第44話 41


 問題は幾つかあった。


 サーダラナート上流はまったく道が拓かれていないこと。

 冒涜大陸付近は恐竜討伐の最前線であり、その戦闘に巻き込まれる可能性があること。

 途中で川や崖といった難所に突き当たった場合、恐竜だらけの土地で立ち往生する羽目になること。


 だが是非を問うている時間は無かった。

 象のいななきが聞こえた瞬間、四人衆はミョウガヤを抱き上げて一つの象へ跳んだ。

 俺はシアとナナミィの象に乗り、シャク=シャカはセルディナとプル、忍者二人の控える象へ。


 倒木と地響きに追われるようにして俺たちは川を遡る。

 景色は再び緑に溶け、象の全身から発散された汗が飛沫となって後方へ流れていた。






 俺たちの象は先ほど射貫いた象たちを越え、サーダラナートへ再接近する。


 と、誰かが何かを叫んだ。

 振り返った俺は恐怖に呻く。


 濡れた泥を巻き上げながら俺達を追うのは赤銅色しゃくどういろの象軍だった。

 まず驚いたのがその姿だ。

 全体的に痩せており、腹部の肉がほとんど垂れていない。

 四肢は異常に太く、関節から先に至っては一般的な象の倍ほどもある。


 全身は傷だらけで、耳が欠けたり破れている個体がほとんどだ。

 走法も独特で、まるで四肢で地を掴むような動きで駆けている。

 その様は狒々ひひを思わせた。


 だずっ、だずっ、だずっと迫る象たちの目は殺気立っていた。

 数は二十、いや三十か。

 まるで土石流だ。


 二人の忍者が大型の撒き菱を放った。

 ごろっ、ごろっと毬栗いがぐりに似た道具が地を転がり――――


 ――すっと象の一軍が左右に割れた。

 撒き菱は象軍の中央に生まれた空白地帯を転がっていく。


「!」


 完全に撒き菱をやり過ごしたところで、象たちは再び密集する。


(速い……! 何て動きしやがる……!)


 俺は矢を番えたが、ミョウガヤ四人衆の方が速かった。

 縦一列に並ぶ矢が空気を切り裂く。


 が、赤銅色の象は一斉に鼻を持ち上げ、更に頭部を左右に振った。

 矢は鼻や分厚い顔の皮膚に突き刺さるばかりで、目には一射も当たらない。

 思い付きでやったようには見えない。明らかに訓練された動きだ。

 俺はその瞬間、蛇の矢による迎撃を諦めた。


 弱点であるとは言え、象の目は小さい。

 あんな動きをされてはいたずらに矢を浪費するばかりだ。


「あ、あんなのに追いつかれたら蟻塚みたいにぐちゃぐちゃにされちゃう……!」


 ナナミィが両手で頭を押さえ、丸まった。


 俺たちの象はいまだ騒然とするサーダラナートを通り過ぎた。

 特徴的な螺旋の石塔が後方へ流れていく。


 赤銅色の象軍は石塔の傍で停止していた。

 さすがにこの動きは予想外だったのだろうか。それとも追うまでもないと判断したのか。


「諦めた?!」


 顔を上げたナナミィの歓喜が一瞬で絶望へと変わる。


「ちょっと、追って来てるんですけど?!」


 俺たちが一直線に森へ突っ込むのを見た象軍は、それまで以上の怒声を放ち、追跡を再開していた。


「な、何で私がこんな目に……!!」


「舌を噛みますよ。黙ってなさい」


 冒涜大陸へ続く森に突っ込んだ瞬間、ばざざざ、と枝葉が象の鎧を叩いた。

 鳥たちが飛び立ち、ばりばりと踏まれた小枝が悲鳴を上げる。

 視界は限りなく黒に近い緑。仄暗い川底を想起する。


 顔と同じ高さの枝がすぐ傍を掠め、ナナミィが象にしがみつく。

 平たくなった彼女は反物たんもののようだった。


「ひえっ?!」


「っ! 後ろはもういい! 前を見ろ!! ……っ」


 ぐいんと右に大きく象が逸れ、振り落とされそうになる。

 先ほどまでの進路には枝が網目のごとく伸びていた。

 あそこへ突っ込んでいたら全員転倒していただろう。


 見ればミョウガヤではなくセルディナの象が先頭を走っており、シャク=シャカが刀を構えている。


「次! 左だ!!」


 第七王子の見通しは確かだった。

 俺たちの象は右へ左へ進路を変えたが、その度に致命的な斜面や段差、太い枝や朽ちて傾いだ木を回避している。

 時折迫る細枝は唐最強の男がバキバキとへし折っていた。


 森と土の匂いが濃くなっていく。

 日の光は途絶え、尾の長い猿が枝から枝へ跳び、跳ねた土が美しい桃色の花を汚す。

 

 俺たちの象は左右に身を振り、最適な道を探りながら突き進んだ。

 一方、赤銅色の軍は木々を押し倒し、蹴散らし、僅かな段差を飛び越え、ありえないほどの速度で迫る。

 かつて『唐』を滅ぼした津波の再来。

 背後に迫る死の気配に汗すら凍るようだった。


「霧だッッ!!」 


 セルディナが怒声を放った。

 確かに霧が見える。

 だがそれは木々にこびりつく蜘蛛の巣程度の密度しか持っておらず、吹けば飛んでしまうようにも思われた。


「シア。俺の鼻と耳を――」


「する必要は無さそうです」


「?」


 シアの示す先を見ると、小型恐竜の一団が霧の中から飛び出すところだった。

 魚群にも似た恐竜たちは俺達とすれ違い、赤い象軍の脇へと消える。

 

「霧の効果が失われたようですね」


「……!」


 彼女の言葉通りだった。

 蜘蛛の巣状の霧を抜ける瞬間、俺はほとんど何の違和感も覚えなかった。


「これで冒涜大陸と私たちの大陸はほぼ地続「ちょっ、ちょっと!!」


 薄切り大根のごとく象にへばりついたナナミィが叫ぶ。


「な、何で今の恐竜、象に向かって突っ込んで来るの?! おかしくない?!」


「そう言えば――」


 暗い森を抜けた瞬間、その答えが分かった。


 再び足を踏み入れた冒涜大陸では、灰色の象軍と極彩色の恐竜たちが大地を二分する大戦争を繰り広げていた。






 海よりも果てしなく続く青空。

 地平線すら越えて広がる若草色の丘陵。


 ここでは人間など砂粒に過ぎない。

 いや、人間だけではなく、すべての生命が等しく砂粒だ。


 その砂粒たちが遠い丘陵から点々と連なり、天の川さながらの光景を生み出していた。

 緑の平野を汚す、赤黒い星々の川。


 地に転がる死骸のほとんどは恐竜だった。

 暴君竜ティラノ異竜アロ牛竜カルタノといった巨竜たちが四肢を投げ出し、血の海・血の川を作っている。

 その周囲を早くも小型恐竜がちょろちょろと走り回り、柔らかい目元や頬の肉を啄んでいた。


 その血だまりをばしゃばしゃと踏み散らし、駆け抜けるものたちがいた。


 革あるいは鉄の鎧を身に着けたものたち。

 巨大な籠を担ぎ、戦旗を翻すものたち。

 一歩踏み出せば地を揺らし、二歩踏み出せば天すら揺らすと称されるものたち。


 ――――『象』。

 百を超え、千を超える象の大群。

 

 濃い灰色の軍団はさながら意思を持つ津波のごとく、縦横無尽に世界を駆け巡る。

 立ち塞がるティラノやアロは小石のごとくその波に巻き込まれ、飲み込まれ、ぐるぐると回転しながら灰の肉塊の中へ消える。

 次に姿を見せた時、彼らは地面にへばりつく肉の染みと化していた。



 悲鳴も怒号も等しく飲み込み、象の津波が命を平らげる。

 狂暴な肉食恐竜が撃滅され、蹂躙され、すり潰されていく。


 巨大な首長竜たちは我先に逃げ出し、鴨に似た口を持つ草食恐竜が俺たちの傍を通り過ぎた。

 クオン、クルオン、と彼らはお節介焼きの親父のごとく鳴く。逃走を促されているのだ、と直感する。


 勝因については幾つかの仮説が打ち立てられそうだった。


 後ろ足二本で体重を支える恐竜に対し、四つ足の象は重心が低く、かつ安定しており、突進の破壊力に勝ること。

 恐竜は爪または牙を振るわなければ攻撃できないが、上向く牙を持つ象は接敵した瞬間、恐竜への攻撃が完了すること。

 象たちは革や鉄の鎧をまとい、乗り手たる人間の知恵と共にこの戦いに臨んでいること。

 そして何より、象たちは『戦争』を知っていること。


「凄い……」


 唖然とするのはシアとナナミィだけではなかった。

 俺も、シャク=シャカも、その圧倒的な暴威を前に息を呑む。

 幸いにしてその戦闘は丘陵の彼方で行われているため、こちらが巻き込まれる心配は無いようだった。

 もし巻き込まれたら、誰一人として生還できなかっただろう。


 俺たちの象は広々とした丘陵を葦原方面へ向かって駆けていた。

 だが目に映る世界はあまりにも広く、地の色を塗り替える象と恐竜の戦いは俺たちの視界に収まり続けていた。




 出し抜けに、風切り音が聞こえた。




「矢だッッ!!!」


 振り向いた俺が身構えるより早く三頭の象が巧みに進路を変え、これをかわす。

 すどどど、と後方の地に矢が立った。


「セルディナ!! 弓兵がいるぞ!!」


「分かっている! 足止めする!」


 先頭を行く象たちがばつん、ばつん、と甲冑を外した。

 象を離れた甲冑がごろごろと転がり、赤銅色の一団はそれを回避すべく散開する。

 放たれる寸前だった矢がてんでばらばらの方向へ飛び、草地や露出した岩肌に突き刺さった。


「休ませるな! どんどん剥がせ!」


 セルディナの合図でシャク=シャカと忍者たちが象の甲冑を外し、放る。

 俺とシア、ミョウガヤ四人衆もそれぞれの象の鎧を外した。

 不規則に跳ね、転がった金具が赤銅色の一軍に襲い掛かり、陣形が崩れ、足並みが乱れる。

 思わぬ攻撃に赤銅色の象たちは速度を緩め、ぐんぐん俺達に突き放される。


 こちらの象も速度を調整し、三頭が横並びになった。


「このまま逃げ切れるか……?」


「駄目です! 起伏のない平地では早々に追いつかれます!」


「だったらどうするよ! もう投げるモンも転がすモンも無ぇぞ!」


「い、いっそ戦場に突っ込むとかどう?!」


「バカ言え! そんなことしたら俺たちはともか――」




 落雷じみた咆哮と共に、真横を走る森からティラノが飛び出した。




 その瞬間、俺の体感時間は何百倍にも引き延ばされた。


 


 赤土色の巨体。

 唸るほど分厚い筋肉。

 獰猛さを凝縮させた石のように小さな目。

 奴は水底を走るかのように、ゆっくりとこちらに迫る。


 大きい。

 奴は象と同じか、それ以上に大きい。

 さしもの象も真横からの突進は防げないし、かわせない。


 筋肉の盛り上がった背にしがみつくものが居る。

 白銀のラプトル。


(銀羽むらさ――)




 世界が時を取り戻す。





 次の瞬間、赤土色の巨体が三頭の象に激突した。


 体当たりの直撃を喰らい、ミョウガヤの象が転ぶ。

 その象に押され、俺の象が倒れる。


「なッ?!!」

「ひっ――」

「うっ!」


 俺、シア、ナナミィ、二人の操手、ミョウガヤ、四人衆が次々に宙へ投げ出された。

 青空と緑の大地が一回転し、二回転――――


「――!!」


 力強い手が俺を掴んだ。その衝撃で思わず肺から空気を吐く。

 ぐいと俺を掴み、引き寄せたのは象から身を乗り出したセルディナだった。

 見れば片足で立ち上がったシャク=シャカがシアとナナミィを左右の手で掴み、自らの象に引き寄せるところだった。


「ラァッッ!!」

「く、ぐっ!!」


 二人の偉丈夫は気合の声と共に俺達三人を象の上へ引き寄せる。

 どうにか弓も命も落とさずに済んだ俺は、はっと気づく。


「! ミョウガヤッ!!?」


「だ、大丈夫だ!」


 下を見ると、ミョウガヤを抱きかかえた四人衆の一人が象の留め具に指を掛けていた。

 他の三人は二人の忍者が支える鎖鎌に掴まり、地をごろごろと引きずられていた。

 落下した操手が象に潰され、その悲鳴がぷつりと途絶える。


 どだっ、どだっ、どだっと二頭の象を葬った赤土色の巨体が真横へと通り過ぎていく。

 その背に乗る銀竜は口惜しそうにクオオオ、と鳴いた。


(!)


 がぐん、と。一気に象の速度が落ちた。


 そのお陰で鎖を掴む三人衆は立ち上がり、象に駆け寄った。

 留め具から落下寸前だったミョウガヤと『花の矢』も体勢を持ち直すことに成功する。

 結果、象にかかる重量が更に増える。


 俺、セルディナ、シャク=シャカ、オリューシア、プル、ミョウガヤ、『花の矢』四人衆。忍者二人。

 いくら象が頑健な生き物とは言え、一度にこれほどの生物を乗せることはできない。


 がぐっと象が関節を曲げかける。


「お、おいセルディナ! 象が潰れるぞ!」


「潰れはしない! 潰れはしないが……足が潰れる!」


「同じことじゃねえか! どうすンだよこれっ!! ぷはははっ!!」


 大笑いするシャク=シャカをよそにミョウガヤが神妙な声で呟いた。


「……。抜虎ばっこ咬山羊かんやぎ!」


 ミョウガヤの声に二人の忍者がこくりと頷いた。


「葦原はすぐそこだ。お前たちは徒歩かちで帰還しろ!」


「ミョウガヤ!」


「このままじゃ全滅だ!」


 がくっと象が転びかける。

 そうこうしている間にも赤銅色の一団が再加速する音が聞こえる。


「僕やお前が降りても後ろの連中や恐竜からは逃げ切れない! でもこいつらなら可能性がある!」


「……!」


「四の五の言うなよ、ワカツ。文句は後で聞いてや――「主上しゅじょう」」


「?!」

 

 聞き慣れない声に誰もがきょろきょろと周囲を見渡す。

 声の主を探った俺たちの目は四人衆の一人、ツバキに留まった。


「我らも御身を離れますこと、お許しいただきたく」


「なっ?!」


 声を詰まらせたミョウガヤの顔が赤く染まり、青く染まる。

 仮面の四人はじっと彼を見つめており、その返事を待っている。


「ちょっと何を「ナナミィ」」


 俺は彼女を黙らせ、ミョウガヤの応答を待った。


(……)


 象の速度はぐんぐん落ちて行く。

 その息は荒く、背中から汗が飛び散り始めていた。


「分かった。行け」


「御意」

「御意」

「御意」

「御意」


 ツバキ、サザンカ、スイセン、ドクダミの四人は首肯と同時に俺を見た。

 彼らの悲壮な覚悟を感じた俺は力強く頷く。


「任せろ。ミョウガヤは俺が護る! ……武運を祈るぞ、お前ら」


 その瞬間、四人衆の面の隙間からふっと呼気が漏れた。


「侮られるな。我ら四人。貴殿より位は上だ」

「九位にできたことが五位にできぬわけがない」

「貴殿こそ己の武運を祈るがいい」

「主上に傷一つつけようものなら、貴殿は五度殺す」


「はァァ?! ぶっ殺すぞてめえら!!」


 頬と目元に微かな笑みを浮かべ、四人衆が速度の緩んだ象を飛び降りた。

 袴を掴んだ四人は驚くほどの俊足で真横に駆け、藪を越え、森の中へ駆け込む。


 忍者の二人も互いに頷き、まず山羊面の方が象を飛び降りた。




 ――プル王女を抱いて。



 

「はっ?!!!」


 セルディナが気づいたが、もう手遅れだった。

 黒装束の忍者はありえないほどの速度で地を駆け、緑の森にざぶんと飛び込む。


「に、兄様?! なに?! 離――、――――。兄――!!」


 少女の悲鳴が遠ざかっていく。


「ぷ、プルっ?! プルっっ!!!」


 禿頭の男が両手を伸ばし、象がぐらりと傾いだ。


「待てよせ!! てめえまで落ちるだろがっっ!!」

「やめなさいハゲ! ハゲッッ!」

「セルディナ!! やめろ!!」


 シャク=シャカ、ナナミィ、俺の三人がかりでどうにか思いとどまらせたが、彼は頭頂部まで蒼白になっていた。

 第七王子は呆けたように首を振り、その場に腰から崩れる。


「な、一体……何が――」


「殺されはしないはずです」


 シアの氷じみた言葉がセルディナを撫でた。


「そのつもりならあの忍者にはいくらでも機会がありました。取り乱さないでください。動揺が象に伝わります」


 顔色を取り戻したセルディナが奥歯を噛んだ。

 ばぎい、と白い欠片が散るほど強く。

 その目が殺意を帯びた。


「ワカツ、ミョウガヤ。どういうことだ。葦原の忍者がなぜプルを……!!」


「抜虎! 何が起きてる?!」


「分かりかねまする」


 若い女忍者の声には困惑らしきものが滲んでいた。

 中身が他国の人間にすり替わっていたとは思えない。

 動き方から察するにあの山羊面の『中身』は間違いなく葦原の忍者だ。

 ――となると、裏切りか。


「追え。後で他の者も寄こす」


「御意」


 抜虎も象の背を蹴り、地を駆けた。

 その背を目で追っていた俺たちは、ぼふう、ぼふう、という不穏な音に振り返る。


「お、おいやべえ! やべえぞこいつァ!!」


 振り返れば既に赤銅色の象がほんの数十歩の距離まで迫っている。


 間近で見る『猛炎種』の顔は異様に過ぎた。

 顔は膨れ上がり、目の片方が白く濁っているものや絶えず唾液を垂らしているものがいる。


 ましらのごとき走法。

 追いつかれたらその前脚で掴まれ、バリバリと頭から食われるのではないか。

 恐怖のあまりそんな考えすら浮かぶ。


 乗り手が減ったことで象が再加速する。

 が、それでも操手、セルディナ、シャク=シャカ、俺、オリューシア、ナナミィ、ミョウガヤの七人乗りだ。


「あ、ああ……ちょっとやだ……やだ……!」


 再び減速する象を前にナナミィが悲鳴を上げた。


「な、何とかならないの?! ねえ!」


「ナナミィ。励ましてください」


「な、何を?! え、象を?」


 ナナミィは象の耳に口を寄せた。


「が、頑張れ~」


 ほんの少しだが、象が速度を取り戻した。

 

「やった! がんばれ~! ほら、がんばれ~!!」


「すごいな。本当に速くなった」


「……ああ。こいつァすげえ」


 シャク=シャカが珍しく驚愕の形相を浮かべ、ナナミィを見つめる。


「俺ァ、俺より頭の弱い奴ァ初めて見るぜ」


「は、はあ? アンタ……こっちは本気で」


 振り向いたナナミィが言葉を詰まらせ、目尻に新たな涙を浮かべる。


「きょ、恐竜っっ!!」


「!」


 先ほど俺たちに激突し、通り過ぎたティラノが再びこちらに突っ込んで来るところだった。

 しかも今度は身を傾がせ、筋肉質な背をこちらに向けている。

 銀羽紫は前脚にでも掴まっているのか、声はすれども姿が見えない。


 俺は矢を番えたが、この体勢では『蛇の矢』でもティラノの急所を狙えない。

 赤銅色の象たちは狡猾にもティラノに道を開けている。


「く!」


「かわすぞ! 掴まれ!!」


 俺達は身を伏せ、象の背にはっしとしがみついた。

 その瞬間、象は急加速し、突風じみたティラノの突進を回避する。

 ほんの数歩後方を赤土色の巨体が掠め、通過する。

 圧倒的な質量の通過が風を呼び、生臭い爬虫類の匂いが俺達を包む。


「ま、また来る!!」


 通り過ぎたティラノはだしっ、だしっと俺たちに並走し、再びこちらに背を向けた。

 今度は先ほどより前方を狙っているのが分かる。


「振り落とされるなよ!」


 一気に減速した象の前方をティラノが掠めていく。

 その足が大量の砂礫を巻き上げ、意外なほど柔らかそうな足裏が見える。


「うう、う後ろ!!」


 好機と見た赤銅色の象が一気に距離を詰めて来る。

 乗り手の一部が弓を構えていることに気付いた俺はすかさず蛇の矢を放ち、奴らを牽制した。

 しゃおお、しゅおお、と三日月状に襲い来る矢を前に赤銅色の象が後退する。


「おいおいおいおい! どうするよ?!」


「どうもしなくていい!!」


 俺は叫び返した。


「もう国境は抜けてる!」


「!」


 前方には既に、葦原の建造物が見えていた。

 白漆喰の壁。黒く濡れた瓦。

 造りから察するに、冒涜大陸周辺の調査に造られた一軒家だろう。


 目を凝らせばブアンプラーナとの国境に立つ外釈省がいしゃくしょうの関所――いわゆる出入国管理所が見える。

 実妹を攫われたことで取り乱しながらもセルディナは進むべき方角を見誤らなかった。

 既に俺たちは葦原の領土内に侵入していたのだ。


 一軒家を通り過ぎる瞬間、障子戸が恐竜の三つ爪で破られているのが見えた。


「油断しないで! 状況は何も好転していません!」


 シアが叫ぶ。


「象の追っ手はともかく、恐竜に国境はありません! このままだと――」


 見上げるほど巨大な首長竜たちが俺達に気付き、どたどたと横へ逃げていく。

 その向こうに見える街並みに俺は見覚えがあった。

 国境に最も近い街だ。


「あそこに逃げ込みましょう!」


「逃げ込んでどうする?! 象がめちゃくちゃにしちまうだけだ! むしろ街は避けなきゃなんねえ!!」


「ですがもう象が限界です!」


「ちょっと! その前に後ろのティ、ティラノがッッ!!」


「っ! かわすぞ、伏せろ!」


 大口を開けたティラノの突進を逃れ、象が斜めに走る。

 既に象は口からは泡を吹いており、耳は激しく前後していた。


「――!! ――――!」

「――、―――――!!」

「――、――」


(!)


 飛び交う悲鳴の中、俺は見た。

 市街地と街道を隔てる街門の屋根に、一人の人間が立っているのを。


「ッ!!」


 その瞬間、遂に象がどおっと倒れた。


 俺たちは象の背から投げ出され、激しく横転する。

 頬に押し付けられた土と草に葦原の匂いを感じながらも、俺は戦うために立ち上がった。


「ミョウガヤ! 俺の後ろに!」


 弓を構え、矢を番える。

 赤土色の恐竜が、どざああああ、と砂埃を巻き上げながら俺たちに追いつく。


 ぐあっと開かれた口から大気を震わす咆哮が放たれる。


 ナナミィがたじろぎ、シアが剣を盾に踏みとどまり、セルディナが両腕で顔を覆う。

 シャク=シャカは平然と顔で咆哮を受け、刀を肩に担いだ。


「シッ!! 上等だ。やってやらァ……!」


 確かに彼ならティラノにも勝てるだろう。

 だが暴君竜の向こうからは赤銅色の象軍が迫ってきている。

 今こいつと戦えば、象軍の突進に巻き込まれてしまう。そうなればさしもの彼も終わりだ。


「駄目だ、シャク=シャカ! 今は逃げ――――」


「違ぇぞ、ワカツ! この銀畜生からは逃げられねえ! どっかでケリつけねえと、ずっと追い回されンだぞ!」


「……!」


「こんなやべえ野郎をみすみすてめえの国に入れる気か?! 腑抜けてんじゃねえ!! ケツ上げろ!!」


「ッ」


 かっと血が燃える感覚。

 俺は立ち上がり、覚悟を決めた。


 俺とシャク=シャカの気配に何かを感じ取ったのだろう。

 銀羽紫がティラノの上で高らかに吠えた。


「行――」






 雨の美称に、銀竹ぎんちくというものがある。

 その瞬間、俺が見たのはまさにそれだった。


 ティラノに降り注ぐ、銀の雨。





「!!」


 一瞬で暴君がハリネズミと化し、ぐらりと揺れ、どおっと倒れ伏す。

 顔と言わず目と言わず、全身にありとあらゆる矢が突き立っていた。 


「こいつァ……?!」


 クオオオオン、と。

 かろうじて矢の雨をかわした銀羽紫が赤土色の巨躯を飛び降り、悔しそうに鳴いた。

 奴が地を蹴ると、数秒前に立っていた場所に矢の雨が降り注ぐ。


「ちっ!!」


 俺は矢を向けたが、既に遅かった。

 白銀の竜はくさむらに紛れ、やぶに紛れ、やがて森に紛れた。


 地響きが迫る。

 砂を巻き上げる赤銅色の象軍が、ティラノの死体を挟んだ場所で急停止した。

 舞い上がる砂は煙となって立ち込め、俺たちを包み、そして後方へ流れていく。


 激しくむせ込む俺たちの耳に、女の声が届いた。



 

「ごぶじか、ワカツ九位」




 はっと振り返ると、一人の女が静かに歩み寄るところだった。


 枯色かれいろと呼ばれる淡い茶色の長い髪。

 若く、透明感のある美貌。

 肩幅は狭く、抱きしめたら折れてしまいそうにも見える。


 華奢な手には細く長い弓。

 纏うのは大袖の長着に黒い袴。

 狩衣かりぎぬは水色。

 表情は柔和を通り越してやや胡乱うろん


「助かった……」

 

 俺の腕の中でミョウガヤが細い息を吐き、脱力した。

 俺は仲間たちが咳き込む音を聞きながら、ぽつりと彼女の名を口にする。


「カヤミ一位いちい


「はい」


 彼女はうっそりと告げ、どこかぽうっとした表情で俺に歩み寄る。

 歩みも軽ければ、さり、さりり、と砂を踏む音も軽い。

 その口元には微笑が浮かんでいるのだが、彼女が本当に俺を見ているのかは少々怪しい。


「けんざいですか」


「はい……!」


「それはちょうじょう。ちょうじょうです」


 彼女は砂煙の中を悠然と歩き、俺の傍に立った。


「……とまられよ」


 笛の音に喩えられる声が響いた。

 決して大きな声ではなかったが、誰もが彼女の顔を見る。


 再突撃の体勢に入っていた象軍は出鼻をくじかれ、足踏みした。


「ここはあしはらのりょうどです。なにようでしょうか」


 一団の長らしき男が口元を覆う紫布を解いた。

 目つきは鋭く、顔を塗料で塗り潰している。


「ご機嫌麗しゅう、カヤミ一位殿」


 溝に泡が立つがごとき、低い声。


「なにようでしょうか、ともうしました」


「……。セーレルディプトラ様をお引き渡しいただきたく」


「わがくにのきゃくじんです。しかるべきてつづきをおとりください」


「手続きをうそぶくのであれば、貴国も出入国の手続きを通してはおられぬはず」


「いいえ。あしはらはセーレルディプトラ様のにゅうこくしょうをはっこうしております」


 ひらひらと一位が小さな布を振った。


「しゅつにゅうこく、ともうされたが、セーレルディプトラ様がブアンプラーナをでるのにてつづきはいらぬはず」


「……」


「だいななおうじのおんみ、われらのしゅごするところにございます。すじょうのわからぬものにはひきわたしかねます」


「我らの目の前で簒奪しておいてよく言う……」


「さんだつ?」


 一位は子供のように首を傾げ、目を細めた。


「それはまことですか、セーレルディプトラ様」


「いえ……違います」


「さようですか。ではこのものたちのたわごとにございますね」


 一位は象軍の男たちをじっと見やった。


「おひきとりください」


「……出来ぬと申し上げたら、いかがなさるおつもりだ?」


 赤銅色の象が唸る。

 後ずさる俺の傍で、一位は淡々と続けた。


「そのときは、おあいていたしましょう」


 ふっと男が嗤った。


「お一人でか」


「ひとりではありません」

 

 一位の言葉を合図に、後方に立つ街門の瓦が、かしゃ、かしゃん、と地に落ちた。

 見れば、カヤミ一位と同じ装いの弓兵が幅も速度もばらばらの歩みで近づいて来る。

 顔立ちも違えば年齢も違う。髪型も違えば得物も異なるが、一つだけ共通していることがあった。


 それは、全員が狩衣を纏っていること。


 紫。

 桜。

 橙。

 黄。

 白。


 ある者は白く太い腕甲で左腕を覆っている。

 ある者は黒蠍を模した鎧を着込み、ある者は太陽に似た形の矢筒を背負う。

 ある者は峰に糸を張った剣を肩に乗せ、ある者は背に蝶の羽のごとき一対の弓を担ぐ。


 ミョウガヤが立ち上がり、赤い狩衣を翻した。

 俺もボロボロになった緑の狩衣を掴み、立ち上がる。


 風が吹き、俺たちの狩衣を揺らした。


「むえきなあらそいはのぞむところではありません。ですが、どうしてもひかぬともうされるのなら」

 

 居並ぶのは、葦原国で弓を極めた強者つわものだった。

 他国ではただ『十弓じゅっきゅう』と呼ばれる。

 正しい名前は――――



「われら、『傘門十弓さんもんじゅっきゅう』がおあいてつかまつる」



 一位はぽうっとした表情のままそう告げ、背後の弓兵たちが一斉に弓を構えた。

 軍団の長はちらとティラノを見下ろすと、気圧されたように後ずさる。


「おまえたちはわれらのこくどにむだんでたちいり、ひんきゃくのみがらをひきわたせとのたまった。なおもひれいをはたらくおつもりか?」


「……」


「さられよ」


 赤銅色の象たちは鼻先を真後ろに向けた。

 その足音が遠ざかり、砂埃が舞うのが見える。


「九位」


 一位が俺を見下ろし、薄く微笑んだ。


「おかえりなさい。けんざいでうれしいですよ」


「……はい」


 俺とミョウガヤはその場に片膝をつき、頭を垂れた。


 砂埃のせいだろう。

 目に涙が滲むのを感じ、俺は瞼を下ろした。


 長い戦いが、終わった。




























 一位達の気配が俺を通り過ぎたことに気付き、目を開き、振り返る。


「……?」


 数名欠けた十弓はシャク=シャカの前で足を止めたが、何事も無かったかのようにその前を通り過ぎた。

 彼らはセルディナの前を通り過ぎ、ナナミィの前を通り過ぎた。


「あの、俺……報告しなければならないことが――「九位」」


 一位の冷淡な言葉に遮られる。


「わたしたちは、あなたをむかえにきたのではありません」


「ぇ」


 ざり、ざりり、と。

 草鞋が砂を踏む音が一人の女の前で止まる。


 そこに座り込んでいたのは紫布一枚のオリューシアだった。


「……」


 一歩前に出たのは、左腕を太く白い腕甲で包んだ女丈夫、ランゼツ三位だ。

 艶めかしい黒髪を束ねた彼女は背が高く、凛々しい顔の持ち主だった。

 年齢は二十五を過ぎているが、その濃い艶香が男たちを惑わしてやまないと聞く。


「貴官の所属と名前を問いたい」


「……。エーデルホルン王国、国務国家弁護団レジーノコンスルトです。名は――」


 三位の左腕が真っ直ぐ突き出された。


 ほぼ手首から肩までを覆う白い武具が、かりこりかり、と傘のように開く。

 象牙とも鯨の骨ともつかない硬質な物体が四本、十文字に伸び、それぞれを結んだ計四本の弦がぴんと張る。

 真正面から見れば傘骨だけの番傘にも見えるだろう。


 これは三位の『骨の矢』だ。

 一位を差し置いて、彼女を葦原最強の女弓兵たらしめる武器。


 ぎょっとした俺は彼女の足元に縋りつく。


「さ、三位! 確かに聞き慣れない部隊の人間ですが、彼女は俺を助けてくれました! 舞狐かトヨチカに聞いていませんか?! そいつの名前はオリューシアです!!」


 ああ、とランゼツ三位は肯定とも否定とも取れる声を漏らした。


国務国家弁護団レジーノコンスルトのオリューシアなら知っている」


「――え?」


「一度会ったことがあるからな」


 ランゼツ三位が矢を番え、紫布を纏う女を見下ろした。






「お前、誰だ?」






 彼女は、逃げ出そうとした。

 だが、逃げられなかった。


 脛を射貫かれた女は、その場にどっと倒れた。

 腰布がめくれ、艶めかしい脚が露わになった。


 その腿が、爪にも似た翡翠色の鱗に覆われているのが見えた。

 俺がブアンプラーナの水中で見たものと同じ、鱗。



 彼女の姿が狩衣を翻す『十弓』たちに埋もれ、見えなくなった。






 俺は葦原に帰還した。


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