第19話 18

 


 墨壺を覗き込むような闇。

 それが俺の見ている世界のすべてだった。



「灯りを点ける」


 扉を蹴り開けた俺は一言残して闇の中へ。


 室内に入った途端、きちち、と甲虫が軋むような音が四方八方へ散る。

 どつんと重たげな着地音を残す奴もいた。


 数。不明。

 位置。不明。

 姿。不明。


 いつ、どこから襲われてもおかしくない。

 その前に明かりを灯さなければ。


(……)


 男の俺より、女のシアの方が部屋数が少ないなんてことはありえない。

 ここは寝室ではない。

 居間か。食堂か。あるいはそれ以外の用途の部屋。

 灯りはどこだ。


 つん、と油が香った。

 料理だ。料理の匂――



 びゅん、と剣が振り下ろされる。



 俺の足元でどぶっと何かがひしゃげた。

 飛沫がぱたたと床を叩く。


「そこ、たべものある」


 頷いた俺は矢を番えた姿勢のまま早足で前へ進む。

 鏃が平たいものにぶつかる。椅子の背もたれ。


 跳ぶ。

 椅子に乗り、また跳ぶ。

 卓の縁を踏み、中央付近へ。


 がぼん、と料理の皿がひっくり返る。

 スープが飛び散り、ズボンを汚す。

 水差しが倒れ、蓮華が跳ねる。


 ごろろと転がった湯呑みが卓の縁から床へ。

 がちゃりん、と派手な音を立てて割れる。


 闇の中、そろそろと俺に近づき始めていた恐竜が飛びのく。

 ちちち、きちち、と爪が床板を掻く。


(……)


 灯り。

 灯りはどこだ。

 俺の部屋と同じように四隅に行灯があるのか。


 波紋も立たないほど深い闇に目を凝らす。

 俺はルーヴェのように耳と鼻で周囲の状況を把握することはできない。

 だが考えることができる。

 考えろ。

 この部屋には何がある。


 俺の食堂には円卓と椅子、調度品の山があった。

 壁面は黄色と金で行灯の光を照り返すような趣向が――


(……行灯?)


 唐人は行灯を好まない。

 この国の空気は葦原に比べ乾燥しており、ふとした拍子に火事を引き起こすことが多いからだ。

 なのに俺の寝室と食堂には行灯が置かれていた。

 あれは――葦原の人間である俺に気を利かせてのことか。

 さすが金持ちの家。色々なものが揃っている。


「……」


 と、言うことは。

 エーデルホルンの『客』であるシアの部屋にはエーデルホルンの灯りが用意されている。

 あの国で最も普及している照明器具は――


「蝋燭」


「ろうそく、なに」


「脂の塊」


 ルーヴェがすんと鼻を鳴らし、ひょうんと一足飛びで椅子へ。そして卓の上へ。

 ずどんと卓を揺らした彼女は身をかがめ、卓の上の何かを掴んだ。

 渡されたのは三叉状の燭台だった。


 鏃を下に向け、卓に放つ。

 すどん、と矢が立ち、矢羽が震える。

 弓を脇に抱え、火打ち金を取り出す。

 鋸状の刃を金具に添え、鞘から剣を引き抜くように擦る。


 ちぢじっと火花が散る。


 蝋燭の芯が光の粒を捕まえ、ぽうっと小さな火が灯る。

 子供の足で三歩ほどの視界が確保される。


 しゅあっと背後の闇から何かが飛びかかる。


「……!」


 振り返ろうとした瞬間、ルーヴェの喧嘩剣が垂直に振り下ろされた。

 ぎゃびっと気色悪い悲鳴を上げ、小型恐竜が卓の上で跳ねる。

 その胴をずどんとルーヴェが踏みつける。

 ごぷぷ、と口から何かが飛び出す音。


「ワカ。わたし、なにする?」


「シアを起こして護れ」


 ルーヴェは返事をしなかった。

 拒む理由はないし、ワカツは何をするのと問い返す理由も無いのだから、返事は「はい」しかありえない。

 決まり切った返事を言葉にする必要は無い。


 卓を蹴ったルーヴェが闇に溶け、辺りに静寂が残された。


 四方を獣に囲まれるがごとき緊張。

 矢を番え、腰を落とす。


 この場で長弓が不利であることは分かっている。

 だが素手では更に不利だ。


 卓の上で死んだ一匹がびくっ、びくっと痙攣している。

 口から糸のように流れ続ける血の滝が時折途切れ、やがてぴちゃちゃと血だまりを叩いた。


 ぱちゃりとその上を何かが踏んだ。

 振り返りながら矢を放つ。

 闇に浮かび上がりかけていたトカゲが射抜かれ、再び闇に消える。

 がぼんと壁面にぶつかる音。


 ききい、きい、きいい、と威嚇音が俺を包んだ。

 中にはここっ、くこっという鳥めいた声も混じっている。

 前者が媚竜コンピーとかいう奴で、後者がさっきの新顔だろう。


(……) 


 何かおかしい。

 そう気づいた瞬間、さざなみめいた音に囲まれる。


「!」


 ざざざ、ざざざざ、という音が俺を包んでいる。

 空いた窓から夜風が入り込んだのかと思ったが、違う。

 微かに爪音が混じっている。小型恐竜たちが俺の周囲を旋回しているのだ。

 まるで暗殺者集団が貴人の乗る籠を円陣で包むように。


(……)


 不気味な動きだった。

 もしかすると大型の獲物を仕留める時はこうした行動を取る習性があるのだろうか。


 ざざ、ざざざざ、と円に近い軌跡を描き、恐竜が駆ける。

 俺は矢を番えた姿勢のまま、左右に目を走らせる。


 試しにだんと卓を踏んでみると、そこだけ陣が広がり、またすぐに閉じた。

 気味の悪い動きだが、隙が無い。

 奴らが円形に走り回っているせいで陣形を崩せない。


「っ!」


 これではどこから襲われるのか想像ができない。

 せめてもう少し灯りが大きければ矢で数を減らせるのだが。

 そう考えた俺は腰を屈め、矢から手を離――




 熱が足を掠める。




「!」


 後ろ。

 気づいて振り返った時には、また後ろ。

 脛を噛まれ、振り返った俺の脛にまた恐竜が噛みついている。


「! ……!」


 足にぶら下がる恐竜は二匹。

 色は明るい黄緑色で、ラプトルを十分の一ほどに縮めた姿だ。

 大きさは確かに猫ほどしかない。


 だが、口には牙がある。指先には爪もある。

 二頭の恐竜は俺の脛と膝に噛みつき、その肉をかじろうとしていた。

 念のためズボンの下に寝具を巻き付けていたので牙が深々と突き刺さることはなかったが、先端は確実に俺の肉を削っていた。


「~~~!」


 俺は弓の先端、はずの部分で思い切り一匹を小突いた。

 が、一向に離れようとしない。がじがじと木にかぶりつくようにして俺の脚に噛みついている。

 その牙が脂肪質に達した瞬間、全身にかっと火が点くようだった。


(……!)


 まずい。

 そう思った次の瞬間、渦状の陣形を離れた数匹が俺に飛びつく。

 肩に。腿に。腰に。


 全身にへばりつかれたことで身が傾ぐ。

 俺にしがみつく恐竜どもの尾はぶらんぶらんと揺れ、爬虫類特有の土臭さがつんと鼻腔をついた。

 脛に噛みついていた奴らは既に布地を引き裂き、その下の寝具まで噛み破ろうとしている。


「……! ……!」


 思わず弓を手放したくなる。

 殴れば早い。掴めば早い。

 そんな本能が俺の手足を動かそうとする。


 すおおおお、と深く息を吸う。

 噛みつかれた場所がじくじくと痛むが、頭は冷えていく。


 弓兵は取り乱してはならない。

 今まさに喉を食い破らんとする獣も、百歩離れた場所で我が子を襲う敵も、等しく射抜かなければならない。

 敵の遠近は関係ない。

 射抜けるか。射抜けないか。弓取りが考えるのはそれだけだ。 


 全身に噛みついた恐竜は?

 ――当然、射抜ける。

 ならやることは一つだ。じたばたして体力を使うな。


「……!」


 五匹もの恐竜を全身にへばりつかせたまま、俺は前傾姿勢を取る。

 きげえ、くげえ、と周囲からも鳴き声が浴びせられる。


 鏃がゆっくりと脛に噛みつく媚竜コンピーを向く。

 手を離す。

 つじょっ、と頭を射抜かれた竜が脱力し、卓の上に落ちる。


 静かに矢を番え、そろりと足を前後に開き、もう片方の脚に噛みついた奴を狙い、射抜く。

 つぱん、と頭蓋がひしゃげ、目玉が落ちた。


 痛い。全身が痛い。

 だが刀で切られたわけではない。矢を射られたわけでもない。

 この程度で取り乱しては唐兵の笑いものだ。


 隣室ではルーヴェが恐竜を踏み殺し、縊り殺し、切り殺す音が響いている。

 どたんばたんと何かが壁を叩き、ぎいえ、ぐええ、と鳴いている。

 喧噪の中、矢を番える。


「フーッ……フーッ……!」


 じりじりと傷口が痛む。

 腰に組みついてめちゃくちゃに爪を振るう一匹を、射抜く。


 肩――――の奴はさすがに狙えないので、利き手で引きはがす。

 食い込んだ爪がぶちぶちと布や肉の繊維を引きちぎった。

 四肢を振るい、じたばたと媚竜が暴れる。

 爪が頬を掠め、唇を切る。


 俺は奴を放り投げた。

 ずだんと背を打った竜は再び俺の方に跳びかかり――矢で胸を射抜かれる。


「フぅ、フうっ、ふっ!」


 傷が熱を帯びている。

 恐竜の息遣いは消えていない。


「ワカ!」


 寝室の扉が開かれ、ルーヴェが乱入した。

 彼女は大きな布を手にしているらしく、ぶおおお、と風が巻き起こるほどの勢いでそれを振るった。


 円を描いていた恐竜たちが絡め取られる。

 くぎい、きゅぎい、と濁った声。


「ワカ、ひ!」


 びじゃあ、と液体が撒かれる音がした。

 そちらへ蝋燭を放り投げると、ルーヴェが放擲した布がわっと燃え上がる。


 炎の帳が映し出したのは、三匹の鶏冠つき恐竜だった。

 先ほどフソン=ブソンが切り殺した奴だ。

 大きさは大したことがないものの、用心深く俺たちを睥睨している。


 びゅんと跳んだルーヴェが俺の隣に立つ。

 矢と顔を鶏冠恐竜に向けた、低い声で問う。


「シアは?」


「起きない。恐竜はころした」


 斜陽にも似た橙色の炎が室内を照らし出している。

 焼かれる媚竜コンピーが哀れな悲鳴を上げている。


 三匹の恐竜は、じっとこちらを見つめている。

 驚くほど冷静だ。あるいは愚鈍なのか。

 一見して動きの鈍い肉食生物は、射程に入った瞬間に狂暴さを発揮する。


「そいつら、すごく跳ぶ」


「そうか。……」


 鏃を奴らに向けながら、俺はラプトルのことを思い出していた。

 ラプトルは矢に反応した。

 こいつらももしかしたら飛来する矢をかわすことができるのかも知れない。


 唾の塊をごくりと飲む。


「はずしたら跳ぶよ」


「……」


「近づかないとだめ。跳ばせてからじゃないと、や、あたらない」


 俺とルーヴェは合図もなく二手に分かれた。

 ずとんすたんと床に降り立ち、左右から挟み撃ちにする形で奴らに迫る。


 そろり、そろりと。

 盗人じみた足取りで近づく。


 六つの眼球がきょろきょろと左右に動き、俺たちを追う。

 ルーヴェは切っ先を天に向けて構えた武士のごとく、ゆっくりと真横に移動している。

 そろりと足が交差し、そろりと開かれ、また交差する。


 俺もそれに倣い、恐竜たちをじっと見つめたまま水平移動する。

 鏃は三匹に向けたままで、頬を伝う汗も拭えない。


 三匹はまるで無害な鳥のようにじっとしていた。

 俺たちを目で追う者もいれば、そうでないものもいる。


「!」


 びたんばたんと布に捕らわれた恐竜が暴れだす。

 布が引き裂かれ、炎を纏う小型恐竜が四方八方に散る。



 それが合図となった。



 ルーヴェが目にも留まらぬ速度で踏み込み、一匹を切り伏せる。

 二匹の姿が消える。


「?!」


 はっと上を見る。

 天井付近まで跳んだ恐竜が今まさに俺目がけて落下しようとしていた。


「――――!!」


 ゆっくりと時間が流れていく。


 奴らは四肢を突き出した姿勢のまま俺の顔へ落下しようとしていた。

 口は開かれ、鋭い歯がむき出しだ。一秒前までの姿とは似ても似つかない狂暴な顔。


 立ったまま射ても間に合わない。

 それを頭ではなく体で察した俺は背を丸めながら後方へ倒れ込む。


 倒れながら、狙いを定め、矢を持つ手を離す。

 びびび、と矢羽が頬を掠める。

 放った矢が命中したかを確認する間もないまま、横転。


 肩、腰、肩の順で床を打ち、立ち上がりながら矢を掴む。

 射抜かれなかった一匹が床に爪を突き立てている。

 奴がぐりんと首を巡らせ、こちらを見る。


 俺は矢を番えながら灰緑色の恐竜に近づき、至近距離でその矢を放った。






「ふっ……! ふっ……!」


 汗が噴き出すのを感じながら、注意深く室内を見回す。

 血の匂いと料理の匂いが混じり、吐き気を催すほどの悪臭が漂う。


「あとはあれだけ」


 ルーヴェが指さす先では、したた、したたた、という足音が聞こえていた。


「……?」


 見れば数匹の媚竜コンピーが窓に這い上がろうとしてぴょんぴょん飛び跳ねている。

 高さは僅かに足りていない。

 前足で身を持ち上げることができないので脱出できないのだろう。


「ころすね」


「待て」


 俺が射殺した奴らは異常なほど好戦的だった。

 一方、今逃げようとしている奴らは臆病で無害だ。

 フソン=ブソンの言が正しいのであれば、おそらく逃げようとしている奴らが本来の媚竜コンピーの姿だろう。

 では、俺に向かって来た媚竜は?


 俺は今しがた殺した黄緑色の死体に目をやった。


(……!)


 目が赤い。

 まるで病気の魚のように赤黒く変色している。


 異常な興奮と攻撃性。

 それにこの外見。


(投薬されてる……?)


 一兵である俺には断言できないが、そう考えるのが適切なような気がした。

 病気にしてはこいつらは元気過ぎた。

 となると、この異常な興奮は人為的にもたらされたものと考えるのが自然だ。


「……」


 無害な媚竜コンピーを野に放ち、警戒心を緩める。

 同種の狂暴な奴をけしかけ、混乱を煽る。

 最後に薬で狂暴性を増した媚竜コンピーをけしかける。


 気に入らないやり口だ。

 だが効果的ではあることは間違いない。

 現に、窓の外ではあちこちで悲鳴が聞こえ始めていた。

 野太い男のものもあれば、女のものもある。


 唐の乾いた空気に、血の匂いが混じり始めている。


(……いるな)


 間違いなく、いる。

 奴ら――恐竜人類の中に『科学者』がいる。


 そいつと同一人物かどうかは分からないが、恐ろしく卑劣な奴も混じっている。

 この波状攻撃、アキやヨルのやり口のようには思えない。

 ――いや、今考えるべきことではないか。


「シアは?」


「噛まれてた」


「消毒」


「した。おさけ、かけた」


 俺はルーヴェに続いて寝室に入った。

 蝋燭に火を移し、首をねじ切られた媚竜の死体をまたぐ。


 オリューシアは布団をかぶり、丸まっていた。


「……シア」


 俺はむんずと頭を掴んだ。

 ――頭はなぜか柔らかかった。


「ワカ」


「何だ」


「それ、おしり」


「……」


 布団をめくると、シアは尻を突き出した土下座に近い姿勢で眠っていた。

 ルーヴェと同じスリット入りドレスを着ている。

 色は黒だ。白い足が珍しい魚のようにつるりと伸びている。


「……」


「……」


「おい。シア」


 すー、すすー、とシアは完全に熟睡している。

 よく見ると腕や頬に噛み傷があったが、まったく気づいた様子は無い。

 俺は目を細め、彼女の口元に鼻を寄せた。

 唾液以外に妙な匂いはしない。


 フソン=ブソンは『一服盛った』などと嘯いていたが、あれは嘘だ。

 シアほどの腕利きが毒の味に気づかないわけがない。


(……経口じゃないな。血に直接入れられたのか)


 悪いと思いつつも彼女の体をまさぐった俺は、腋の部分に切り傷を認めた。

 どうやらここから毒を入れられたらしい。

 呆れるほどの歴史を持つ唐の毒、それもハンリ=バンリのような隠密が使う毒について俺は一切の知識を持たないが、仕組みは想像がつく。


 手順はこうだ。

 おそらく湯浴みか按摩をしながら適当な理由をつけて腋に傷をつける。

 香油を塗り込むときにさりげなく毒を血中に送り込む。

 その後の食事で特定の××あるいは××を経口摂取させる。

 新たに摂取された毒は既に吸収された毒と反応し、強力な麻酔として作用する。


 単独では無害な毒素を別々に摂取させ、体内で毒に変える。

 殺し屋がよく使う手だ。


「シア、どうする?」


「このままにはしておけない」


 シアを担いで部屋を出る。

 さすがに完全に脱力した彼女は重かった。


 恐竜の死体をまたいだ俺はふと気づく。


(何でこの部屋にだけこんなに……?)


 俺の部屋に現れたのはあの一頭だけ。

 なのにシアの部屋には大量の恐竜がなだれ込んできた。

 単に位置の問題だろうか。

 それとも――――


 ルーヴェがぴたりと足を止めた。


「……。……ワカ」


「……」


 言われるまでもなかった。

 俺の目にも見えていた。



 十数人の唐兵を率いるフソン=ブソンとハンリ=バンリが通路に立ちはだかっている。


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