ただ、憎らしい

        *


 顔も見たくなければ声も聞きたくないと言ったのが効いたのか、あれ以来、姫様は離殿を訪れなくなった。

 修練の折に顔を合わせることはあってもそれだけで、口を利くこともない。

 萍とはたまに書物蔵への同行で時間を共有することもあるようだが――蔵の鍵については弟に任せてあるので、非番の日を除けば火茨が関わることはない――二人して姿が見えなくなる時がある……なんて噂が耳に届く以外は変わった様子もなく大人しいものだ。

 薊の存在など元よりなかったかのような歳月は恙無つつがなく過ぎ去って早二年。

 神子が十の年を数えたということで、気の早い人間が元服の話を、更に気の早い人間が今はまだ許嫁でしかない姫君との婚儀はいつ執り行われるのかといった話をちらほらと口に出すようになった。

 都輝姫の素行に口を酸っぱくして苦言を呈す者も増えたように見受けられるが、聞き入れられたという話を聞かない辺りは流石とでも言っておこう。

 良くも悪くも、彼女は彼女のままらしい。

 海色の美しい瞳も。

 光を受けて煌めく白糸の御髪も。

 年を重ねるにつれて幼さこそ抜けていくが美しさは増すばかりだ。

 姫様の白無垢姿はそれこそ神々しく浮世離れしていて、さぞ麗しいことだろう。

 神子が元服を迎えるよりも先に天還の儀を受けることとなる火茨にはどう足掻いても拝むことの叶わない姿であるが。


 年が明ければ十五となる。

 儀式の日取りも通達されて、仲違いのような関係になってから口数の減った萍と殊更ことさら、喋ることがなってしばらく。

 非番である為、蔵の鍵を預かろうと声を掛けた際に珍しく口を開いたので何かと思えば……。

「今日は縁側にいて」

「縁側に?」

 言っておくが霜月も終わりを迎える冬場である。

 絶対にいてよ! と少々の命令調で言い捨てるなり弟は身を翻して務めに向かい、引き止めることは勿論、理由を聞き返す間もなかった。

 ……縁側にいることでいったい何があるのやら。

 弟からの頼みを無視することも出来ないので仕方なく熱いお茶と火鉢を用意して、二年の間に整え直した庭先や灰色掛かった雲を浮かべる冬らしい空を眺めて過ごすことにした。

 暇さえあれば体を鍛え、弟にも鍛練を課し、基盤を固めるのに奔走した二年。

 新たな忌子が村に産まれたとの報せを受けた時は頭を悩ませたものだが……よもぎと名付けられた稚児ややこはそれはもう大人しく、乳母役に任ぜられた女中――十五で天に還る忌子たちの中に乳をやれる者がいる筈もなく、離乳食を口に出来るようになるまでは内殿の女中に育てられるのだ――が、夜泣きさえ稀な、赤子とは思えない大人しさを気味悪がって入れ替わり立ち替わり。ことごとく泣いて辞任を頼み込むものだからつい数日前にも乳母役が変わったと聞く。

 行事の折には乳離れの如何に関わらず忌子のことは忌子に、と火茨たちに預けられるので何度か面倒を見たこともあるが、眠るのが大好きで、人懐こく、笑顔の可愛らしいの子だ。

 あれなら連れ出してもそう心配する必要はないだろう。

 不安は多いに残るものの形は整った。

 出来ることも尽くした。

 後は天還の儀を迎えるだけ……。

 深い深い息を吐き出して、何とはなしに横になる。

 冷たい板は火茨の体温を奪うも、すぐに温かくなる。

 瞼の上に手を被せる。

 ……薊には叱られるだろうか。

 蓮には笑われそうだ。

 そうして二人して、俺のことを馬鹿だと言うのだろう。

「ねぇ、私のお願い聞いて下さらない?」

 いつかのように頭上から落とされた言葉に、ゆっくりと被せていた手をずらす。

 晴れた視界の先でこちらを見下ろす相手は眉を下げて控えめに笑った。

 相も変わらず宝玉のような青色の瞳を数秒眺めてから口を開く。

「……書物蔵の鍵ですか」

 彼女の腕には一冊の書物が抱え込まれている。

 しかし、わざわざ火茨が鍵を預かっている日を選んで訪れたということは、まあそういうことだろう。

 寝転がったままお節介な弟の顔を思い浮かべる。

 外している布面に手を伸ばすこともしないで太々ふてぶてしい態度を取る自分を咎めもせず都輝姫は懐から鍵を取り出しながら頷いた。

「はい。内鍵はもう借りて来ています」

 分かりました、と返してようやく起き上がる。

 布面を身に付けた後は書物蔵に移動するまで、それ以上の言葉は交わさなかった。

 二年前より幾分も軽くなったように感じる扉を開き切り蔵の燭台に力を使って火を灯す。

 外で待つ姫様を振り返れば「不真面目になりましたね」と声を掛けられた。

「……天還の儀の日取りはもう決まっていますから」

 今更、言い付けを守る理由もない。

「良いことです」

 どこか楽しげに声を弾ませて都輝姫は火茨の前を通り過ぎた。

 良いこと、か……。

 燭台を手に取り蔵の中へと足を進めた彼女は早々に死角となる本棚の影に隠れて姿が見えなくなった。

 感情の籠らない淡々とした声だけが届けられ、責められているような気分にさせられる。

 事実、彼女はなじりたくて仕方ないに違いない。

 声を荒げて、支離滅裂に文句を並べ立てて。

 それを綺麗な言葉に置き換えて語るのだから上等な皮肉である。

「私たちはお互い、境遇が境遇故に仕方なきことなのでしょうが……随分と大人ぶった振る舞いが身に染み付いてしまっているように思います……特に火茨、あなたは本当に物分かりが良い。そして誰より周りのことをよく見ている……私の知る中では誰よりも大人でした」

「私に御不満がおありならそうはっきりと仰って下さいませんか」

 回りくどい言い回しに思わず眉を寄せる。

 棚の影からひょっこり顔を覗かせた都輝姫は、ではと言った。

「では一つ聞かせて下さい。萍の事は今でも大切に思っていますか?」

「当然でしょう」

 考えるまでもない。

 即答だった。

 火茨の答えに満足そうに笑った彼女は燭台だけを持って戻ってくる。

 抱えていた書物は何処かの棚に仕舞ったのだろう。

 ……蔵では見掛けない、真新しそうな書だったが。

「もし忌子ではなかったら天還の儀など受けずその生を全うしたいですか?」

 燭台を元あった簡易棚に置き直すと空いた手で腕を引いてきた。

 外に人目がないことを確認してからそれに従えば蔵内の影へ。

 誰かが通り掛かってもすぐには見付からない。

 自然と交わす声も潜めたそれとなった。

「……質問が二つになっていますが」

「構わないでしょう?」

「私は忌子としてしか生きて来ませんでしたのでその質問には答えかねます」

 氷のように冷たい指が布面に触れて、捲る。

「相も変わらず美しい瞳ですね」

 感嘆を漏らすような調子で姫様は言った。

 久しぶりに聞いた台詞である。

 離殿でも晒していたそれを改まって眺め、述べられた感想を瞼を閉じることで拒む。

 それは姫様の方だと、以前にも口にした言葉を心の内で繰り返しながら……。

 布面に掛かっていた指が頰に落ち、輪郭をなぞって唇に辿り着く。

「あなたは私の顔を見たくもなければ、声も聞きたくないのでしたね」

「ええ」

「それでも指は受け入れる」

 つぅと滑った指先は胸元を撫でて止まった。

 閉じていた目を開けば彼女は俯いており、こちらが反論を返す前に言葉を続けた。

「今日を終えればもう二度と言葉を交わす機会は訪れないでしょう……最後くらい本心をお聞かせ願えませんか?」

 縋るような、声だった。

 嫌いだと……虫唾が走るくらいに嫌いだと、答えるつもりで口を開くも言葉が続かない。

 これが最後であるのなら、せめて泣かせたくない……なんて。そんな利己心から突き放し切れない自分は彼女にとってどんなに残酷な人間だろうか。

 呑み込んだ言葉で声が震えないよう喉に力を込めた。

「……聞けない願いというものもございます」

 胸元に触れる指先を掴んで離し、遠ざける。

 顔を上げた彼女はこちらを見上げて泣きそうに歪んだ笑みを浮かべた。

 泣きそうでも、その瞳から涙が零れないのであればそれでいい。

「本当にあなたは……憎らしいくらいに大人ですね、火茨」

 帰りましょうか、そう言って踵を返した。

 蔵の出入り口に向かう彼女との距離が開いてから、その背に言葉を投げ掛ける。

「私の天還の儀が執り行われる日、儀式の刻限となるより前に萍をお訪ね下さい」

 振り返った彼女は外から入る光に照らさて美しく……海のように深く澄んだ青色の瞳は真っ直ぐ強い意思を秘めて輝く。

 光の中が似合う人。

 火茨の願いは、瑣末な欲を除けば単純なものだ。

 生きて欲しい。

 生きて幸せになって欲しい。

 その為に命を投げ出すことをどうして惜しめよう。

 姉が待っていることを思えば恐怖もない。

 叱られても、笑われても、泣かせることになったとしても、この願いだけは譲れない。

 これは二年前に叶えられなかった我儘の続きなのだ。

「用件については……お教えいただけないのでしょうね」

「お訪ね下されば分かるようにしておきます」

 だから、許しは求めない。

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