第55話 50

 

「こりゃ、どういうことですかねぇ」


 巣穴から這い出すように、薄暗い廊下の奥からアブラオが現れた。

 痩躯の大貫衆は紺色の股引ももひきに細いもりを吊るしている。

 いたちに似た顔には困惑混じりの軽い笑み。


「トロオはどうした」


 反射的に言葉を放る。


「とっくに逃げましたよぅ。兵糧攻めが割に合わねえことぐらい分かるんでしょうなぁ」


 そんなことより、とアブラオは下世話な調子を繕った。


「九位。九位、九位、九位ィ……」


 一歩。

 二歩。

 機嫌の良い猫を思わせる足取り。

 うっかりするとそのまま近づけてしまいそうだったが――ルーヴェが素早く前へ出た。

 足を止めたアブラオは顎に手を添え、首を傾げる。


「鳥女を見つけられたのは喜ばしいことですがね? な~んでそいつ、普通に生きてるんですかねぇ」


 奴の目は俺とルーヴェを通り過ぎ、後方のサギへと向けられていた。

 外衣の袖から見え隠れする恐竜の手が見えたのだろう。


「あの凄ぇ毒はどうし「しゅりけん、しまって」」


 矢庭にルーヴェが言葉を挟む。

 アブラオはひょいと眉を上げ、頭をぼりぼりと掻いた。


「へい?」


「……。次、だしたらころす」


「っへへ。こりゃただの楊枝ようじですよぅ」


 俺には何が起きたのか分からなかったが、今の一瞬でアブラオは隠し持っていた武具をしまったらしい。

 男は手を目の上に当て、俺の様子をじっと探る。


「で、どうされたんですかね、九位。戦った形跡も無さそうですが?」


「……取引をした」


「ほお、取引!」


 アブラオはぺしんと自らの腿を叩いた。


「何をどうやったんですかい? 指の一本も喰わせたんですか? まさかあたしらを売ったわけじゃありやせんよね?」


 少し考え――嘘は言わないことにした。


「こいつの家族を助ける。……子供だ」


「へえ」


「済んだらこいつを殺す。搾り取れるだけのことは搾り取ってからな」


「へえ、へえ」


「……」


「……。……え?! 終わり?! 子供は?」


「逃がす」


 ふぶっと唾の飛沫が床に散る。


「ぷっはは! 面白ぇ冗談だ。人食いの化け物でしょうに」


「私の子供たちは人間を食べることはありません」


 サギが前へ出ると、アブラオが視線を横に滑らせた。

 ほんの一瞬、奴は笑みを引っ込めた。

 ねっとりした視線が恐竜人類の爪先から顔を這う。


「……九位はそんな寝言に耳を貸したんですかい?」


「寝言かどうか、今の時点では判断できない」


「するまでもねえ」


「お前は『するまでもなく』ても、俺はそれをやらなきゃならない。指揮官だからな」


 意思疎通を図ることのできる相手が救いを求めているのだ。寝言の一言で切って捨てるのは短絡過ぎる。

 一兵ならともかく、俺は『十弓』だ。

 ただ弓を射、敵を殺すだけでは務まらない。


「人食いですぜ」


「だが言葉が通じる」


 それに――――


「女はともかく、戦う意思の無い子供まで殺すことはできない」


いくさみてえなことをおっしゃる」


「戦だろうが」


「『駆除』ですよ」


「……」


 アブラオは肩をすくめた。


「基準を間違えられちゃ困りますなぁ。俺らの相手はカルカロやティラノみてえな言葉の通じない畜生がおもで、トロオやそいつらは変種だ。そいつらを基準にするといくさになるでしょうが、ちゃあんと全体を見りゃ『駆除』で間違いねえでしょう?」


「大貫衆はそう考えてるのか」


「普通はそう考えますよ。弓衆も、太刀衆もおんなじだ」


「そうか。じゃあ――」


 歯を剥く。


「俺がその考えに逆らうのは自然なことだよな?」


「へ?」


「俺は偉い奴が正しいと思うことは嫌いなんだ」


「……」


 アブラオはしばし呆然とした後、憐れみと呆れの混じった笑みを浮かべた。

 顔を伏せ、ぼりぼりと頭を掻く。


「はー。おやさしいことですなぁ」


 侮蔑の言葉だということは理解できた。

 自分が情に流されている自覚もある。

 だが、情に流された先に必ずしも悪い結果が待っているとは限らない。


 出会い頭にサギを殺していれば子供達は死に、恐竜人類の絶対数は減っただろう。

 俺も早々に葦原へ引き返し、彼女を解放することができたはずだ。

 だがその場合、『情報』が手に入らない。

 一方、このままサギに手を貸せば、彼女の身柄と恐竜人類に関する情報の両方が手に入る。

 確かに子供を野放しにすることで不利益は生じるだろう。だがサギの持つ情報はその不利益を鼻で笑えるほどの恩恵をもたらすはずだ。


 ただ情に流されているわけではない。

 俺は国の為になることをやっている。

 自分の行いに理由が追いついたところで顔を上げる。


「何か文句があるのか?」


「とんでもねえ。十弓の判断だ。あたしなんかが口を挟むことじゃありませんよ」


 それに、とアブラオが嫌らしい笑みを浮かべた。


「九位の考えてる事、何となく分かりますからねぇ」


「……?」


「あーいや! 言わなくていいです、言わなくて。っへへ」


 妙な納得の仕方だった。

 だが俺の行動を見咎めないのならそれでいい。


「ウズサダに言うか?」


「ええ。そりゃもちろん」


「そうか。じゃあ言えばいい。だが「取り決めを忘れるな」とも伝えとけ」


「……。ああ、そうでしたね。あたしら、九位のお邪魔はできねえんでした」


 大貫衆は俺が殺した恐竜の体と、その功績すべてを引き取る。

 俺は恐竜人類の身柄を預かる。

 この約束を交わした以上、彼らは俺の邪魔をすることはできない。


「っへへ。じゃ、お手並み拝見と行きますかね」


 踵を返したアブラオはべたんべたんというわざとらしい足音を残し、消えた。

 差し込む曙光が強さを増し、窓枠の向こうで鳥が囀り始める。


「ワカツさん」


 サギ――『さぎの黒いやわい哀しいはね』が手を縛る鎖を鳴らした。


「あの……」


「黙ってろ。行くぞ」


 もう決めたことだ。

 助けると言ったからには助ける。


 縄と鎖を集め、頭蓋骨を被り、砦を出る。






 朝の光がこんなにも不吉に感じられたのは初めてだった。


 鬱蒼とした森には大型恐竜のものと思しき足跡が点々と残っている。

 熊並みに大きな恐竜が昆虫の気安さでそこら中を歩き回り、見上げるほど巨大な首長竜が悠然と視界を横切る。

 見たこともない四足獣が湿った土に鼻を突っ込み、大きな駝鳥が媚竜に似た恐竜に追い回されている。

 自分たちの小ささを思い知りながら、俺たちは森の中を静かに駆けた。


 一つだけ失念していたことがあった。距離だ。

 俺はあの時、暴れるティラノに引きずられて冒涜大陸へ踏み入った。

 今回は徒歩。森を横断するのに予想以上の時間を費やしている。


 踏み入れば踏み入るほどに森は深く、終わりが見えない。

 それでいて恐竜は無尽蔵に湧き出す。

 距離の方はどうしようもないが、恐竜の方は対処法があった。


「ティラノ、いる」


「……こちらへ」


 ルーヴェが探知し、サギが俺たちを安全な場所へ誘導する。

 サギの誘導は的確で、大型恐竜の多くは俺たちを発見することなく通り過ぎて行った。

 一部は俺たちに襲い掛かろうとしたが、サギが立ち塞がると尾を丸めた犬のごとく逃げ出した。

 本能的に、恐竜人類の方が『上』だと察しているのだろう。


 足が重くなるほど歩いたところで、ルーヴェがぴくりと反応した。


「みずのにおい」


 言葉の通り、俺の踏む土は水を含んだ柔らかいものに変わっていた。

 進む毎にむっとするほどの匂いが立ち込め、木々の種類も変わっていく。


 霧の晴れた森を進む度、さらさらというせせらぎが近づいてくる。

 流水が岩で砕け、泡が割れる音。

 蛙が落ち、葉が浮き沈み、魚が跳ねる音。

 鴨顔の大きな恐竜が濡れたままの身を引きずり、目の前を通り過ぎた。


 激しい雨を思わせる音が近づく。

 滝だ。


 視界が開け、冒涜大陸の雄大な景色が目に飛び込んできた。


 この景色を見るのは初めてではない。

 だが初めて見た時と同じ衝撃が俺を打ちのめした。


 唐。ブランプラーナ。

 いずれ劣らぬ大国だが、そのどちらで見たものよりも広い空が世界の果てまで続いている。

 遥か彼方まで続く朝の青は山々の向こうで地上の景色と交わる。


 見下ろせば小指ほどの大きさのティラノやアロが草地を走り回っていた。

 ラプトルの群れは羽虫ほどにしか見えず、川を往く巨大な鰐は小魚ほどの大きさにしか見えない。


 眼前に広がる滝は、驚くほど巨大だった。

 少し首を巡らせば大地が裂け、赤黒い地肌を晒している。

 この辺り一帯の土地が湯船の縁のように寸断され、大量の水が流れ込んでいるらしい。


 川の水は白い奔流となって岸壁を離れ、遥か下方に見える別の川へ注がれている。

 白布のごとく水が広がっている場所もあれば、竹筒を流れるように細く、激しく注ぎ込む場所もあった。

 滝壺からは濃い水煙がもうもうと舞い上がっている。


 俺と彼女はここから落ちた。

 ――よく、無事だったと思う。


「ここです」


 サギは俺とルーヴェを押しとどめた。

 黒土に覆われた森の果ては、角が欠けるようにして地面が崩落している。

 大樹が傾き、木の根やそれに絡むにならしきものが露わになっていた。

 雪庇せっぴが崩れたような状況なのだろう。


 冒涜大陸と俺たちの土地は五感を狂わす『霧』で遮られていた。

 今立っているこの辺りはまさにその霧に覆われていた場所、つまり恐竜の行き来が一切無かった土地だ。

 巨大な首長竜やカルカロのような巨竜が踏み込めば、小規模の地滑りや崖崩れが起きることもあるだろう。


「ここです! 見えますか……?!」


 いつの間にか崖のぎりぎりまで近づいていたサギの肩を慌てて掴む。


「落ちるぞ! 下がってろ!」


 引き戻し、鼻に指を突き付ける。


「今死なれると困るんだよ。大人しくしてろ!」


「は、はい……!」


「ワカ。いるよ」


 ルーヴェは滝を覗き込みもしていなかった。

 膨らんだ忍び装束の大腿部が噴き上がる風でバタバタと暴れている。


「ろくにん」


「恐竜人類か?」


「うん。こども。……血の匂い、する」


 俺は大地の縁を迂回し、崖に突き出した小さな岩場を認める。

 ちょうど人間の手の平に似た形で突き出した岩場は、人差し指、中指、薬指の三本を流れ落ちる滝に削り落とされている。

 子供たちは偶然にも親指の根本付近に落ちたらしい。そこだけ黒い泥と、赤い血が付着していた。

 姿が見えないのは岸壁に大穴が開いているからだろう。

 水に濡れて体力を消耗しないよう、サギが誘導したに違いない。


 頂上からの距離は――かなり遠い。

 落ちたのが恐竜人類でなく人間の子供なら、よほどの幸運に恵まれない限り即死だろう。


「ルーヴェ。跳べるか?」


「むり。足、折れる」


「サギ」


「私は飛べますが、戻る方法がありません」


 仮に戻れたとしても、一度に抱えることができるのは一人だろう。

 一人ずつ救出していたら、頂上に残した子供を狙う肉食恐竜が近寄ってきてしまう。

 怪我をしている子供もいるため、綱を垂らしただけで助けることはできない。


 状況は完全に把握した。

 問題はどう動くかだ。


「縄を垂らしてください。私が降ります」


「その間にティラノが寄ってきたら俺たちは迎撃しなきゃならない。縄を引き上げられなくなる」


「あ」


「お前はここにいろ。行くのは俺かルーヴェだ」


 じっと目を凝らすと、岩場には隆起が見られた。

 山襞やまひだのように見えるそれは西瓜すいかの筋のごとく岸壁を縦横に走っている。

 一部は子供たちが落ちた岩場にも続いていた。

 あそこに降りることができれば無理なく救出に向かえるだろう。


「ワカ。私、いく?」


「いや……」


 身軽さを考えればルーヴェを向かわせるのが正しい。

 だが彼女とて一度に多数の人間を運ぶことはできない。俺に比べて膂力に優れているわけでもない。

 つまり『降りる側』がどちらであれ、結果はほとんど変わらない。


 では『残る側』になった場合はどうか。

 俺が残れば、『獺祭』で巨竜を迎撃しやすくなる。

 ルーヴェが残れば、巨竜が近づく気配を察知しやすくなる。

 岩場に降りた側の身に何か起きた場合、俺は気付けないが、ルーヴェなら気づける。


「ルーヴェ。ここにいろ。俺が行く」


 大量の縄と鎖を担ぐ。

 砦からかき集めた縄と鎖には統一性がなく、先端が輪状になっているものや鉤がついているものもある。

 俺はその中で最も長く丈夫な鎖をルーヴェに渡した。


「用がある時は紐を引く。二回引いたら『引き揚げろ』。三回は『逃げろ』。四回は『助けろ』だ」


「わかった。わたしもそれする」


 僅かな打ち合わせの後、ルーヴェは大樹に鎖を引っかけた。

 そして絶好の場所を見極める釣り師のごとく、岸壁に鎖を垂らす。


 弓と縄束を背負い、両手で鎖を握る。

 一番太い鎖を持って来たのだが、それでも細く、頼りない。

 それに――


「鎖も岸壁も濡れます。気を付けて」


「言われなくても分かってる」


 そろそろと崖を降りる。

 初めは堂々と降りることができたが、体重を乗せる足場が減るにつれ、手に汗が滲んだ。

 すぐそこにあると思っていた岩の襞が、ひどく遠くに感じられる。


 滝は一秒たりとも止まらず、速度を緩めることもない。

 霧となった水の粒が頬を濡らし、首を濡らし、鎖を握る手を濡らす。

 気を抜けば背中から滝壺へ吸い込まれてしまいそうだ。


「ッ!?」


 ずるりと靴底が滑った。

 藻か、それとも鳥の糞か。


 びん、と鎖が伸び切る。

 行き場を失い、足が泳ぐ。

 全身の血が冷え、心臓までもが恐怖に竦む。


 混乱のあまり視界が赤く明滅していた。


 こんなことをするべきではない。

 鎖一本で命を支え、滝壺に降りるなんて馬鹿げている。

 ルーヴェかサギに任せ、自分は上で待機すべきだ。

 もしくは今すぐサギを殺して――


(――――!)


 暗い檻に捕らわれた彼女の姿が思い浮かぶ。


 助けたい。

 その感情も、もちろんあった。

 だがそれ以上に、俺は怒りを感じていた。

 俺を騙し、俺を救い、真意を明かさないまま逃げ切るような死に方をすることは許さない。


 怒りが血を熱くする。

 思考は乱れたままだが、そもそも大して役に立たない頭だ。


 靴底が硬いものに触れる。

 岩襞だ。

 しっかりと踏みしめ、体重を乗せる。


 一歩。

 また一歩。

 ゆっくりと崖を降り、幅広の襞に着地する。


 壁に沿って歩き、滝裏の岩場に到着する。

 ほっと息を吐くと、冷たい滝の飛沫が肺に滑り込んだ。


(――――)


 御簾みすのように白い滝。

 その向こうには突き抜けるような青空と朝の陽ざし。

 茶褐色の壁にはところどころ白い花が咲いている。

 ここは葦原と冒涜大陸の境界付近だが、まるで別世界のようだ。 


 くいくい、と鎖が二度引っ張られる。

 意味は『引き揚げろ』。

 つまり、早くやれとルーヴェが急かしているのだ。


 岩場は縦横十数歩ほどの広さしかなく、子供達が身を隠す場所はない。

 あるのは岸壁にぽっかりと開いた大穴だけだ。

 俺はそこを覗き込む。


「……おい! 誰かいないか!」


 声が内部で反響した。


「サギの仲間だ! 出て来い!」


 穴は思った以上に深く、洞窟のようだった。

 内壁に手をやると、ごつごつした貝の感触。

 どこの土地でも生命力の強い生き物はよく繁殖するのだろう。


 俺はもう一度声を上げる。


「助けに来たぞ! 出て来い!」


 もそもそと穴の奥から姿を見せたのは、まぎれもなく恐竜人類の子供達だった。


 手足は緑の鱗に覆われた長い爪。

 瞳はどれも緑で、背から腕にかけて緑の羽が生え揃う。

 髪は栗色、黒、砂色、金に近い橙色、黄土色、赤茶色。

 雄もいれば雌もいる。

 いや、『男もいれば女もいる』か。


(……)


 子供とは言え、アキやヨルと同じ恐竜人類が六人。

 眩暈めまいを覚えるような光景だった。


「出ろ。助ける」


 小さな子供たちは目を輝かせていたが、年長の子供達は俺を警戒しているようだ。

 年長といっても十歳かそこらだ。まだまともに分別もつかない年だろう。

 よく見ると全員、緑の羽に黒いものが混じっていた。これがサギの言っていた『不吉な黒羽』だろう。


「何してる。早く出ろ」


「おかあさんは……?」


「上だ」


「しょうこ」


「あん?」


「しょうこをだして」


 俺は一番前に出た砂色の髪の少女をじっと見た。


「……。お前は『麦の黄色い淡いかぐわしい粒』」


「!」


「そっちのお前は――」


 俺はサギに告げられた特徴を思い出しながら、一人一人の名を呼んだ。

 うりの赤い何某、雲の白い何某、といった舌を噛みそうな名を六人分。

 名を呼ばれた子供たちは一様に顔を輝かせ、互いを見た。


「おかあさん!」

「おかあさんだ!」


「分かったらさっさと来い。時間が無――」




 ルォォォン、と。

 聞き慣れない声が響いた。




 子供たちが悲鳴を上げ、互いの身を抱く。

 俺は滝を振り返り、水の膜の向こうにおかしな生物がいないことを確認する。


「急げ。血の匂いを嗅ぎつけられる」


 濡れた岸壁だ。

 そう多くの生き物が這い上がれるとは思えない。

 だがここは冒涜大陸。俺の常識で物を測れば死が待っている。


「あのね? けがをしてる子がいるの!」


 利発そうな女の子が言う。


「何人だ」


「三人!」


 恐竜の指を突き付けられ、ぎょっとする。

 鱗に覆われた太い指のうち、三本が立っていた。


「俺が運ぶ。……手を出せ」


 子供たちの手は甲側がすべすべした鱗に覆われており、手の平側は人間のそれとほぼ同じだった。

 吸着する繊毛も無ければ、小さな鉤もついていない。


(……)


 鎖にしがみつかせるのは危険だ。

 巻き付け、縛り付け、ぎちぎちに固定した状態でルーヴェに引き揚げさせるのが無難だろう。

 二人以上を同時に運ぶのも諦めた方がいい。

 もしどちらかが下を見た場合、暴れて収拾がつかなくなる。


 きゃっと少女が悲鳴を漏らし、手を引っ込めた。


「どうし――」


 じゃ、じゃりりり、と。

 後方で嫌な音が聞こえた。

 振り向く。




 薄紫色の矮躯。目の上に長い睫毛。

 ラプトルに近い姿を持つ、犬ほどの大きさの恐竜。


 トロオだ。

 数は――十。いや、十二。

 いつの間にか岩場の縁に奴らの群れが到着している。




 盗賊を思わせる恐竜はつぶらな瞳で俺を見つめ、キキっと小さく鳴いた。


(野郎……!)


 ここでか。

 ここでやる気か。


 この不安定な足場。

 下手をすれば自分達も滑落するだろうに。


(いや――)


 この場所『だからこそ』だ。

 俺の武器が狭い場所での戦闘に適していないと判断しての行動だろう。

 毒矢を咥えて人間に襲い掛かるような連中だ。それぐらいの知恵が回っても不思議はない。


 だが今、奴らの口にやじりは無い。

 つまり、怯える理由も無い。

 俺は縄束とルーヴェの鎖を穴へ放り、うつぼに手をやった。


「お前たち! 中に入って――」


 キアアアア、と。

 絹を引き裂く男女の悲鳴が響いた。

 振り向くと、見たこともない恐竜が立っていた。




 細長い三角帽子を思わせる、奇妙な頭部を持つ生物だった。

 ブアンプラーナで出会ったものと同じく、鳥と蝙蝠こうもりの中間のような姿をしている。

 色は茶褐色で、目は小さい。胴体はやや華奢だ。

 大きな翼膜は水に濡れており、長い嘴は血に濡れていた。




 後足二本で立つ怪鳥は目線が俺と同じ高さにあった。

 左右の翼を広げれば俺の視界を完全に塞ぐこともできるだろう。


 コロ、コロロ、と。

 妙に愛嬌のある鳴き声が発せられた。

 だが目つきで分かる。

 こいつは俺という生物に興味を持っているのではなく、俺の肉に興味を持っている。


「『獺祭』」


 ひゅぱっと弦が鳴る。

 この巨大な怪鳥は矢を防ぐ鱗も、矢をかわす俊敏性も持ち合わせていない。

 その胴に鏃が食い込むと怪鳥はよろめき、そのまま滝の向こうへ消えた。


「おにいちゃん! たすけて!」


「もう助けた。きゃんきゃん喚くな」


 滝の向こうを黒い影が過ぎるのが見えた。


「!」


 どうやら他にもいるようだ。

 数は少なくとも二十を超えている。

 滞空時間はかなり長く、『飛行』と呼んで差し支えない動きをするらしい。


 水の帳を破り、更に二体の怪鳥が姿を見せる。

 翼が広げられ、コロロッ、コロロ、とじゃれつくような声が響く。


 その時にはもう、俺の弓が唸り声を上げている。


「邪魔だ」


 矢が怪鳥の胴に突き刺さる。


 毒、およびその耐性は生物によって様々だ。

 クラゲの毒が効かない亀がおり、蠍の毒が効かない鳥もいる。

 だが今のところ、『獺祭』を喰らって生き延びた生物はいない。

 俺は弱いが、俺の毒は無敵だ。


 怪鳥が寿命を迎えた蝉のごとくばたばたと倒れる。

 歩き出していたためか、二体とも前のめりに倒れた。


「お前らはそこにいろ。矢に触るなよ」


 言いながら、ちらと後方を見る。

 トロオはコンピーほど虚弱ではない。

 一斉に襲い掛かられたらさすがに――


「……?」


 トロオ達は岩場を去り、少し離れた岩襞に集まっていた。


 十数匹の恐竜はじっと俺を見つめ、やがて首を巡らせた。

 キイ、キキィ、という親鳥を求める雛のごとき声。

 その声を聞きつけたかのように、怪鳥が飛来する。


 ざぶ、ざぶ、と水の膜が破られる。


「……」


 数を恃む気らしい。

 だが、無駄だ。


 俺は弓兵だ。

 靭の矢が尽きれば戦う術は無いと思われがちだが、葦原の弓兵は違う。

 逆巻さかまきを初めとする走法によって、俺たちは戦地に散らばる矢を集めながら戦うこともできる。

 この狭い岩場で斃れた怪鳥は犠牲者であると同時に『矢筒』だ。

 いざとなれば奴らに突き刺さった『獺祭』たっぷりの矢を引き抜き、それを振るって戦えばいい。


 弦が歓喜と共に鳴る。


 一体。

 二体。

 三体。


 怪鳥の死体が岩場に積み上がる。

 時折、空中の怪鳥がぎゃっと悲鳴を上げている。

 ルーヴェが手裏剣を投げているのだろう。


 四体。

 五体。

 六体。


 血が岩場を濡らす。

 劣勢であるというのに、トロオ達はなおもキイキイと鳴いている。


 七体。

 八体。

 九――




 みしり、と。

 足場が軋んだ。



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