた。

 自分でも驚くほど冷え冷えとした声が漏れた。


「『傘門十弓さんもんじゅっきゅう』、そして葦原の民への侮辱、看過いたしかねる……!」


 三位は何も言わず、唇の端を持ち上げた。

 俺が弓を構えると、その笑みは葦を呑み込む泥沼のように広がる。


「いたしかねたらどうする?」


 俺は僅かな知識を絞った。


「十項六条!」


風紀紊乱ふうきびんらんか。……そうだな。その条項ならお前が私を譴責けんせきすることもできる」


 すべて見通されている。

 見通されているが、やるしかない。

 こうなった以上、彼女を行動不能にしなければ先へ進むことはできない。


「隊規に則り、貴様を反省房に連行する!」


「ふふ。やってみろ」


 狙いを定める暇もない。

 まばたき一度で矢を番え、まばたき二度で弦を震わす。

 空を切り裂き、蛇の矢が飛ぶ。


(!)


 矢が弦を離れた瞬間、外れることを確信する。

 三位はこちらを向いたまま、既に後方数十歩の位置まで走り抜けていた。

 『旋逆巻つむじさかまき』。

 葦原最速を誇る三位の走法。


 弧を描く矢が何も無い空間を通り過ぎる。

 その向こうで、三位の手が矢筒へ伸びた。


 片手が一瞬で三本の矢を掴み、扇状に広げられた孔雀の矢羽がぐるぐると回転する。

 『乱火車らんがしゃ』。

 ランゼツ三位の強さを支える射法。否、『握法』。

 彼女は一度に三本の矢を取る。


「サギ! ルーヴェ!」


 ルーヴェが忍者刀を抜き、サギが衣服の袖から長い鉄の鉤爪を突き出した。


「ワカツさん! 正当な防衛です! お許しを!」


「ワカ! ころす、いい?」


「殺す気でやれ! でないと殺される! それから――」


 三位がまず一射目を番えた。

 鏃は、白い骨。


「あの矢には絶対当たるな!」


 ひゅぱっ、と。

 鞭がしなるがごとき音。

 遠く聞こえる音を追い越し、矢が迫る。  

 狙いは俺の脚。


「!」


 横っ飛びしてかわす。

 土が跳ね、雨露のごとく地を叩く。

 三位の腕で、開いた骨がこりりと回転していた。

 既に次の矢が番えられている。


 サギとルーヴェが駆け出すが、三位はそちらに目もくれない。

 目もくれず、添えるように呟く。


「『骨の矢』」


 ぴひゅ、と先ほどより高速の矢が迫る。

 土の上でもう一回転。

 一秒前に俺がいた場所に矢が突き刺さった。


 正確無比な矢が外れた理由はルーヴェが煙玉を放っていたからだった。

 三位はちらりとそちらを見、『骨の矢』を回転させる。

 こりり、と回転が止まり、三位が腕を引いたところでサギが跳び、ルーヴェが仕掛けた。


 が、俺は叫ぶ。


「よせ! 矢がまだ――」


 三位は手の中に矢を残し、指で弦を引いていた。

 その事実に気付いた二人が停止するが、遅い。

 手の中の矢を転がした三位が瞬時に矢を番え、弦を引く。


「くっ!」


 膝立ちとなり、番えた矢を放つ。


「『蛇の矢』!」


 三位に迫る矢に『獺祭』は塗られていない。

 怒りに衝き動かされているのは確かだが、三位を殺すわけにもいかないからだ。

 その迷いが手に伝わり、矢にも伝わったのか。

 赤紫の十弓は蛇の矢をやすやすとかわし、俺に狙いを定めた。


「何だ。その気の抜けた矢は。蛇ではなく蛞蝓なめくじか?」


「っ!」


 俺は真横に駆け出し、倒れた馬の影に飛び込んだ。

 そこへ三位の矢が飛来する。

 黒々とした胴にずぶり矢が立った次の瞬間――――




 ずぱん、と。

 馬の胴体が大きく震えた。




「!」

「!」


 サギとルーヴェが異変に気付き、攻撃の手を緩めた。

 その隙に三位は旋逆巻で急加速し、かなりの距離を取る。


「ワカ! 今の……」


「な、なんですか?! ワカツさんの矢とも違う……」


 俺は馬の影から這い出し、傷口を見た。

 一見すると、ただ矢が刺さっただけのように見える。

 ――『一見すると』。


「三位の矢は刺さった後、体内で破裂する」


 原理は俺にも分からない。血液に反応するのか、それとも脂に反応するのか。

 分かっているのは、本来ランゼツ三位の『骨の矢』とは特異な形状の弓ではなく、矢の方を指し示す呼称であるということ。

 そして骨片の細粒を固めた鏃は生物に突き刺さった瞬間、破裂する構造であるということ。


 破裂した骨片は傷口周辺の肉に食い込み、血管を破る。

 人体内部を直接破壊するため、傷口を治療することはほぼ不可能。

 傷口内部で飛び散った骨片が動脈を傷つけようものなら出血が止まらなくなり、場合によってはそのまま死を待つ身となる。


 一射必殺。その結果だけ見れば俺の『獺祭』と似ている。

 だが本質が違う。

 俺の矢は敵を速やかに排除するための矢。

 三位の矢は敵を長く苦しめ、後悔と共に殺すための矢。


「絶対に当たるなよ……!」


「そう。絶対に当たるな」


 三位は既に乱火車らんがしゃで三本の矢を手にしている。

 ぐるんぐるんと孔雀の矢羽が風車のごとく回転する。


 傘骨に似た彼女の弓は回転し、一度に三つ取られた矢が次々に番えられる。

 弓か指を破壊しない限り、三位の攻撃は間断なく続く。

 しかもその矢は一撃で獲物を壊す。


 この射法を破った者は、いまだ誰もいない。

 

「せいぜい私を悦ばせるといい」


 三位の攻撃は凄絶の一言に尽きた。

 

 赤紫の矢は真横に降る雨と化し、俺たちに降り注ぐ。

 一、二、三の呼吸で放たれる速射。

 一。――二、三。一、二――――――三の呼吸で放たれる偽攻を織り交ぜた連射。

 狙いも正確無比で、すぐに俺たちは遮蔽物に身を隠す必要に迫られた。

 馬の影から木立へ。木立から別の木立へ。


 攻撃の隙を見て距離を詰めると、旋逆巻であっという間に距離を取られ、射程外に逃れようとすれば俊足で距離を縮められる。

 こちらはサギが顔を隠さなければならず、ルーヴェも正面きっての戦いに向いてはいない。

 そして俺の矢は――――


「しっ!」


 しゃおお、と迂回した矢を三位はいともたやすくかわしてみせた。

 数歩も余計に距離を取った回避。


「当てる気はあるのか?」


「……!」


「読みが甘いんだ、お前は。男のくせに理屈で行動を予測していない」


 三位の手の中でぐりんぐりんぐりんと赤紫の矢が踊る。


「手ほどきをしてやろうか。ねやの中で良ければな」


 奥歯と弦が軋る。

 俺だけでなく、ルーヴェとサギも身を強張らせ、三位が指を離す瞬間を見定めようとする。

 ひゅぱっと矢が空を切る音。

 すぐさま女二人が距離を詰めるが、三位は遠ざかっている。


「!」

「近づけない……!」


「そうさ。臆病者は私に触れることすらできない」


 既に次の矢が番えられている。

 俺たちは『骨の矢』の直撃を避けるべく、三位の手元を注視する。

 矢庭に、三位が走り出す。

 後方ではなく前方へ。


「! 近づくな!」


 俺たちは思い思いの方角へ駆け、距離を取る。

 近距離であの矢を放たれたら、さしものルーヴェとサギも回避が間に合わないからだ。


 サギが土を蹴り上げ、ルーヴェが煙玉を放る。

 三位はその中へ平然と突っ込み、ゆるりとこちらを見た。

 足元にはもうもうと立ち込める白煙。

 まるで朝靄の中に姿を現した怪物のようだ。

 

「逃げてばかりか。つまらん。……見込み違いだったな」


 三位はふっと息を吐き――持ち上げた腕をルーヴェに向けた。


「!」


「煩わしい忍者だ」


 一。

 二。

 三。


 一、二、三。


 一、二、三。

 一二三。一二三。一二三。

 一二三一二三一二三一二三一二三一二三。


 とかかかか、だかかかか、と。

 木の幹、梢、根や枝に次々に矢の雨が降る。

 もはや赤紫の奔流と化した攻撃を前に、木の幹に隠れたルーヴェが一歩も動けなくなる。


「?!」


 三位は矢を射ながらゆっくりと横へ移動していた。

 角度を変えて射殺すつもりだ。


「させません!」


 サギが駆ける。

 三位がぐりんと上体を捻り、そちらへ孔雀の羽を乱舞させる。

 サギは視力が良く、反応速度にも優れている。

 だがそれでも、三位の矢をかいくぐることはできなかった。

 真正面から強風を浴びた鳩のごとく、彼女は矢の雨を前に二の足を踏む。


「くっ、うっ?!」


 雨。雨に次ぐ雨。

 赤紫の驟雨。

 巧みな体捌きで直撃こそ避けているがサギの装束は裂け、肩からは赤い血が流れた。

 彼女の場合、両手両足を見られることも避けなければならない。


「サギ! 引け!」


「ぅぅ……!」


 彼女は向きを変え、倒れ伏す馬の腹へ滑り込んだ。

 矢の雨を逃れたルーヴェも大きく迂回し、同じ場所へ滑り込む。


 俺もまた蛇の矢で威嚇しつつ、同じ場所へ集まる。


「逃げてばかりだな、九位」


 びひゅん、ひひゅん、と次々に矢が射られる。

 馬の胴に突き刺さり、鏃が破裂する。


「五位相当といったが、買いかぶりすぎかな?」


 矢が尽きるのを待つか。

 いや、そこまで三位は甘くない。


 それにこの足音。

 三位は距離を詰めてきている。

 今飛び出せば矢の雨を浴びる。

 さりとてこのまま接近させれば、近距離射撃で少なくとも一人は死ぬ。


(クソ……!)


 何度も何度も身を跳ねさせる馬の影で、サギが近づく。


「ワカツさん! 盾か何かが無いと……!」


「そんなものは無い……!」


「だっさいは?」


「当たらなきゃ意味が無い! ――――」


 ルーヴェがぴくりと耳を動かした。

 三位がいよいよ接近しているのだろう。


 サギの言う通り、装備の不足が痛い。

 だが盾を掲げた状態で突撃したところで、俊足の三位は容易に回り込み、持ち手を射殺す。

 第一、俺の武器は盾と相性が悪すぎる。

 盾を掲げた状態でどうやって矢を射ればいいのか。


 いや。問題はそんな小手先のところではない。

 そもそもこの葦原で三位に勝てる人間はほとんどいないのだ。

 太刀の間合いで始まった決闘で武士を射殺す弓兵に、どうやって勝つというのか。

   

「ワカ。もうすぐ来る」


 覚悟を決めなければならない。

 俺は拳を握り、開く。


「……」


 ルーヴェと無言で頷き合う。

 サギが事態を察し、息を呑む。

 すっと息を吸い、むわりと汗の匂う馬の影から叫ぶ。


「三位! 止まってください!」


 草履が砂を踏む音が止まる。

 距離はもうほんの十数歩だ。


「一度だけ警告します。どいてください」


「断る」


「ではこれから――俺が持っている中で最強の毒を使います。まともに食らえば盗竜ラプトルですら即死する毒です」


「ほう」


「止まってくだされば」


 三位は止まらなかった。

 俺は素早く狩衣を掴み、天へ放る。


 三位の矢がそれを射貫くと同時に馬の影から真横に飛び出し、矢を放つ。

 ――『蛇の矢』。


 唸り声を上げ、弧を描いた矢が――――




 ――――三位の放った矢に撃ち落とされる。 




「?!!」


「何を驚いている。お前の矢は一度曲がると極端に遅くなる。これぐらい訳はない」


 確かに蛇の矢は迂回した瞬間、速度を落とす。

 だがそれは『極端に』などと表現できるほどのものではない。

 俺の感覚では『ごく僅か』だ。


「!」


 ルーヴェが馬の反対側に飛び出した。

 濡れ手に無数の手裏剣。


「『だっさい』」


 礫のごとき手裏剣が放たれる。

 三位はぐりんと身を捻り、旋逆巻で横方向へ回避した。

 あり得ないほどの急加速にルーヴェが目を剥く。

 三位は加速の中で矢を番え、狙いを定める。

 硬直したルーヴェ目がけて『骨の矢』が――――


「ルーちゃん!」


 サギが三位の射線に編み笠を投げた。

 大きな筒状の笠に視線を遮られ、三位の矢は僅かにルーヴェから逸れる。


 そしてサギは腕を振りかぶっている。

 煤竹色の髪が風に踊る。

 手には、矢。


「『獺祭』!!」


 腕がしなり、矢が槍のごとく投げつけられた。

 恐竜人類の膂力によって放擲された矢は本物の矢と遜色ない速度で三位に迫り――――


「ふっ!」


 ばちん、と。

 腕を覆う手甲で叩き落とされる。


「ッ!」


 俺は最後の『蛇の矢』を放った。

 地面すれすれを飛ぶ矢が三位の十数歩手前で真上に浮き上がる。


「ふ。やぶれかぶ――」


 急上昇した矢が、ぴひょおお、と鳴く。

 三位の口元から笑みが消える。


「しっ!!」


 天高く飛んだ矢を『次の矢』で狙う。

 矢と矢が衝突する。

 その衝撃で先に放った蟇矢の先端が割れ、毒粉が三位の真上に降り注――


「!!」


 既に三位は旋逆巻で距離を取っている。

 降り注ぐ毒の粉は彼女を称えるようにぱらぱらと舞った。


「つまらん雑技だ」


 三位の手の中で三本の矢が回る。

 回避が間に合う距離ではない。

 防御すれば――した部位が壊される。


(っ)


 咄嗟にうつぼへ手をやる。

 これまで選んだことのない矢を掴む。

 念のため持って来た矢。

 実戦で使うにはまだ使えない、練度不足の矢。


 三位と俺は同時に弓弦を引いた。

 向かい合い、一瞬の沈黙。


 唇が動く。


「『骨の矢』」


 弦が鳴る。


 一直線に飛ぶ矢が交差した刹那、ルーヴェが俺の前に割り込み、網を投じる。

 ウズサダ達から拝借した頑丈極まりない鯨用の網。


「たあああっっ!!」


 三位の矢が絡まり、俺たちを逸れる。

 力んだルーヴェの背中越しに三位が見える。

 

 彼女は既に俺の矢の軌道から逸れていた。

 射線を完璧に読み切った動き。

 軌道を曲げても当たらない矢だ。直線軌道で当たるわけがない。


 赤紫の矢羽が踊る。

 連射のできる三位は回避と同時に攻撃態勢に移っている。

 一直線に飛んだ俺の矢は――――




 三位とすれ違う瞬間、真横へ飛びかかるようにしてその腕に突き刺さった。




「グっ?!」


 三位の腕が跳ね、体勢が崩れる。


 矢羽を左右非対称に組み合わせた俺の矢は、一定以上の速度に達すると大きく曲がる。

 基本的には敵の虚を突くため、三日月状に迂回するようこしらえている。

 だがそれだけが曲射のすべてではない。

 矢羽の組み合わせや羽裏の細工、の比重を変えることで、まったく別の速度で反応し、まったく別の軌道を描く矢を作ることもできる。

 ほとんどは失敗作だが、ほんのわずかに『使える』組み合わせも存在する。


 その一つに、『一定以下の速度に至った瞬間、小さく曲がる』矢というものがある。

 一見すると直進する矢だが、ある瞬間、急激な変化を見せる。

 ちょうど、怯える蛇が敵に噛みつくかのように。


「『蛇の矢』」


 まだ実戦に堪えうる代物ではない。

 名前はある。


「――――『まむし』」


「!!」


 腕に矢の立った三位はその部位をきつく握ろうとしていた。

 だが無駄だ。獺祭は一撃で敵の命を奪う。


「毒を塗っています。残念ですが、終――」


 終わりではなかった。

 三位の腕に突き刺さったはずの矢が、ぽろりと地に落ちる。


 苦悶に歪んでいたはずの三位の顔に笑みが浮かんでいることに気付き、慄然とする。


(防具……!) 


 布か、あるいは手甲か。

 いずれにせよ三位は小袖の下に防具を仕込んでいたのだ。


 考えてみれば自然なことだった。

 相手は毒を使うのだから、皮膚に矢が立たないよう備えるのは当然だ。


「ぐ……!」


「それが奥の手か。悪くないな」


 白い傘骨が突き出される。


「では記念に私の奥の手も見せてやろう。たまには使ってやらないと鈍るからな」


「……!」


 もう、打つ手が無い。

 俺も、サギも、ルーヴェも。

 これが『三位』。


 彼女はサギに矢を向ける。


「幸運を祈れ。運が良ければ一射で死ねる」


 きりり、と矢を引いた三位は嗤った。

 息一つ乱さず、汗一滴すら流していない。


「悪ければ――余生を片脚で過ごすといい」


「っ!」


 くらくらするほどの怒りに襲われる。

 だが、どうしようもなかった。


 何故なら彼女は俺より強い。

 ここに来る前から分かっていた。もし三位が俺の前に立ったら、俺に為す術はない。

 だから――――


「『ばん――」




 何かを呟こうとした格好のまま、三位が静止した。




 一つ。

 二つ。

 三つ数えたところで彼女の瞳が横へ動く。


「……何事だ」


 木立を駆け抜けて来た数名の忍者がその場に降り立った。

 全員が恭しく膝をつく。

 

「カヤミ一位より参集の命が」


「聞こえないな。私はここにはいないよ。そう伝えよ」


「なりませぬ」


 三位は忌々しそうな目を忍者に向けたが、彼らは引かなかった。

 明らかに下忍ではない。獣面ほどではないが、それなりに腕の立つ連中だ。


「用件を申せ」


「『四カ国会談』に関する極めて重要な話と伺っております」


「……。チッ。どいつもこいつもこんな時だけ動きの早い……!」


「それは一位へ向けたお言葉ではあられますまいな?」


「違う」


 三位は展開していた骨の矢を畳んだ。

 忍者たちが素早く俺に目を向け、ルーヴェ、そして目を覆うサギに目を向ける。


「……よもや十弓同士で殺し合いを?」


「ただの演習だ。なあ九位?」


「……ええ」


「左様ですか」


 三位は一度だけ俺を見ると、嘲笑を残し、忍者と共にその場を去った。

 妖しく甘い匂いだけがその場に残された。




 彼らの足音が遠ざかると、残された俺たちはどっとその場に崩れる。


「何とかなったか……」


「ごめん。もっとたくさんの忍者に言えばよかった」


 ルーヴェが萎れた花のようにうな垂れた。


「いや、いい。あれ以上時間を掛けてもいられなかった」


「?」


 首をかしげるサギを立ち上がらせ、告げる。


「街に戻った時、忍者に嘘の命令を伝えた。一位――さっきの女より偉い人間が三位を呼んでいる、ってな」


 ――『四カ国会談』。

 三位の護衛が口走ったいかにも重大そうな言葉を俺は覚えていた。

 そして三位が行く手に立ち塞がる可能性が低くないことも予見していた。

 だから一位の名を借りた。

 万が一戦闘になった場合、三位を止める方法が他にないからだ。


 後で謝罪する必要はあるだろうが、一位も三位の扱いには困り果てていると聞いたことがある。

 今からやることに比べれば、許されないというほどのことはないだろう。


「たて、やっぱりあった方がよかった?」


「いや、無くて正解だ。あったら三位はさっきの忍者のことを疑ってる」


 二人の馬はもう使いものにならない。

 だが幸い俺の馬はまだ生きている。

 俺はそれに乗ろうとし、足をふらつかせる。


「ワカ」


 ルーヴェが素早く俺を支える。

 疲労と戦いの余熱で視界が歪み始めていた。

 だが止まるわけにはいかない。


「急ぐぞ」


 もう何も、俺たちを遮るものはない。






 だが、タネハルの屋敷はもぬけの殻だった。






 否、正確には違う。

 数名の丁稚でっちが残り、廊下に雑巾をかけていた。


「おい! あるじはどこだ!!」


 俺は丁稚の首を締め上げたが、子供はぶんぶんと激しく首を振るばかりだった。

 彼が自らの口を示し、喉を示すのを見て俺は手を離す。


(口が利けないのか……!)


 屋敷に土足で踏み込むも、護衛はおろか家人の姿もない。

 茶を出してくれた女の姿も見えない。

 もしかすると女中ではなく助手の類だったのか。


 俺は襖を破り、卓をひっくり返し、鍋の蓋を開け、タネハルの名を呼んだ。

 障子を蹴り倒し、畳をめくり、天井板を引き剥がし、叫んだ。

 怒号は辺りに響き渡ったが、応じる者はいない。


 はっ、はっ、と。

 犬のような息を吐きながら街路へ出る。


 夕陽を浴びた道は浅く、乾いている。

 足跡などという気の利いたものは残っていない。


 細く伸びる道は途中で幾条にも分かれ、葦原の山々に吸い込まれていた。

 どの道へ進めば良いのか、見当もつかない。 

 

「ルーヴェ!」


 水を向けるが、彼女は首を振った。

 どこか、悲しげに。


「におい、しない」


 干からびた柿色の道を子供たちが駆けていく。

 彼らの持つ赤い風車が、からからと回った。






 俺が大囚獄司だいしゅうごくしに追いついたのは、彼の屋敷を出て二日ほどが過ぎた頃だった。






 ちょうどひと仕事終えたばかりのタネハルは、俺の姿を認めるや眉を上げた。

 蝋燭の炎に照らされた肌は青白く、広い額に汗が浮いている。


「やぁ。これは……ワカツ九位」


 声は相変わらず穏やかだったが、活力が薄れているように感じた。

 もっとも、声も出せない程疲弊した俺とは比べるべくもない。


 潰れた馬を引きずり回し、新たな継馬を何度も買った。

 靴底が破れ、裂けた唇が真っ赤に染まっていた。

 爪はひび割れ、手足の節々が痛む。

 開きっぱなしで乾いた眼球からは滂沱ぼうだの涙が溢れている。


 助けてくれる者はいなかった。

 俺は貴人に楯突く問題児であり、十弓のみならず太刀衆や忍者からも距離を置かれている。

 舞狐はまだ戻っていない。トヨチカ達はどこにいるのか見当もつかない。

 頼れるのは自分だけだった。

 ――いや、違う。

 普段の素行の悪さが、ここに来て俺の首を絞めた。


 草の根を分け、この男を探した。

 大して広くもない葦原中を駆けずり回った。


 ここに来るまでに、ルーヴェが力尽きた。

 ここに来るまでに、サギまでもが膝を折った。

 俺だけだ。

 俺だけが、最後まで走り続けた。


 だが――――


「何か用ですか。話なら明日の朝にしてもらいたいんですけどね」


 タネハルは割烹着らしき衣に身を包んでいた。

 泥でも跳ねたように真っ赤な血が付着している。


「やっぱりね、胸が痛みますよ」


 彼は三角巾を外し、口元を覆う白布を外した。

 そして血の付いた指先を布で拭っている。


「けどまあ、仕事ですからね。本当に申し訳ない。申し訳ないが……やるしかないんですよね、粛々と」


 俺の喉から呻きと思しきものが漏れた。

 タネハルは親指で後方の戸を示した。


「見ます? あれこれ試して綺麗にバラしたから……首ぐらいしか残ってませんが」


 俺の腕は上がらなかった。

 もうそんな力すら残っていない。


 首を傾げたタネハルはそれを肯定と受け取ったらしく、無造作に戸を引いた。


 むわりと血が、脂が臭った。

 畳ほどの大きさの板に、真っ黒な布が被せられている。


 室内の各所には桶が置かれており、大小様々な肉片や臓物が蝋燭の光を照り返している。

 書記官と思しき男たちが筆を走らせており、絵を描いているものもいた。

 散らばった緑の鱗のいくつかが、光を跳ね返している。


 よろよろと歩き出した俺の視線は、白布を被せられた頭部に吸い寄せられた。

 頭部は球状だが、胴体部分は平たい。

 ――平たい。


「触らないでくださいよ。頭の解剖は慎重にやりたいんでね」


 筆の走る音は虫の這い回る音にも聞こえた。

 息が、冷たく感じる。

 まともに受け止めれば気が触れてしまうであろう、濁流のごとき感情が胸にせり上がってきていた。


 こわばっていた腕がようやく動いた。

 指先がぎこちなく動き、顔にかぶさる布を摘まむ。


「本当、厭な気分でしたよ」


 布を取った瞬間、タネハルの言葉が背に届いた。






「そんなばばあを解体するのは」

 





 そこにあったのは、目を閉じた白髪の老婆の頭だった。

 虚を突かれた俺は十数秒、完全に呼吸と思考を止める。


 タネハルは俺の横に並び、老婆と俺を見比べた。


「まあ、確かに『完全な恐竜人類』ですけどね? 何で婆の、それも死体なんか寄こしたんです?」


「……」


 壁に釘刺しされていた紙がはらりと揺れる。


「確かに三位の書類には『外見が人間換算で何歳ぐらいか』なんて項目は無いみたいですね。まあ魚や鳥用の書類だからそりゃそうですが。……若干腐敗が進んでるのも移送中に死んだことにすりゃ、それで通らん話じゃないですが」


 タネハルは申し訳なさそうに、しかし迷惑そうに告げた。

 周囲には聞き取れないほどの小さな声で。


「役目の半分しか果たせなかったじゃないですか。搾り取れるはずだった情報、どうするおつもりです?」


 俺の口がぱくぱくと動いた。

 自分以外の誰かが話しているようにも感じた。


「……はあ、そうですか。ま、最終的にお国のためになるんなら、私はどっちでもいいんですがね」


 タネハルは腑分け場を出、卓に乗った湯呑で口をゆすいでいた。

 べっと白湯が床を叩く。


「しかし、あのザムジャハルのお嬢さん、キンキンうるさくてかないませんよ。勘弁してくれませんかね、ああいうの寄こすのは」


「……?!」


「その婆さん連れて来た女の子ですよ。白い花みたいな恰好の」


 言われ、老婆の顔をじっと見る。

 脳裏にブアンプラーナの風景が浮かぶ。

 あの緑色に濁った沼の匂いすら漂うようだった。


 あの時、俺たちが殺した恐竜人類の老婆だ。


「育て方間違えると娘もああなるんじゃないかって思うと気が気でなり――九位?」


 俺はその場を飛び出していた。




 屋敷へ戻るのに要した時間は僅かだった。

 だがタネハルを探し回った二日間より、はるかに長く感じられた。

 



 りり、りり、と。鈴虫が鳴いていた。

 宵闇に沈んだ池の水面を鯉が泳ぐ。


 縁側に腰かけたナナミィは池に映る月を見つめ、茶を飲んでいた。

 眩しいほどの月光が彼女を濡れた花のように見せる。


「あら。おかえり」


「……ッ」


 言葉を発しようとして、激しく咳き込んだ。

 両膝を折り、ぼたぼたと垂れる汗を見る。

 びっしょりと全身が濡れていることに気付き、夜風の冷たさに気付く。

 いろいろなことを忘れたまま、俺は走り続けていたらしい。


「ちょっと大丈夫? ……。……うわ、汗臭い……」


 後ずさるナナミィのドレスの裾をつかむ。


 何をした。

 そんな言葉が喉から漏れた。


「……。ああ、アレのこと? だってもったいないでしょ。あのハゲ、国を追われちゃったんだから死体なんて持ってても仕方ないでしょうし」


「……」


「試しに聞いてみたら「むざむざあの国に渡すぐらいなら」って言ってくれたから、これ借りたの。王家の指輪なんですって」


 彼女の指には紫色の石を嵌めた指輪が光っていた。

 人差し指と中指を繋ぐ形状で、拘束具にも似ている。

 宝石は蓮を模していた。


「……私はずっと仮面かぶってたからあっちの国の連中に人相が割れてないの。国境を抜けるのはそんなに難しくない。あとは簡単。あの悪目立ちする『爪爪野郎』とお爺ちゃんを探して、死体の保管場所を聞き出すだけ」


 ずず、と茶を啜ったナナミィは熱かったのか、ぺっぺと舌を出した。

 

 その指は傷だらけで、よく見るとドレスにも切り傷やほつれが散見された。

 『あとは簡単』の一言にまとめられた様々な苦難を省略し、彼女は呟く。


「あの干し椎茸みたいな男に、恐竜人類を渡せばいいんでしょ?」


 なぜ彼女がそれを知っているのか。

 俺は目で問うたが、彼女は首を振る。


「どうやって知ったかは内緒」


(……)


 俺とタネハルの会話が盗み聞きされていたとは思えない。

 という事は、奴が自発的に話したということだろうか。


 いや、あの口の堅そうなタネハルがザムジャハル人相手にぺらぺら話すとは思えない。

 となると俺と同じか、それ以上の地位にある人間か。

 可能性があるとすれば「あっあー」


 ナナミィが手で俺を制した。


「名前は伏せる約束なの。それ以上は忘れてあげて」


(――――)


 伏せるも何も、条件を満たしているのは一人しかいない。

 庭に手紙つきの石を投げ込んだのもあいつか。


 思うところは色々あったが、ひとまず忘れることにした。

 奴が忘れろと言うのなら、俺は忘れるだけだ。

 それより、今はナナミィだ。


「……何でだ」


 問いに、彼女は少し間を置いた。


「お礼」


「……俺はお前に何も……してない」


「してくれたじゃない。川で助けてくれたでしょ?」


 思い出す。

 確かに俺はブアンプラーナで一度、彼女を背負った。

 泳げないと騒ぐ彼女を背負い、浅い川を渡った。


 ただそれだけのことでか。

 ただそれだけのことで――


「借りは借りでしょ。勝手に貸し倒そうとしないで」


「……あの「あー! あー!」


 ナナミィはぶんぶんと手を振った。


「いいから早く会いに行ってあげたら?」


 俺は言葉を呑み込み、彼女の元を去った。

 申し訳なさを感じながら。






 彼女は、俺の屋敷の座敷牢にいた。


 木組みの格子の向こうで、藍色の布地に白い細雪ささめゆきの柄を入れた着物姿。

 結っていた山吹色の髪はほどかれ、肩に乗っている。

 正座というものを知らないせいか、戸惑ったように足を崩している。

 帯を緩めているせいで、白い脚が膝の辺りまで覗いていた。


「!」


 俺に気付くと、彼女は顔を上げた。

 困惑と羞恥の混じる表情を見せた彼女は、ついと目を逸らす。


「……」


「……」

 

 格子戸を開いた俺はブーツを脱ぎ、畳を踏んで近づいた。

 細い手首を掴み、立ち上がらせる。

 思っていた以上に、彼女は軽い。


「――――」


 危険な状況に陥らせてしまったことへの、詫び。

 受けて来た恩義への、謝意。


 立ちはだかった三位のこと。

 迷惑を掛けてしまったタネハルのこと。

 尽力してくれたサギやルーヴェのこと。

 衝突し、協力したウズサダのこと。 

 トロオや首長竜との戦い。

 ナナミィの振る舞いを茶化す言葉。

 セルディナやミョウガヤの助力を得たことに対する、幾つかの愚痴。


 肺腑から喉のあたりで、毛玉が絡むように言葉がもつれた。

 ようやく出て来たのは、まったく別の言葉だった。

 

「……ワカツだ」


「?」


「俺の名前はワカツだ」


 彼女は、少しためらった。

 そして秘密を打ち明けるように、唇を動かす。


「……ベルシェアリーゼ」


「……」


「『シア』です」


 殻を剥かれた貝のごとく彼女は身じろぎした。

 そして俺の反応を窺うように呟く。


「はじめ……まして」


「ああ」


 俺たちはようやく出逢った。











 彼女は――ベルシェアリーゼは無事だった。


 書類の上では「解剖済み」となるため顛末を知った三位が追跡することもできない。

 サギの存在が大貫衆以外に露見することもなかった。

 国三位の弓取りと戦いながら、ルーヴェも傷を負わなかった。

 俺が罪人の誹りを受けることもおそらく、ない。


 これからサギとシアの両方から情報を聞き、葦原に還元する。

 他国を出し抜くこともできるし、恐竜との戦いを有利に進めることもできるだろう。

 タネハルへの義理も果たすことができる。


 望んだ結末のはずだった。

 だが俺の頬には、苦い涙が流れていた。


 蛇の矢。

 獺祭。

 九位の称号。


 俺は、自分が思っていたほどの男ではなかった。

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