変わらない

 ――水路を右手に緩やかな蛇行を繰り返す道は思った以上に入り組んでいるようだった。

 脇道が多く、たまに水路側の壁が途切れてそこから先に道が続くこともある。

 等間隔に規格化された造りは明かりがなければ一寸先も見えない洞窟内であることと相俟って進めば進むだけ同じ場所をぐるぐると回っているような錯覚を覚えさせた。

 長く留まれば方向感覚を始め時間の感覚までもが狂いそうだ。

 しかし、やはり都輝姫は此処に来ていて、なおかつこちらの道が当たりらしかった。

 洞窟内の気温は低いが水路の水が凍ることなく流れているのを見るに氷が張る程の気温ではない。だというのに全ての脇道が氷の壁によって塞がれており、実質的に一本道と化している。

 よくよく観察すればその氷は表面が濡れていて溶け出していることからも自然に出来たものとは思えなかった。

 迷子にならない為の工夫か。

 途中で引き返して薊の方の道を進んでいる可能性もあるにはあるが……。

 それならそれで姫様のことを見付けるのが姉になるだけの話である。

 見付けられさえすればどちらだって構わない。

 ひとまずは任せられた通りに道を探る。

 それだけだ。

 行き止まりにぶつかるまでは水路沿いに辿ろうと、延々と変わらない通路を突き進む。

 しばらくすると不意に分かれ道が現われた。

 今まで通り等間隔に配置された脇道の一つのようであるが今までとは違って氷の壁に先を塞がれてはいない。

 ……此処から引き返したか?

 それとも氷で道を塞ぐのをやめたか。

 ここまで来て?

 考えながら印を残す為にしゃがみ込む。

 都輝姫の影を探し前ばかりを見ていた火茨はそこで初めて足元に意識を向けた。

 水路の縁が濡れていることに気が付き思わず手を止める。

 溢れんばかりの水量ならまだしも手の平一つ分の余裕はある。

 流れも穏やかなものだ。

 枠を超えて縁を濡らすような状態ではない。

 それに薊と別れる直前に同じようにしゃがんだ時、溢れた形跡があったならこうして今更疑問に思うこともなかったろう。

 水路の縁も含めて、あの時確かに回りは乾いていた。

 幅や深さに目に見えて分かる程の変化はない。

 水源がどこにあるにしろ、ここ数日の天候は落ち着いたもので、水嵩が一時的に増して荒れる程の雨が降った記憶もない。

 水の流れを塞き止めるような道具か何かがあって、それを姫様が取り除いた……?

 何の為に。

 まさか水路の中を歩いている、なんてことはないだろう。

 氷の力を有する一族は総じて寒さに耐性を持っていて、火茨たちよりもずっと冬場を得意としている。

 しかし、だからと言って寒さを感じない訳ではなく日を追うごとに気温の下がる今の季節、体を濡らしては耐えられるものも耐えられなくなる。

 わざわざ水路の中を歩く理由もない。

 突拍子もない馬鹿な思い付きを頭から追いやって、しゃがんだ目的である印を残して先を急いだ。


 それから、そう経たない内に今度は整えられていた道が途切れた。

 足場も壁もゴツゴツとした岩肌に戻り変わらないのは水路の造りくらいだが等間隔にあった脇道もなくなって本当の一本道に入ったようである。

 進むにつれて潮の香りが濃くなり海辺に近付いていることが分かる。

 流れている水は海水だったのか……。

 このまま外に出られるとして、天還の間付近の落盤さえなければこの通路は村の漁業の随分な助けとなっただろう。

 途中までだが道が整えられていたのはその為だったのかもしれない。

 かすかな波音が聞こえ始めて、いよいよ外の気配が強まる。

 蛇行の続く道の先に星の明かりはまだ見えないが時間の問題だろう。

 それよりも規則的な満ち引きを繰り返している波とは別の、不規則な、ザブザブと水を掻き分けるような音が中に混ざっていることが気に掛かった。

 洞窟内で反響した音がそう聞こえるだけかとも思ったが、バシャバシャと勢いを付けて蹴るような音に変わり波音を掻き消されては意見を改めざるを得ない。

 もしも魚が立てた音ならそいつはかなりの大物だ。

 動かし続けていた足が眼前に答えを提示する。

 曲がり角を曲がってすぐ視界に飛び込んできたのは白。

 洞窟の岩がぽっかりと口を開け、星空の下で波打つ暗い海を切り取っている。

 暗いばかりの道の先で月明りに照らされた白糸の御髪。白の衣。浮世離れという言葉が似つかわしい都輝姫の姿だった。

 ――状況が状況でなければ、きっと息を呑んで見惚れたことだろう。

「都輝姫様!」

 考えるよりも先に呼び掛けていた。

 駆け寄りながら、こちらを振り返って目を見開いた姫様が水の中に立っていることにぎょっとする。

 まさかと思いつつも切り捨てた予想が当たっていたのだ。

 火茨の掲げる火の光が眩しかったのか手をかざしてそれを遮り、目を細めた彼女は驚きの色がそのまま乗せられた声音で言った。

「火茨……? どうして此処に」

 どうしてもクソもあるものか。

「何をなさっておいでなのです!」

 つい、彼女の言葉を食い気味に声を荒げてしまった。

 怒鳴られた都輝姫はびくっと肩を跳ねさせ反射的に足を引く。

 整えられた水路から岩場の先の海へ。

 傾いだ体に波が追い打ちを掛ける。

 踏み止まろうと伸ばされた手を火茨は掴んで引き寄せた。

 倒れ込んできた彼女を受け止める。

 そのまま膝裏に腕を入れて抱き上げた。

 随分と濡れた着物は重たく、冷たく、火茨の服にも水気を移す。

「あ、あの」

 控え目に掛けられた声が戸惑いを滲ませた。

 横抱きにした彼女の位置からなら布面を捲る必要もなく火茨の表情が伺えるだろう。

 チラリと見下ろせば眉を八の字に下げた彼女と視線が絡んだ。

 すぐに逸らしたが。

 岩場の端から洞窟内へ数歩戻り先程のように不意に海へと体を投げ出してしまう恐れのない場所に彼女を降ろす。

「あなたが薊や萍なら迷わずその頬を叩いて叱り付けているところです。ご無礼は承知の上ですがしばしの間我慢してください」

 掴んだ片手は海水に冷やされてそれこそ氷のように冷たかった。

 時間が惜しい。

 返事も待たずに背中に腕を回す。

 都輝姫の着物の帯の結びを解いて外した火茨は袴にも手を掛けた。

 水を吸った布は押さえ留める間も無くするりと地面に落ちる。

 声にならない悲鳴を呑んだ姫様が体を強張らせている間に直垂も脱がせて単衣のみの姿となるまで布を減らす。

 流石に危機感や羞恥心というものを覚えたようで、肩に置かれた手に押された。

 距離を取ろうと身を引く彼女のそれを背中に回したままの腕で阻む。

 仰け反って、お互いの顔が伺えるようになり、状況を理解できずに混乱している様が見て取れた。

 頰に手を伸ばす。

 全ては彼女の体が少しでも早く温まるように体温を移し、力を使って服を乾かすべく取った行動であるが察してくれと言う方が無茶だろう。

 反射的に固く閉ざされた瞼がしばらくの間を置いて、何も起こらないことに気付いたようだ。

 不安を残しながらもそろそろと開かれて火茨を写す。

「……えっと、」

「乾くまで離れないでください」

 そう伝えてようやく意図を理解してもらえた。

 向けられる視線から戸惑いが消える。

「よろしいのですか?」

「仕方がないでしょう」

 放って置けば確実に体調を崩すだろう。

 暖を取るのにこれ以上手早く済ませられる方法も他にない。

 多少投げやりな口調になりつつも肯定を返すと恐る恐る持ち上げられた彼女の手が背中に回り距離を埋め直して隙間を無くす。

 手元から擦り抜けた頰は胸元に寄せられた。

 空いた指を髪に通し――先程体勢を崩した時に海に浸かったのだろう――腰には届かないまでも春先より確実に伸びた毛先を乾かしながら梳く。

「それで? このような場所で明かりの一つも持たず何を考えておいでだったんですか。風邪を引きたかったと仰られるのであれば遠慮なく水の中にお戻ししますよ」

 勿論、そんな理由で水路の中を歩いていた訳ではないことくらいは分かっている。

「ち、違います!」

 焦って顔を上げた姫様との距離が再び僅かに開く。

 離れないでください、と注意すればおずおずと頰の位置は戻され火茨は彼女に気付かれぬようそっとため息を吐き出した。

 ……普段からこれだけ従順であってくれたなら、気苦労も減るというのに。

 上半身が大分乾いて温まってきたところで足を掬い、抱き上げながらその場に座り込む。

 膝の上に乗せた彼女が背に回しづらくなった腕のやり場を考えている間に草履を脱がせて脇に置く。

 まだ濡れて冷えたままの爪先に足袋の上から手をあてて、指先で撫でると擽ったかったのだろう、少し身動みじろいだ。

「明かりは持っていたのですが途中で消えて、その上落としてしまって……何も見えない中で確かなものとして辿れるのが水路の他になかったのです」

 彼女の言い分を聞きながら手の伸ばす先を決めあぐねているらしく離れたままの体を火茨の方から近付ける。

 そっと閉じた瞼の奥に甘い香の匂いが染み付いた白い首筋を追いやって、その肩口に熱気を孕んだ息を吐きつけた。

「戻る方向とは逆にお進みになられたようですが」

「潮の香りがしていましたので明かりもなく天還の間を目指すよりは確かかと」

 間違った訳でも考えなしに進んだ訳でもなかったようだ。

 そもそもこのような場所に一人で訪れている時点で間違っているし考えなしであるという点は別にするとして。

 片足が乾いたのでもう一方も、と閉じいた目を開き視線で確認を取る。

 逆の足に触れる――と、姫様は大袈裟なくらいにビクッと肩を跳ねさせた。

 一旦手を離す。

 念のために言っておくが触れる足を変えただけだ。

 顔を覗き込めば眉間に皺が寄せられており、様子を伺いながら再度手を足にやる。

 皺が深まった。

 腫れているらしい。

 熱も持っているようで、濡れた足袋の温度が先に乾かした方の時よりぬるいように思える。

「……挫かれていらしたのですか」

 浮かべた火の玉に照らされる彼女をようように観察すれば手や顔、ところどころに擦り傷が伺えた。

 転んだのか。

 いや、整備された水路の中とはいえ一寸先も見えない暗闇の中をここまで歩いてきたのなら一度や二度、転んでいても可笑しくはない。

「明かりを落としてしまった時に少し」

「そうでしたか……気付くのが遅くなり申し訳ありません」

「いえ、然程さほど痛みはありませんから。気になさらないでください」

 それより、と都輝姫は話題を変えた。

「火茨はどうして此処に?」

 二度目の問い掛けである。

 忘れていた訳ではないが此処へ来た目的と彼女にこれから告げなければならない言葉を思い出して口を開くのが億劫になる。

 ……洞窟の外へと辿り着き星々と月明かりを見上げた瞬間にこの幼い姫君は何を思っただろうか。

 胸に抱いたのは感動だったかもしれない。

 希望だったかもしれない。

 安堵を覚えたのは確かだろう。

 美しい海色の瞳が見据える未来に絶望の色を落とそうとしている自分が、憎まれ役にしかなれない立場が少しだけ恨めしかった。

「姫様を探しに来たんです。それ以外に理由があるとでも?」

 棘を含ませて気持ちを誤魔化す。

「いえ。場所が場所ですから……よく分かりましたね」

「薊に聞きましたので」

「……そう、でしたか」

 薊の名を出せばおおよその察しがついたらしい。

 都輝姫は声を固くした。

 ……さて、此処からどう言ったものか。

 切り出し方に悩んでいれば沈黙が落ちて、口を開くより先に促された。

「何も言わないのですか?」

「……言いますよ。言いたいことは山程ありますから」

 単衣は粗方乾き、体も随分と温まってきている。

 なので膝の上には乗ったまま体を離す彼女を好きにさせつつ剥ぎ取った帯やら袴なども乾かそうとそちらに手を伸ばした。

 けして彼女の方を真っ直ぐに見れなかったから目を逸らす為に別のものへ意識を向けたとかそういう訳ではない。

「けれどどうしてもこれだけは言っておきたいという言葉は一つだけです」

「何でしょうか」

「薊は天還の儀を受けます。あなた様がどんなに乞い願っても尽力して下さっても、全て水泡に帰して終わりです」

 反応はすぐには返って来なかった。

 逸らした視線は戻さなかったので彼女がどんな顔をしていたかも分からない。

 ただ、ようように言葉を紡ぎ出した彼女の声は責めるような響きを持って震えていた。

「火茨、あなたは」

「薊から聞いたと言ったでしょう。私たちは天還の儀を受けることで救われるんです……なのにどうしてわざわざ掟を破ってまで他の道を選ぶ必要がありましょう」

「薊に生きていて欲しくはないのですか」

 答えの決まり切っている問い掛けに火茨は奥歯を噛み締めた。

 蓮の最期が脳裏に蘇る。

 知らないから言えることだ。

 分かっている。

 その存在すら覚えていなかった姫様が、姉が受けた仕打ちを知る由もないことは分かっている。

「死に救いがあるというのなら受け入れるだけです」

 血反吐を吐くような思いがした。

「言われるがままに、ですか? しかし――」

 しかし、何と言おうとしていたのか。

 挫いている足首を掴んで引けば痛みと驚きで息を呑んだ彼女の言葉は必然的に途切れた。

 膝の上で転がった相手を落ちないよう支えつつ見下ろす。

 続いたであろう言葉の先を聞こうとは思わない。

「止めてくださいよ。下手な希望に傷付くのはあなたじゃない。我々なんです。迷惑以外の何ものでもない」

 鼻で笑って、反論が口に出されるより前に掴んでいる力を少し強めた。

 小さく悲鳴を上げた彼女は涙目で、こんな状況でも潤んで揺れる瞳の煌めきに見惚れ掛ける。

 どうしようもない。何もかも。

「大体、散々人をいいように扱ってきたあなたの言えた言葉じゃないでしょう。我々が言われるがままに従うしかないことは誰よりよくご存知の筈だ」

「それは」

「善意のつもりなら反吐が出る」

 吐き捨てるように発した声は我ながら酷く冷めたものになった。

 引き結んだ唇を震わせる姫様は今にも泣きそうで――眺めていれば、耐え切れなかった涙が目の端から溢れ落ちた。

 叶うなら傷付けたくはない。

 叶うなら泣かせたくはない。

 それでも、傷付けて泣かせることしか出来ない。

 掴んでいた足から手を離す。

「神の妻となられるお方なら、それらしくお飾りの人形のように静かに暮らされてはどうですか」

 愛でられながら何不自由なく人々の考え得る幸せの限りを尽くせばいい。

 火茨たちのことなど綺麗さっぱり忘れ去って、皺苦茶でよぼよぼの老婆になるまでその生を謳歌すればいい。

 それを許された立場にいるのだから。

 その為に必要ならどんなに酷い言葉でも送ろう。

 憎まれ役も買って出よう。

「……今日は随分と、あなたらしくない物言いをするのですね」

 眉を寄せた姫様は睨むようにこちらを見上げた。

 らしくない?

 いいや、これ以上ないくらい俺らしい発言だ。

「私のことを何も知らないからそう感じるだけでしょう」

「知らないままでいるように振る舞って来た方が、それを曝け出しているのですから十分にらしくない言動です」

 強い口調できっぱり言い切られて思わず閉口する。

 火茨、と名を呼ばれた。

 静かに、ほんの少しの切なさを伴った声で。

「あなた方が救われるというのなら私は喜んでお飾りの人形にでも何にでもなりましょう。けれど、そうではないでしょう」

 真っ直ぐな視線に真っ直ぐな言葉。

 だからお飾りの人形にはなれないと言外に述べるこの方は本当にどこまで愚かなのだろう。

 忘れてしまえる人間になりたくないと言った、あの日の姫様を思い出す。

 諦めが早すぎると火茨のことを詰ったあの日の姫様を。

 我儘で強情で聞き分けも悪くて、そういう方ならそういう方なりにご自身のことだけを考えて過ごされていればいいものを。

 そっと息を吐き出して強張る喉を震わせる。

「いいえ、救われます。ちゃんと救われますよ」

 火茨の返答に都輝姫は首を横に振った。

「そうは思えません」

「だったらそれはあなたが幸せである証だ。……羨ましい限りです」

 手を伸ばし涙で濡れた頰を拭う。

 ……赤い瞳と炎の力を持って産まれた。

 それ故に生きているだけで忌子と疎まれる。

 言われるがままに従うしかない人生に終止符を打てるという意味では、救われるという言葉に嘘はない。

 死にも救いはあるのだと知らないままで生きられるならそれはどんなに幸せなことだろう。

「儀式から逃げ出した忌子がどのような仕打ちを受けるか姫様はご存知ですか?」

 唐突な質問に姫様の反応が遅れる。

 返答は待たず言葉を続けた。

 きっと知らないだろうから。

「舞を披露せねばならない体ですから傷を付けられるようなことは御座いません。それでも惨いものですよ」

 当時抱いた感情を、時が経った今でも火茨は上手く言葉に出来ない。

 はっきりと言えるのは全てが終わって残ったものが絶望と虚無の二つだったことだけだ。

 怒り。悲しみ。悔しさ。嘆願。

 多分、そんな感情が混ざり合っていた。

 もうやめてくれと何度願っただろう。

 願っただけ強く叩かれ叱られた。

 それでも乞い願い続けていたら蓮に止められたので薊と一緒に声を殺して泣いているしかなかった。

 ……その場には萍もいたが、なにせ赤ん坊。覚えてはいないだろう。

「一糸纏わぬ姿で牢に繋がれ、自由の利かない中で視界も塞がれて、穢れを落とす為と慰み者のように扱われる……食事も休息も碌に与えられないまま、昼も夜も関係なく。そうしている間中ずっと罵詈雑言の限りを尽くされるんです」

 頰を拭っていた手で目元を覆い「想像出来ますか」と尋ねた。

 逃亡に失敗した日から取り決められていた儀式の日を迎えるまでずっと、そうやって過ごした姉の最期を。

 向かいの牢に入れられてただ眺めていることしか許されなかった火茨たちの心情を。

 恨み言を呪詛のように連ねていた女が嬌声以外の声を上げなくなって、思い出したかのように口を開けば天還の儀を望む。牢に繋がれるまでもなく、命ぜられた通りにしか動けなくなった女を、女を抱きに来た男たちは「ああ綺麗になった」と言って笑う。

 そんな、悪夢みたいな光景を。

「情けない話ですけどね……危険を犯してそんな仕打ちを受けるくらいなら大人しく儀式を受けて死んでくれって思うんです」

 蓮は自尊心の高い人だった。表情も豊かで、薊よりもう一枚上手の食えない人で、悪く言えば傲慢な。そういった部分を含めても良き姉と言える人で、尊敬出来る部分も多かった。

 薊も火茨も彼女のことを慕っていた。

 天還の儀を迎えて御神楽の間に上がった彼女が能面のように表情の抜け落ちた顔で舞い踊り、もはや火茨たちの知るその人ではなくなっている様を涙の枯れた視界でぼんやりと見詰めながら奇妙な安堵を覚えたものだ。

 ようやく姉は天に還ることが出来るのだと。

 心を壊され生きる屍のような有様に追い込まれてなお許しを乞うことだけは絶対にしなかった蓮はどんなに変わり果てても彼女のままで有り続けたのだと思う。

 薊にそれ程の強さはない。

「姉さんへの負い目もある」

「だから、天還の儀を受けると?」

「地の利もなく、数も力もない私たちが逃げ果せられる可能性は皆無です」

「この洞窟を使えば」

「よっぽど上手く誤魔化すか、足止めをしていない限り崖伝いに進んだ先を押さえられて終わり……儀式が始まってからでは四肢が動かせなくなるまで御神楽の間で舞を披露しなければなりませんから、天還の間に移る頃には自分じゃ動けなくなってます」

 手を退けると不満気な顔で見上げられた。

 そんな顔をされてもどうしようもない。

「諦めるしかないんですよ」

 逃げ出すことを、逃がすことを一度も考えなかった忌子はいないだろう。

 そうしてそれを実行に移した者が何人居たのか。

 策を練ってもその先の道は塞がれていて、強行突破を試みようものなら蓮の二の舞いだ。

「嫌です」

「姫様」

「嫌です」

「……だったら薊を口説き落として下さい。あれが望むなら俺は死地にでも付き添います」

 望めば、の話だが。

 蓮を亡くしてからというもの飄々とした態度を取るようになって表面上こそ柔軟なように見せ掛けてはいるが――姫様の強情さが可愛らしいものと思える程度には――根っからの石頭で融通の利かない意地っ張りな頑固者だ。

 火茨が知る限りであの石頭が口に出した言葉を覆したことなどただの一度もない。

 それが既に「儀式は受ける」と断言していることを踏まえれば、出した条件はそう容易いものではなかった。


 思いも掛けなかったことに時間を要してしまった火茨は衣服の乱れを正し、脱がしたそれらが乾いたことを確かめてから着付けを手伝うと足を挫いている都輝姫を抱き上げて来た道を急ぎ戻った。

 洞窟の先の空を伺うに明朝を迎えるにはまだ十分な余裕がある。

 しかし、萍を安心させてやるのに遅いことはあっても早いということはない。

 火茨が走り出せば横抱きの、安定感のない状態に不安を覚えたのだろう。

 首に腕を回してきた姫様は物言いたげな顔をしていて、けれど何かを躊躇うように開閉を繰り返した唇がようようにしてしっかりと言葉を紡ぎ出したのは道が整備された場所まで戻った頃のことだった。

「あの、一つよろしいでしょうか」

「なんでしょう」

「可笑しなことを聞くようで、その……お尋ねしにくいのですが……」

 喋るにつれて勢いが萎えていく。

 歯切れが悪い。

 それに思い浮かべていた苦情とは全く関わりのない内容のようだ。

 内心で首を傾げながら火茨は続きを促した。

「言ってみてください。でなければお答え出来ることかどうかも分かりません」

「……薊のことを、あなたは」

 薊? 薊のことを、俺が、なんだ。

 ひそめられた声はともすれば反響する足音に掻き消されてしまいそうで、速度を落として音を殺した。

 澄ました耳に届いた、問い掛けというより確定事項をなぞるような口振りに思わず止めるつもりのない足を止め掛ける。

 どうにか進み続けたが。

「好いているのですね」

「……それはまあ、姉ですから」

 姫様が言いたいのはそういう意味ではないだろう。

 しかし、他に言いようがない。

 じわじわと広がる沈黙に居心地の悪さを覚えて言葉に悩んだ。

「姉として、ですよ」

「けれど望まれれば死地と知っても赴くのでしょう?」

「それくらいしかしてやれることがありませんから」

 薊や萍の為に差し出せる機会があるというならそれだけで、この命にも意味があったと言える。

 惜しむ理由は一つとしてない。

「ねぇ火茨」

「なんでしょうか」

「多分、あなた方を傷付ける酷いことを言ってもいいでしょうか」

「……構いませんが」

「薊の立場に生まれたかった」

 確かにそれは酷い言葉だった。

 前置きがなされていても火茨の心を抉りえも言えない苦い感情を湧き上がらせるには十分な、酷い言葉だった。

 何を言おうとしていたのか自分でも分からないが開いた口から発される筈だった言葉は柔らかな何かに塞がれて消える。

 今度こそ足を止めざるを得なかった。

 首に回された腕に引き寄せられて、制止を掛ける間もなく火茨の口を塞いだのは他でもない都輝姫の唇だったのだから。

 ただ押し当てられるだけの行為は数秒続いた。

 離れた彼女は火茨の頬を撫でながら問う。

「怒りました?」

「……ええ、かなり」

「ごめんなさい。でも私、やっぱりあなたの言うようにすることは難しくて出来ませんでした」

 胸中に渦巻いた感情を全て抑え込んでため息に変える。

 横抱きから俵担ぎに抱え直すと姫様は「わっ」と小さく声を上げた。

「全て聞かなかったことにします」

「火茨」

「俺は何も聞いてません。良いですか、俺は、何も、聞いてません」

「だったらこれも聞かなかったことにしてください」

 再び走り出した火茨は肩に担いだ彼女が落とした言葉に眉を寄せた。

 苦虫を噛み潰したような思いを奥歯で噛み締める。

「お慕い申し上げます……分かっているのに、薊に妬かずにはいられないくらい私はあなたに心を奪われているんです」

 そんな風に言われても黙ったままでいるしかない。

 お互いの立場をもう少し顧みて欲しい。

 ――手を出してしまうもまた一興。

 そう火茨を揶揄った薊の言葉を思い出す。

 馬鹿を言うなと、あの時と変わらない言葉を記憶の中の姉に胸中で返した。

 本当に、馬鹿を言ってくれるな。

 聖人君子になれるようなら忌子になんて生まれ付いていないのだから。

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