万竜嵐
icecrepe/氷桃甘雪
【冒涜大陸】
第1話 1
秋ほど憎らしい季節は無い。
青々と茂る葉が赤く色づくのが嫌いだ。
酒に酔った男のようにも見えるし、色恋で浮かれた女のようにも見える。
柿が熟れ、芋が焼かれ、甘ったるい匂いがするのも気に入らない。
祭りが増えるのも大嫌いだ。
秋は世界を賑やかにする。
――だから嫌いだ。
その秋風が窓から吹き込んでいる。
夏を看取った涼しい風は土の湿り気を含んでいた。
「きゅ、
書き物机に脚を乗せ、うつらうつらしていた俺はゆっくりと瞼を持ち上げる。
執務室の入り口に目を向けると、滝の汗をかいた
「え、エーデルホルンから使者が来ております!」
隣国の名を耳にした俺は寝起きの頭で考えた。
今日の予定。
朝起きて、飯を食って、寝る。
「来客の予定は入ってない」
突き放すようにそう告げたが、丁稚は食い下がった。
「それが、お約束も無いまま来たとのことで……えと、トヨチカ様がすぐに九位を」
少年が言い終えるより早く、背の高い男がぬっと現れた。
革の腹巻を纏い、太刀を
「トヨチカ。エーデルホルンから客が来てるんだって?」
笑いながら言葉を放ったが、トヨチカは珍しく神妙な顔で頷いた。
「ええ、九位。客人です」
その慇懃な口調に俺は眉を上げる。
記憶している限り、トヨチカが敬語を使うのは初めてだ。
どうやら本当に客が来ているらしい。それもただならぬ客が。
「お召し物を。じきにここへいらっしゃいます」
寝起きで半裸だった俺はざらざらした黒い肌着に袖を通し、精鋭であることを示す緑色の
水を思わせる透明の布地を目の当たりにし、丁稚が感嘆の吐息を漏らす。
長い黒髪をニシキヘビの皮でこしらえた髪留めでくるくると巻き、矢の詰まった
籠手を巻き、身の丈を超える長弓を掴んだ。
これで良し、と言おうとしたところでトヨチカがわざとらしく咳払いする。
「九位。袴は?」
「嫌いだ」
「嗜好の話じゃありませんよ」
「機能性に乏しい」
俺は本来の正装である袴と草履ではなく、黒いズボンと革のブーツを履いていた。
「呆れられますよ」
「いつものことだろ。……で、エーデルホルンの誰だ?」
トヨチカが顎で扉を示す。
それを待ち構えていたかのように、一人の女がすっと執務室に入って来た。
「!」
若い女だった。
背が高く、目鼻立ちがすっきりしている。
肌の色は俺やトヨチカよりずっと白く、顔の造りも全く違う。
束ねた髪は鮮やかな山吹色で、蝋燭の火のごとく揺れていた。
瞳の色は黒で、長い髪が片方の目を隠している。
「初めまして。ワカツ九位」
思わず聞き入ってしまうほど冷涼な声だった。
年は俺より少し上だろうか。
純黒の軍服は銀糸で縁取られており、胸には百合の徽章。
佇まいだけ見るとお飾り軍人のような印象を受けるが、室内に入った瞬間の視線と足運びで分かる。かなりの手練れだ。
(――――)
俺は女を見つめたまま天井裏に潜む
つまりこの女に危険は無いらしい。
「エーデルホルン王国、
舌を噛みそうな口上を述べ、彼女は背後に合図を送った。
真っ黒な全身甲冑に身を包んだ騎士たちがかちゃかちゃと入室し、机や椅子、棚を壁際に寄せていく。
眉根を寄せた俺の眼前に帆布に覆われた『何か』が運ばれた。
トヨチカが招じ入れ、忍者が素通りさせた客だ。中身が危険物ということはないだろう。
「お初にお目にかかります。俺は――」
「存じ上げています。
(……)
この葦原において弓は武道であり、芸術であり、哲学であるとされている。
いかに美しく弦を引くか。的の中心を射抜くか。残心を決めるか。弓兵の格はこうした指標で決められる。
ばかばかしい話だ。
いざ敵と相対した時、背筋を伸ばす必要はない。頭や心臓を射抜く必要も、残心を決める必要すらない。
鏃に細工し、毒を塗り、草の陰や岩の隙間からしゅっと矢を射ればいい。毒の種類によっては掠めただけで死なせることができる。
それを射会の場で口にしたところ、俺は大ひんしゅくを買った。
口は禍の元と言うが、まさにその通りだ。
葦原では弓兵の上位十名に
実力から『五位』の座を賜るはずだった俺は『九位』の座に貶められた。
その上、『蛇飼い』なんて不名誉な二つ名まで広められてしまい、こんな僻地に左遷された。
本気で礼儀作法がくだらないと思っているわけじゃない。
ただ、誰もが疑問に思うであろうことを口にしただけだ。
俺が間違っているならそうだと言ってほしかった。
理屈が無いなら無いでいい。それが葦原の弓道だ、と一喝してくれればそれで良かった。
だが誰もそうしなかった。
不用意な発言を聞いてもにこにこしていた貴族や名士はすべてが終わった後に襖の向こうで俺の振る舞いを悪しざまに罵り、薄ら笑いと共に俺の陰口を広めた。
俺にはそれが許せなかった。
俺が必死に弓の腕を磨いたのはこの葦原という国に尽くすためだ。
一兵の無礼すら面と向かって叱れない、卑劣な貴族を喜ばせるためじゃない。
――――この国に、俺の人生を捧げたかった。
男の一生は「誰のために生きたか」で決まる。
肉親もおらず、嫁をもらえる見込みもない俺は、国にすべてを尽くすつもりだった。
忠誠に値しない奴らが
俺は袴を捨て、ズボンを履いた。
二つ名に恥じぬよう矢毒の製法を学び、ニシキヘビの髪留めを巻くことにした。
今では茶会にも宴にも呼ばれない。
俺は国九番手の弓取り、『蛇飼いワカツ』。
「
「そのようにお考え頂いて結構です」
オリューシアは一秒でも早く会話を打ち切ろうとしているようだった。
俺は続く問いを飲み込み、荷台に乗せられた巨大な『何か』を見下ろす。
(酷い臭いだな……)
俺はもちろん、トヨチカや戸口の丁稚までもが顔を顰めている。
もしかするとこの騎士達も面頬の下では同じ顔をしているのかも知れない。
それほどまでに酷い――――死臭だった。
「オリューシア殿。これは?」
「
「ドラゴン? ……貴国の寓話で語られる、火を噴いて空を飛ぶトカゲのことですか?」
「はい」
「……」
俺は帆布で覆われた『何か』を見下ろす。
「まさか
口元から儀礼的な笑みが消えるのが分かった。
まさかこの女、はるばる国境を越えて俺をからかいに来たのだろうか。
「いえ、
オリューシアは荷台に屈みこみ、帆布に手を掛ける。
「我々はこれを――――」
ばさりと布が取り払われる。
「『恐竜』と名付けました」
室内に「うっ」という呻き声が連なる。
そこに横たわっていたのは熊ほどの巨体を持つトカゲの死体だった。
全身血だらけで、開いた口からはでろりと舌が垂れている。
俺は慄然としながらもその生物をまじまじと観察した。
(何だ、これは……?!)
その生物の体表は浅緑色の鱗に覆われていた。
顔は細長く、角や鶏冠(とさか)を持たない頭部はつるりと丸っこい。
顎から覗いた牙は一つ一つが短剣のように長く、鋭い。長い尾には鞭を思わせるしなやかさがあった。
前脚はやや短いが、先端には極太の鎌を思わせる爪が伸びている。
熊の爪ですらこれほどまでに凶暴な形状ではない。狼だって、狒々(ひひ)だってそうだ。
これは子を抱く生物の手ではない。
恐竜の全身を覆う乾いた血は赤黒い石のようだった。
真正面から剣で薙ぎ払われたのか、太い脚には裂傷が残されている。
致命傷になったのは頸部の刺し傷らしい。そこだけ傷口付近に大量の血がこびりついている。
腹部にもあちこち穴が開いているが、そこからは血が流れだしていなかった。
(……)
普通、ワニやトカゲの四本足は身体の側面から伸びる。
だが『恐竜』の後足は骨盤付近から真下に伸びていた。
ふ、とオリューシアが物憂げな溜息を漏らす。
「お察しの通り、二本脚で立ちます」
「こいつが二本脚で立ったら大人より背が高くなる」
「残念ながらその通りです。……それの名は『
「
俺は恐竜の口元へ手をやり、獰猛な牙に触れた。
明らかに肉を切る形状をしている。
悪寒が背を這い上がった。
「オリューシア殿。失礼ですが、こいつの胃を割かせていただきたい」
「割くまでもありません。ご想像の通り、ラプトルは人間を捕食します」
総毛立つ俺をよそに、オリューシアは淡々と続けた。
「このラプトルは貴国の国境付近で捕獲したものです。我が国に出没する個体には羽毛が生えているのですが、同じ種と見て間違いありません」
人食いトカゲが葦原の国境で見つかった。
その事実に俺は眩暈を覚えながら立ち上がる。
「……こんな生き物は見たことがない」
「でしょうね。『冒涜大陸』から湧き出すようです」
「……冒涜大陸から?!」
俺は窓へと目を向けた。
空はからりとした快晴だが、見通しは悪い。
砦の二階から見える世界は真っ白な霧に包まれている。
目を凝らせば山の峰や背の高い木々がうっすらと見えるものの、生物の姿は視認できない。
霧の向こうに広がる大地は『冒涜大陸』と呼ばれている。この大陸の七割から八割を占める広大な土地だ。
そこには肥沃な大地が続いているとも骨だらけの荒野が続いているとも言われているが、確かめた者はいない。
その理由がこの『霧』だ。
霧の中に一歩でも足を踏み入れると、五感を狂わされる。
見ているものが匂いに変わり、音に変わる。
音が文字や色彩に、香りが音に、目に見えるものが味へと変わる。
また、この『五感崩壊』は人間のみならずほぼすべての生物に作用する。
馬や牛、犬や鳥ですらこれを逃れることはできない。
この大陸の七割から八割を占める広大な土地は、いまだどの国にも属していない。
霧の中へ踏み込めば死ぬからだ。
五歩までなら生還の見込みもあるが、霧の中に十歩踏み込めばもう帰還することはできない。
火を放って霧を散らし、中へ入ろうとする試みもあったらしいが、ことごとく失敗に終わっている。
文字通り人跡未踏の土地。それが『冒涜大陸』。
草地を見下ろせば昼間から賭博に精を出す雑兵の姿が見えた。
ここに左遷されるほどの荒くれ者ばかりだが、『霧』から三十歩ほどの距離を置いている。
彼らにラプトルの死体を見せ、その霧の向こうから現れるのだと告げたらどんな顔をするだろうか。
「エーデルホルンでは日増しに被害が深刻化しています。……ですが葦原付近でも恐竜が見つかった以上、我が国一国の問題ではありません」
オリューシアは冷徹な印象のある顔に焦りを滲ませていた。
「『冒涜大陸』と国境を接しない国はありません。今やどの国も恐竜の群れに襲われる危険性を抱えている。……一刻も早く各国の力を結集し、この生物を駆逐しなければなりません」
壁に飾られた地図に指を置き、オリューシアが国の名を読み上げる。
「既に私と同じような使者が既に各国へ遣わされています。――――」
この大陸には冒涜大陸の周縁をなぞる形で五つの国が存在する。
寒冷な気候の北部を統治するのは黒い大国『エーデルホルン』。
『騎士』と呼ばれる男たちが軍の中核を占めており、近年では銃や大砲といった技術が目ざましく発展している。
温暖湿潤な大陸東部には禿頭の男たちの国、紫色の『ブアンプラーナ』が広がっている。
世界最強の『象軍』を擁する国だが、自ら他国に攻め入ることは無い。
北と東の大国に挟まれているのが俺たちの国、青の『
国土こそ狭いが、『武士』と呼ばれる苛烈な戦闘集団を有しており、海上戦闘にも秀でている。
大陸南部には葦原と文化的な近縁性を持つ最古の国家、赤の『
五か国中最大の国土と民を抱えているが、いまだ内乱のただなかにある。
そして大陸西部を支配するのが、白い帝国『ザムジャハル』。
国土の大半が広大な砂漠であるため他国への侵略に積極的であり、冒涜大陸へも幾度か侵攻を試みている。
女軍人の指が砂漠を通ったところで俺は怪訝に思った。
「貴国とザムジャハルは戦争状態が続いているはずでは?」
「今は人間同士で争っている場合ではありません」
言葉を被せたオリューシアの目には有無を言わせぬ響きがあった。
「盗竜だけが恐竜のすべてではありません。象並みに巨大な個体や家禽のように小さな個体も確認されています。もしあれらが押し寄せれば人類は食う側ではなく食われる側に引きずり下ろされる」
ワカツ九位、と彼女は縋るような口調で続けた。
「一刻も早くこの砦を引き払ってください。もしここに肉食恐竜がが現れたら一大事です」
「――いや、正式な指「既に貴国の
俺が口を開こうとすると、オリューシアは畳みかけた。
「正式な指示は救援の部隊がお持ちするそうです。ですがそれまでに恐竜の軍勢が押し寄せないとも限りません」
「……」
「九位。とにかく急」
「待て」
割って入ったのはトヨチカだ。
彼は今、傷だらけの鉢巻の下に険しい表情を浮かべている。
「真に受けるなよ、九位。……砦を引き払えだと? 冗談じゃないな。ここは外敵を――」
「引き払ったところで何の問題があるのですか?」
「何ィ?」
「ここは霧の向こうから現れるかもしれない唐やザムジャハルの軍勢を抑えるための砦なのでしょう? それで、一度でも霧の向こうから人が来たことがありましたか?」
ぐうの音も出ない正論だった。
ここは『生物が通過できない霧を通過して現れるかもしれない軍勢』を見張るための砦。その存在がすでに矛盾を孕んでいる。
言ってしまえば俺やトヨチカのようなはみ出し者を
常駐している人員はごく僅かで、設備も貧相極まりない。
見捨てて逃げ出したところで差し当たって問題はない。
「問題なら大ありだ。あんた達がここを占拠するかもしれないだろ」
「我々がこの砦を?」
古びた天井や床、亀裂の入った壁に目を這わせたオリューシアは冷笑を浮かべた。
それがトヨチカの気に障ったらしい。
「葦原の友好国はブアンプラーナだけだ。敵国の忠言なんざ、聞く耳持たねえ」
「国境警備の方々も
「ああ」
「我々もまた危険を冒してここへ来たのに、ですか?」
「ああそうだ。第一、本当に都まで行って話をつけて来たのなら俺たち宛に一筆あってもいいはずだろう? この女の言うことは本当だ、って二位の旦那辺りが言ってくれりゃ俺もワカツも喜んであんたに従うさ」
「……。残念ですが、そういったものは預かっていません」
「ほー。何でだ? 急いでいたからか? 見ず知らずの俺たちのために?」
黙り込むオリューシアを前にトヨチカは獰猛な笑みを見せた。
「ワカツ。引き上げるなんてもってのほかだ。この砦に立てこもって救援を待とう。この女の言うことが本当なら必ず誰かがここに来る。考えるのはその後だ」
オリューシアの端正な顔に暗い怒りが覗いた。トヨチカも呼応し、眉間に皺を寄せる。
二人は僅か五歩の距離で睨み合っていた。
黒い甲冑の男たちの手がぴくりと動き、今にも剣の柄に置かれようとしている。
「おいワカツ」
「ワカツ九位」
二人は同時に俺を振り返る。
「こいつら縛り上げようぜ。ちょうど身体がなまってたんだ」
「失礼ですが、彼に退室をお命じください。建設的な話をしたいので」
俺は腕を組んだ。
どちらの言うことにも一理ある。
トヨチカの疑惑は言いがかりに近いが、現実問題としてオリューシアは手ぶらでここへ来ている。不用意に信じることはできない。
それでいて恐竜の死骸は本物なのだから始末に負えない。
残るか、退くか。
俺は気を鎮めるべく、瓶詰の野沢菜を手に取った。
しょり、と最初の一口を齧る。
砂糖水に漬けているので甘く、疲れた脳にじんと効く。
トヨチカが毒気を抜かれたように頭をかき、オリューシアが口元に手を当てた。
「またそんなもの食ってるのかお前」
「……胸が焼けそうですね」
ぼりぼりぼりとを食い、根まで残さず咀嚼する。
俺は親指を舐め、決断を下した。
「オリューシア殿」
「何でしょう」
「貴官の話、俺は信じる」
氷の彫像を思わせるオリューシアの唇に微笑が浮かぶ。
「が、ここを放棄するつもりは無い」
女剣士の顔が再び強張った。
「
「それでは手遅れになると思ったから私たちは直接足を運んだのですが。お分かりいただけませんか」
オリューシアの声音には明確な苛立ちがあった。
「ラプトルの生態はどこまで分かってる?」
「すべての情報を開示することはできませんが、肉食性の卵生生物であることは確実です。気性は荒く、腐肉ですら食らいます」
「他には?」
「群れで狩りをすることが分かっています。爬虫類にしては極めて知能が高い。ですから「そのラプトルを」」
言葉を割り込ませた俺は弓弦をぴんと弾いた。
「……あんた達はどうやって仕留めた?」
「ご覧の通り、重装歩兵の連隊で仕留めました。かなり苦戦しましたが、足首を切り、取り囲んで四方から串刺しに――」
俺は彼女を睨んだ。
「嘘をつくな」
俺の放った言葉にもオリューシアは顔色を変えなかった。
が、鎧を着こんだ連中がかちりと僅かに身じろぎする。
「こいつの後脚は地面に向かって真っすぐ伸びてる。その上、この筋肉量だ。ワニやトカゲみたいにずるずる動く生物じゃない。『跳躍』して獲物を仕留めるはずだ」
トヨチカ、と俺は声を投げた。
「このラプトルがどこかから突っ込んできて、弧を描いてお前に飛びかかったとする。その状況で、お前こいつの足首を斬れるか?」
「斬れるな」
「じゃあ、実際に斬るか?」
トヨチカは瞳を細め、数秒黙り込んだ。
未知の生物との戦闘を脳裏に思い描いているのだろう。
「いや、斬らない。体重差があり過ぎる。……突くか、かわすかだな」
「騎士の鎧を身に着けていたら?」
「突く。その方が手っ取り早いし、そもそもそいつらの重装備じゃ飛んでくる奴の足首を斬るなんて――」
トヨチカが黙り込み、ラプトルの傷口を見る。
俺はオリューシアを振り返る。
「俺もそう思う。足を斬って四方から串刺しってのは不自然だ。が、現にこの死体は足を斬られて四方から串刺しにされてる」
いや、正確には「四方から」ではない。
足を斬り、転んだところで首をひと突き。この一撃でラプトルは息絶えたのだ。
現に腹や胸の穴からは血が流れだしていない。おそらく死後、剣で串刺しにしたのだろう。
「何で死んだ後に串刺しにするんだよ」
「ラプトルを簡単に仕留めたことを隠すためだ」
「何?」
俺は盗竜の頭を弓で小突いた。
「こいつが棲んでるのは霧の向こう側だ」
トヨチカは顎に指を置こうとし、あっと声を上げた。
「霧の中とこっちとで感覚が違うのか」
「そうだ」
霧海の中では視覚、聴覚、嗅覚といった感覚が入り乱れる。
音が文字と化して目に飛び込み、目に映るものは味覚に五百の味わいを刻み、匂いは千の楽器の音となって頭の中に響き渡る。
その中で生活していた恐竜が、こちら側の土地でまともな感覚を維持できるわけがない。
「霧を出たばかりの恐竜は弱いんだよ。たぶん棒立ちだ。だからこいつらは簡単にラプトルを仕留めることができた」
ただしそれは霧を出た直後の話だ。
人肉を食うという話が出た以上、霧から飛び出した恐竜は間もなくこちら側の感覚に順応するのだろう。
あるいは、霧の向こうにも五感を正常に維持できる土地があり、恐竜は普段そこに棲息しているのかも知れない。
「ところが、だ。それをそのまま俺たちに伝えると『砦を引き払う』なんてことは絶対にしなくなる」
「まあ、それはそうだな。霧を出て時間が経つほど元気になるのなら、ここに陣を敷いた方がいい」
「だから死体に細工したんだよ。わざわざ死んだ後に傷を増やして、激戦があったように印象付けた」
「はー……俺たちがここにいるとよっぽど都合が悪いんだなぁ」
オリューシアの目に警戒の色が浮かんだ。
それは俺たちも同じだった。
この女、完全に信用はできない。
「俺は貴官の話を信じるが、貴官の助言は聞き入れない。悪いが、ここに踏みとどまらせてもらう」
「――」
オリューシアが花弁を思わせる唇を開きかけたその時だった。
「おい、ワカツ」
トヨチカの声に緊張を感じ取り、俺はそちらを見やった。
窓の外を見下ろす剣士の頬に一条の汗が伝った。
かたりと天井裏で忍者が動く。
「……来やがったぞ」
俺とオリューシアは顔を見合わせ、弾かれたように窓辺へ向かう。
ブーツがごつごつと床を叩くと、死んだ盗竜の歯が僅かに揺れた。
「っ」
窓辺にたどり着いた俺は絶句した。
二足歩行を始めたワニのごとき生物が一頭、こちらを見上げていたからだ。
体色は浅緑で、その目には鳥類の狡猾さが光っている。
クォ、と。
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