第52話 47

 

 人間一人を殺すのに必要な毒はごく僅かだ。


 草木のひと噛み。

 河豚ふぐのひと切れ。

 蛇蝎だかつのひと刺し。

 世界中の毒を一か所に集めたら、人類は十度滅んでもまだ足りない。


 だから、「毒」を武器にするという行為は本質的に「加減」を前提としている。

 飲ませるにせよ刃に塗るにせよ、人間一人を殺すのに十分な質と量の毒があればいい。

 骨まで溶かすほどの酸は要らないし、全身の肉を腐らせるほどの毒も必要ない。――鶏を斬るために牛を斬る刀が必要とされないように。


 だが俺はそれらを求めた。

 人間一人を殺すという『最低限必要な役割を果たす毒』だけではなく、『人間を殺して余りある猛毒』についても学んだ。


 鯨や熊と戦うためではなかった。

 俺は弓を引く以外の生き方を知らない。

 弓を究めるか、毒を究めなければ、今より前へ、今より先へは進めなかった。

 葦原の秘伝書に加え、エーデルホルンの科学書やブアンプラーナの怪しげな書物にも目を通した。

 そして、造った。


 決して使わないだろうと思っていた毒がある。

 厳重に密閉し、製法を秘し、屋敷の奥深くにしまっておいた毒。

 一位も、三位も。

 義父すら知らない俺の毒。

 その毒を、今日の俺は鏃に塗った。






 夜の海を思わせる視界にぽつぽつと浮かぶ炎が揺れた。

 風のせいではない。

 巨竜の進軍に伴う震動が、そこかしこに設けられた松明を揺らしている。


 墨壺のような闇に、真っ赤なひれが浮かび上がった。

 よく見るとそれは鶏冠とさかを思わせる器官で、根元には禍々しい恐竜の顔があった。


 腐った柿色の胴を持つ恐竜がぬるりと闇から這い出す。

 一体、二体、三体。

 狡猾そうな顔といい、成人を越える体躯といい、盗竜ラプトルにそっくりだ。

 確か名前は『二枚鶏冠竜ディロフォ』。

 尾をしならせる恐竜は己の姿を誇示するかのごとくゆっくりと歩み、森を出た。

 その首は獲物を探すふくろうのさながら揺れていたが、やがて三頭同時に俺を見る。


 ロオオ、ゴロオオ、とげっぷに似た咆哮が響く。

 腹を空かせているのか、単に縄張り意識が強いのか、奴らは一直線に俺へ向かって走り出した。

 距離が百歩を切ったところで三頭は一度左右に跳ね、再び矢のごとく駆ける。

 途中には罠があるはずだが、どれも作動しない。

 位置を見破られているということだろうか。

 七十歩、五十歩と距離が縮む。


「――」


 俺は前へ出ようとしたルーヴェを手で制した。

 そして書家が筆を取るように、ゆるりとうつぼの矢を引き抜く。


 鏃の「透かし彫り」には水の膜を思わせる毒が張っていた。

 作法のためではなく、自分の指を傷つけないためにゆっくりと矢を番え、弦を引く。

 音が消え、匂いが消える。

 俺の世界に残るのは、矢羽を摘まむ手の感触と敵の姿だけ。


 きりり、と。

 音の消えた世界で弦が小さく軋る。


 先端の僅かな部分にしか刃を持たない、しいの実型のやじり

 その向こうに恐竜が見える。


 敵意を察知した三頭が左右に散らばる。

 太い筋肉に包まれた脚が地を蹴り、躍動する。

 散った土が雨となって地面を叩く。


 唇を結んだまま、肺腑の奥で呟く。




 ――『蛇の矢』。




 放たれた矢が弧を描いてはしる。

 木と羽で作られた蛇が、鱗を持つ本物の恐竜へ迫る。


 中空で大きく曲がる矢は三頭のディロフォを団子刺しにする軌道で飛んだ。

 一頭がのけ反り、二頭目が身を伏せ、三頭目が喉に直撃を受ける。

 側頭部に石でもぶつけられたかのように身を傾がせた一頭が猛り、吠えようとして口を開け――――そのままどっと横向きに倒れた。


 無事な二頭がたたらを踏んだ。

 五感のいずれかが鋭敏なのかも知れないし、仲間に生じた異変をいぶかる程度の知性があるのかも知れない。


 倒れ伏した恐竜は病人が呻くようにゆっくりと口を動かしていた。

 舌が垂れ、四肢が垂れている。その様は酩酊しきった男にも似ていた。


 喉に矢を受けたディロフォは、葉露が乾くようにそのまま息絶えた。


 その時にはもう、俺の手は新たな矢羽を摘まんでいる。

 きりりり、と。

 弦が軋る。


 尾を下げ、身を引き、威嚇の咆哮を上げる恐竜目がけて蛇の矢が飛ぶ。


 一射。団子刺しを恐れた二頭が飛び退いて回避する。

 二射。片方が肉の薄い頬を射貫かれる。

 三射。片方が目に矢を受ける。


 二頭それぞれに矢が刺さったことを確認し、俺は弓を下ろした。


 初めてラプトルに襲われた時、俺は『いつもの毒』しか携帯していなかった。

 『いつもの毒』は人間を殺すことを前提とした毒だ。

 結果的に仕留めはしたが、射貫かれたラプトルが毒の影響を受けるまでにずいぶん時間が掛かってしまった。

 今日の毒は違う。


 二頭のディロフォのうち頬を射貫かれた一頭は既に地に伏せており、もう片方も後を追うようにどおっと真横に倒れた。

 そこに苦悶は無い。

 血を吐くことも、塗炭の苦しみにのたうち回ることもない。

 この毒は射貫いた者の――――


(!)


 新手が闇から飛び出す。

 今度はディロフォではなく、ラプトルの亜種のようだった。

 四肢を突き出した浅緑の恐竜は着地するや否や、高らかに鳴いた。

 コカッ、カカッ、と嘲笑うように。


 奴らが駆け出すより早く、俺は矢を取る。

 正射必中などとは言わない。俺は美しく射るのではなく、射殺すために射る。

 弦が鳴る。


「『蛇の矢』」


 今度はその名を口にした。

 そして鏃に塗った毒の名を、下の句のごとく連ねる。




「――――『獺祭だっさい』」




 地面すれすれを飛んだ矢が浮き上がり、ラプトルの顎に突き刺さる。

 浅いが、十分だった。

 びん、と背骨が凍ったかのように全身を硬直させた恐竜が後方へよろりと倒れた。


 同胞の死を目の当たりにしたもう一頭が、右から来る矢をかわし、左から来る矢をかわす。

 俊敏さと狡猾さを備えるためか、その動きは人間のそれによく似ていた。

 俺の毒矢から逃げ惑った賊と同じ動き。

 賊と同じ程度の知能しかないのなら、同じ戦法が通用する。


 俺は二射続けて蛇の矢を放った直後、曲がらない矢を放った。

 ラプトルは正面から来る矢が左右どちらに曲がるのだろうと身構え――――身構えたまま鼻を射貫かれる。


 奴らにしてみれば蜂のひと刺しほどの一撃。

 小さく顔をのけ反らせたラプトルが頭を戻し――――ぼてんと崩れる。

 巨大な身体で四肢を敷いていたが、痛みに呻くことすらなかった。


 矢毒には様々な種類がある。

 筋肉に作用するもの、神経に作用するもの、臓腑に作用するもの、心臓に作用するもの。


 『獺祭』は筋肉と神経の両方に作用する。

 この毒が血中に入るとまず指先が動かなくなる。

 そこから半紙に水が染み込むように腕、足、肩、腿の順で肉体が動きをやめる。

 まるで「ちょっと休憩します」とでも言うように。

 それが永遠の休憩となるとも知らずに。


 動きを止めるのは手足だけではない。

 臓腑も、脳も、呼吸器も。肉体のすべてが眠りにつく。

 犠牲者は目を開けたまま、春のうたた寝に落ちるようにして死を迎える。


 獺祭だっさいは吐血も苦悶も引き起こさない。

 穏便に、平和裏に――――あらゆる生物を死に至らしめる。


 人間ならほぼ即死。恐竜も、この大きさまでは殺せるらしい。

 問題は――


(!)


 視界に揺らめく炎が一瞬、飛び上がるように震えた。


 ぬおっと闇の中から巨体が見える。

 鼠色の身体に西瓜すいかを思わせる模様の入った恐竜。

 名は確か、鮫歯竜カルカロ


 瓜型の長い胴を左右にくねらせ、奴は闇を泳ぐように駆けた。

 こうして見ると歯だけでなく姿もどことなく鮫に似ている。


 キキキ、と短い鳴き声が響く。

 カルカロは百歩の位置で一度大きく迂回し、それから獲物を探るように鼻を動かした。

 どうやら鳴き声の持ち主――おそらく疵牙竜トロオ――はウズサダ達の仕込んだ罠の位置を知っているらしい。


 俺は直立したまま矢を手に取った。

 掠っただけで死ぬ毒矢を手に取る行為は、それだけで俺の心身に大きな負担をかける。

 心臓は突き上げるように強く打ち、手の平はべっとりと汗で濡れた。


 カルカロが俺の方へ鼻を向けた。

 奴らは猫と同じで動くものに対してより敏感に反応する。矢を番えた長弓の動きに反応したのだろう。

 きりり、と弦を鳴らす。


 左右の脚を不器用に振り、カルカロが駆け出す。

 速い。

 ぐんぐんこちらへ迫って来る。


 一射。

 矢羽を持つ蛇が巨体に襲い掛かる。

 比較的脆い部位――頬を狙ったのだが、頑丈な鱗が鏃を阻んだ。


「っ」


 あっという間に距離を詰められ、俺は上下に揺れる感覚を味わう。

 あの日と同じだ。

 ティラノに襲われたあの日と。

 だが俺は同じではない。

 俺はあの日の俺ではない。


 ずん、ずん、ずん、と。

 巨大な脚が左右交互に、規則的に土を踏む。


 こいつらは確かに強い。

 だが『学習』、そして『経験の共有』という概念がない。

 一度通じた戦法は、同じ環境、同じ状況下において何度でも通用する。


 目を凝らし、軽く顎を上下に振る。

 右。左。右。左。右――――


 駆け出し、脚の間に飛び込む。

 飛び込みながら、空中で身を捻って振り返る。

 持ち上げられた右脚と地を踏みしめたばかりの左脚の間で、俺はカルカロを見上げる。


 重厚な筋肉を持つ巨体。

 巨大な心臓が打つ度、鱗を持ち上げるように全身の筋肉が拡縮しているのが分かる。

 長い顎は地を掬い上げるように振り下ろされている。


 鏃を、顎へ向ける。

 俺の矢は不正の矢。

 構えも狙いも雑でいい。


 放たれた矢は奴の喉に突き刺さった。

 次の瞬間、俺は奴の脚の間をくぐり切っている。

 どっと肩から地を転がり、立ち上がる。

 矢はカルカロの喉に刺さったままぶらぶらと揺れていた。

 収縮した筋肉が透かし彫りに巻き込まれているのだ。


 奴はもたもたと振り返り、雷鳴さながらの咆哮を轟かせた。

 びりびりと空気が震え、森がざわめく。

 だが俺は怖気づかなかった。


 奴は鳴いた。

 つまり、口が開いた。


 矢を放つ。

 斜め上方へ飛んだ矢がぎゅんと急旋回し、カルカロの口に吸い込まれる。

 うっと頭がのけ反ったが、それで死ぬほど軟弱な恐竜ではない。


 もごもごと口を動かし、巨竜は咆哮と共に怒気を放った。

 距離はたったの三十歩。

 今の俺は巨鯨に狙われたイワシだ。

 迫る死の気配に全身の血が氷のごとく冷える。


 俺は正面を向いたまま後方へ走り出す。

 走り出すと同時に、新たな矢を放つ。

 今度は蛇の矢ではなく、正面に飛ぶ矢を。


 ゴロロロ、と駆けるカルカロの口は開いている。

 その口へ、次の矢が消える。

 ぶつっと怒声が中断される。矢が舌を射貫いたのだろう。

 だが奴は止まらない。

 怒りを燃料に、更に速度を上げる。

 どだっ、どだっという震動でまともに立っていることすら怪しくなる。


 奥歯を噛んだ俺は逆巻の速度を上げた。

 上げたが、向こうの方が遥かに速い。

 力強い右脚の踏み込みで砂礫が舞い、力強い左脚の踏み込みでまた砂礫が舞う。


 咆哮が物理的な壁となって俺にぶつかる。

 気を抜けば腰を抜かしてしまいそうなほどの恐怖の中、弦を鳴らす。

 矢が飛び、巨大な口へ消える。


 ごふっ、ごるるっと呻いたカルカロは速度を緩めない。

 俺は必死に駆けていたが、奴はもう鼻息が触れるほどの位置まで迫っている。


 もう一射。

 奴は止まり――――いや、止まらない。

 巻き上げられた砂礫は今や俺の身を叩き、唾液の匂いすら感じる。

 数十歩。

 いや、奴の脚ならほんの数歩だ。


 矢を番える。

 番えながら考える。

 逃走に力を使うべきではないか、と。

 考えながら矢を放つ。


 ぐあっと開いたカルカロの顎。

 その中を泳ぐ巨大な舌に新たな矢が突き刺さる。


 が、やはり奴は止まらない。

 すんでのところで地に身を投げ、転がって回避する。


 ばぐん、と今まで俺が立っていた場所を奴の顎が通り過ぎている。

 瓜型の巨体が鯨のごとくゆらりと闇の中を振り返る。

 雄大さすら感じる尾がぐるりと俺の視界を泳いだ。

 カルカロは振り返りながら、どおっと倒れた。


 巨体が地に沈み、風が巻き上がる。

 緑の狩衣が翻り、こめかみから汗が流れ落ちる。


 カルカロはその後も何度か全身を震わせて呼吸を続けたが、十度も息を吸うことはできなかった。


「――――」


 一拍遅れ、ぶわりと全身に熱と汗が噴いた。

 そして俺の世界が音を取り戻す。


 ぱちぱちと火の中で薪が爆ぜる音。

 夜の森に何かが蠢く音。

 太鼓の音。

 男たちの怒号。


「おい!」


 俺の肩を掴んだのはウズサダだった。

 その表情は険しい。


「今のは何だ……!」


「毒だ」


 ばくんばくんと跳ねる心臓のせいで俺は吃逆しゃっくりでもするように肩を震わせていた。

 無視して歩き出そうとしたが、また肩を掴まれる。


「毒矢なんかで恐竜が殺せるか……!」


「殺せる。現に今、殺しただろう」


 なおも言葉を被せようとする男に指を突き出す。


「俺は『十弓』だ。俺より毒矢の扱いに長けた奴はこの国にいない」


 噛みつくような言葉に噛みつき返し、巨竜を指差す。


「矢には触るな。肉ごと切り取って地面に埋めろ」


 俺は森の方を見やった。

 先ほどルーヴェがトロオの姿を確認していたようだが、そいつらの姿は見えない。

 逃げ出してしまったのだろうか。


 俺はウズサダの手を振り払い、歩き出す。


「どこに行く気だ」


「殺した奴はやる。好きにしろ」


「……本気で森に行くのか」


 そのつもりだった。

 必要な情報は聞き終えている。

 これ以上、彼らに用は無い。


「お前「ワカ」」


 藍色の忍者装束に身を包むルーヴェが割り込んだ。

 少々表情が険しい。


「ルーヴェ。矢筒を持って来い。行くぞ」


「だめ。行くの、やめる」


「何?」


「きょうりゅう、今のでたくさんおきた」


 ルーヴェは森の奥に目ではなく『五感』を凝らす。


「もっとずっと向こうのきょうりゅうもおきた。今行ったらワカ、しぬ」


「避けながら行くさ」


「むり。私ときょうりゅうは見えるけど、ワカは目が見えない」


「……」


「しんだらおわりだよ」


 諭す言葉は何が「終わり」なのか明確にしてはいなかった。

 終わるのが俺の命だけなら気も楽だが、今回はそうもいかない。

 他人の命が懸かっている。


 男たちが恐竜の解体に取り掛かっている。

 太鼓は歓喜を表現するかのように軽やかに打ち鳴らされていた。

 どっ、どっ、どっと鼓の音が響く。


(……)


 軽く肩を上下させながら、考える。

 進むべきか留まるべきか。

 足を止めて何かが好転することはない。だが命は一つしかない。俺が死ねば彼女も死ぬ。


 どどどどど、と短く激しい音が俺の鼓動と重なる。

 俺はなおも考える。


「九位」


「ワカ」


 かかっと太鼓の縁が叩かれ、音が止んだ。


「……夜明けまで待つ」


 その言葉を絞り出すまでにずいぶん時間がかかった。


 俺はやぐらへ戻り、粗末な寝台に身を横たえた。

 眠りは浅く、俺は短い夢を見た。






 明け方、男たちに叩き起こされた。

 乾いた墨が色あせるように夜は終わりを迎えており、空は群青色だった。


 行く手に広がる木立の間に赤いものが見えた。

 恐竜に襲われた生物がまき散らした血かと思ったが、違う。

 血文字だった。




 お か え り



 わ か つ




 血文字の最後には三つ指でつけたと思しき赤い爪痕が残っていた。

 それから、一本の矢。

 蛇の皮が巻かれた矢が木の幹に突き刺さっている。

 俺が砦に残していた髪飾りだ。


 葦原へ向かうと宣言していたあの女が、俺の砦に陣取っている。

 アキ。『秋の赤い甘い懐かしい風』。


 木の幹から抜いた矢をぼきりと折り、行く手を睨む。


 手元には最強の毒がある。だが残り時間は少ない。

 そして敵は恐竜人類。

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