傍迷惑な休息

 それ以降も都輝姫は書物蔵の解錠を願いに離殿を訪れた。

 春先だった弥生の月が早々に終わりを告げて久しくなり夏の盛りも過ぎた葉月の暮れに差し掛かるまで。非番の日には必ず付き合わされたのだから随分なものである。

 おかげで昼寝の代わりにすぐには蔵に向かわない姫様の為にお茶の準備をすることが習慣となって、そのお茶が無駄になった試しは一度もない。

 どちらかと言えば無駄になって欲しいところなのだが。

 一度は口を噤んで下さった彼女は、しかし日を改めれば再び火茨の目を眺めることを望み美しいと述べることを止めはしなかった。

 飽きもせずに毎回毎回美しいと繰り返すので同じだけ苦言を呈すことに火茨が疲れて諦める方が早そうだ。

 立場を顧みることが出来るのならどれだけ危うい行為を繰り返しているかも理解出来ているだろうに……。

 シャッと襖の滑る音が響いて振り返る。

「火茨! 今日は甘味を持参しましたので一緒にゆっくり致しましょう」

 開口一番、都輝姫はにっこり笑った。

「は?」

「今日は甘味を持参しましたので一緒にゆっくり致しましょう」

 繰り返さなくても聞こえている。

 そうじゃない。

 いつも離殿の戸を叩きもせずに縁側に回り込んでくる彼女は今日も例にならってそうしたのだろう。

 火茨が今いるのは厨で、開かれた襖の先には居間がある。

 その向こうが縁側と手狭ながらも子供が駆け回れるだけの広さはある庭。

 初めの頃は来ない可能性に賭けて昼寝を止めないまま続けていたので、玄関から来るよう伝え損ねてそこで待つのが当たり前となっていた。

 多少の時間差はあれど彼女が訪れる頃にはお茶の準備を終えて待っている自分の姿が今日に限ってなかったが為に探させてしまったようだ。

 ……が、しかし言っておくと時間そのものが常より四半刻は早く、お茶の用意に取り掛かるのが遅かった訳ではない。

 都輝姫が玄関ではなく居間の方から現れたのにはさしたる驚きはなかったが、持参したという甘味が包まれているのだろう、その手に抱えられた風呂敷と二度も聞かされた言葉には怪訝な視線を向けざるを得なかった。

「今日の菓子は奥方様に習って私が作ったものなのです。こう言ってはなんですが自分で自分を褒めたくなるくらいには良い出来ですので、きっと火茨にも喜んでいただけますよ」

 にこにこと自慢気に声を弾ませる姫様に「尾を引く夏の暑さにやられて頭が湧きましたか?」とうっかり口を滑らしそうになった。

 危ない。

 あまりに理解が出来ない内容だったからと言って立場を忘れてしまってはただでさえ聞き入れてもらえない苦言を重ねることも適わなくなる。

 何を考えているのか分かる日が来るとは思えないし努力する気もないので言及もしないが、一つ確かなのは彼女が言うように自分は喜びはしないだろうということだ。

「ゆっくりとお茶を楽しまれたいのであればわざわざこちらに足を運んでいただかずともお部屋にお持ちします。どうぞそのようにお言い付け下さい」

 遠回しの遠慮に笑みを張り付けるのを止めた彼女は打って変わって不満気に唇を尖らせた。

 そんな顔をされても火茨にはどうしようもない。

「私はただお茶を頂きたいのではありません。あなたと頂きたいのです」

「身に余る光栄ですが残念ながら同席出来る立場にないことにご理解をいただきたく」

「人目に触れなければ立場などあってないようなものでしょう」

「ならば甘味は好きませんのでお断り申し上げさせていただきます」

 お茶の用意に戻り茶葉を入れた急須に沸かせてから少し間を置いたお湯を注ぐ。

 それと湯呑みを一つ盆に乗せてから向き直ると彼女は引き結んだ唇をなわなわと震わせていた。

 風呂敷を抱える手の爪の先が白んでいる。

「湯呑みは二つです」

「姫様」

「二つです」

 彼女が意見を譲らないのはいつものことであるが、こうも頑なな物言いは珍しい。

 時には脅し時には理屈を捏ねて人の主張を切り捨てる普段のそれを『姫君の我儘』とするなら今のそれは『子供の駄々』だ。

 ……何かあったか?

 様子を伺おうとして返事をしないまま無言を返す形になると、姫様はどうしても頷いて欲しかったのだろう。

「薊と萍の分も用意しているんです。味見程度に思っていただいたのでも構いませんから」

 目を伏せて顔も俯かせていく。

 やはり頭が夏の暑さにやられているのかもしれない。

 年下の少女に縋るように願われて尚も断り続けられる程、火茨は意志の強い人間ではなかった。

 ため息を吐き出して渋々。

 仕方がないので盆に乗せた湯呑みの数を増やす。

「書物蔵での読書の方はよろしいのですか」

 思えば彼女が蔵の解錠以外を目的に離殿を訪れたのは初めてのことである。

「……息抜きがしたくなりまして」

「そうですか」

 ばつが悪そうにする少女は五ヶ月近くも欠かさずに通っていたのだ。

 当然と言えば当然で、むしろよく今日に至るまで足を止めずに来たものである。

 盆を持って近付いて厨の土間から一段上の居間に立つ姫様を見上げる。

 二つの湯呑みが視界に入ると途端に顔を上げて瞳を輝かせ始めた彼女の反応は分かりやすいものだった。

「今回だけですよ」

 疲れているのならそう邪険に扱うのも可哀想だろう。

 明確に同意を示せば綻んだ顔には満面の笑みが浮かべられて……。

「火茨は本当に甘いのですね」


 様子の可笑しかった都輝姫に付き合うと決めたことを火茨は近年稀に見る勢いで後悔していた。

 何処と無く塞ぎ込んでいるようにも見えたからこそ、だったというのに。自分の勘違いか気のせいか。芝居、ではなかったように思うが、そうと知らずに騙されたか。

 秋の涼しさが頬を撫でるにはまだ数日を要し、残暑をやり過ごすのに団扇から手が離せないような時期に寒気を覚えて眩暈にも襲われているのだから判断を誤ったことに関しては振り返るまでもなく明らかである。

「実は萍に話を伺ってからというもの、こうして誰かの膝に乗せていただくのがひそかな夢だったんです」

 一つ叶いました、と嬉しそうにする都輝姫は言葉の通りに胡座をかいた火茨の膝の上に乗ってその夢を叶えていた。

 もう一度言う。

 火茨の膝の上に乗って、その夢を叶えていた。

 承諾したのは共にお茶を飲むことであって彼女の夢を叶えることでは断じてなかった筈である。

 人目に付かぬようにと襖は閉め切ったもののいつ誰が訪ねてくるかも分からない。

 薊や萍ならまだ口止めが利くので構わないが他であれば汗の滲む日の暑さの増す時間帯にわざわざ風の通りを遮って過ごす二人きりの男女の素行を怪しまない者はいないだろう。

 因みに都輝姫が萍から聞いた話というのはおそらく冬の季節に暖を取ろうとしばらく捕まえて離さないでいることだ。

 小さな萍は抱え込むのに程良い大きさで、火茨だけではなく薊もよく末の弟を捕まえては自身の膝に座らせている。

 持って生まれた力の影響か、忌子の体温は常人より高いので下手に火鉢を用意して一人で縮こまっているよりも身を寄せて合っている方が暖かいのである。

 あまり大っぴらには言えないが炎の力を薄く纏うことで体温以上に温め合える点も含めて。 

 反対に氷の力を宿した青目の一族は皆体温が低く、都輝姫の指先が肌に触れるたびに冷たく感じるのも二人の体温に差がある為だ。

 一族的に見れば彼女は特別冷え性という訳ではない。

 蒸し暑い筈の室内で火茨が涼めているのも、感じている冷や汗だけが理由ではなく膝の上の姫様が氷の力を纏って冷気を生み出しているからだった。

 人が訪ねて来た場合、姫様のように勝手に中に上がったり縁側に回り込んだりする者は極稀だ。まず玄関先から声が掛かるだろう。こちらが動くより先に相手が戸を開いても「姫様の御厚意で涼ませていただいていた」と言えばそう不自然でもない、か……実際に部屋の温度を下げようと思った時、閉め切っていた方が効率がいいと聞く。

 火茨たちの力は使用を禁止されているが青目の一族は食料の備蓄や今の季節で言えば夕涼みを主な目的として生み出した氷を提供するなど様々な面で村の繁栄を願いその力を役立たせている。

 私生活の面でも日常的に取り入れられている力なので離殿という場所柄と火茨が忌子の、それも男であることを除けば気を揉む必要もなかったのは確かである。

 万が一の時の言い訳をそうして考えている間も何一つ気に留める素振りなく鼻歌でも歌い始めそうな調子で風呂敷を広げた姫様は包んでいた菓子入りの箱を取り出した。

 開かれた蓋の下で綺麗に並べられた一口大の丸い饅頭は白い皮の向こうに餡の色が透けて見えている。

 奥方様に習いながら作ったというそれは薄皮饅頭だったらしい。

 差し出す為に振り返ろうとしたのだろう、不意に姿勢を変えた彼女が体を仰け反らせたので咄嗟に転んでしまわないよう背中に手を添えた。

 にこりと笑って饅頭を勧めてくる。

 その前に膝から降りてくれ、と思いはしても言うだけ無駄なのであろう。

 これまでの経験から想像に容易いやり取りにどうせ押し切られるならと内心でため息を吐き出すに留め「では有難く頂戴いたします」と返して手を伸ばした。

 端の一つを摘んで一瞬、一口で行くか二口に分けるかを悩む。

 ……正式な茶席でもないのだし良いか。

 分けることなく口の中に放り込み無遠慮に歯を立てる。

 都輝姫の言葉を疑ってはいなかったが真剣に受け止めてもいなかったが故のことで、もし事前にその味を知っていたとしたら悩む必要はなく、二口に分けて丁寧に咀嚼していたに違いない。

 ふわりと広がった優しい味わいに二度、三度と口を動かして舌の上に転がる饅頭を確かめる。

 気付いた時には直前まで感じていた寒気を綺麗さっぱり忘れて軽く目を見張り、思ったままの言葉を考えるより先に声に出していた。

「うっわ、美味い」

 驚嘆混じりの何の捻りもない感想である。

 きょとんとして目を瞬かせた姫様にハッと我に返って焦る。

 薄くも柔らかな生地はふわりとした触感で、中に詰められた絶妙な甘さの餡を包み込み一口大であることがその味の上品さを際立たせていた。

 自負も当然の、絶品と言って相応しい出来の薄皮饅頭だったが、だからと率直な感想を言葉も選ばず述べていい理由にはならない。

 そのくらい美味しい饅頭だった、ということではあるのだが。

「申し訳ありません。つい口の利き方も忘れて……礼を欠きました」

 まだ飲み込めていないものが飛ばないよう口元を押さえつつ慌てて詫びる。

「……お口に合いましたか?」

「え? ああ……そうですね。これ程美味しい饅頭を口にしたのは初めてです」

 そもそも甘味自体が年に一度口に出来れば良い方で、比べた対象の味もうろ覚えのような状態である。

 口にしたそれが他の者からすれば平々凡々で火茨の言葉を大袈裟に感じる程度の出来だったとしても多分、同じ言葉を返しただろう。

 立場が違うとこうも口にする物の質から味から何もかもが変わるものなのか……。

 妬むつもりはないにしても羨まずにいられない。

 何の気なしに口に放り込んでしまったことを悔やみつつまだ口内にある残りの餡をゆっくりと味わう。

 崩れた餡が溶けて消え去り惜しく思いながらも余韻に浸っていれば不意にこちらを見上げる姫様の表情が緩んでいることに気が付いた。

 反射的に身構えてしまったけれど浮かべられた笑みに裏はなく、ただ心から喜んでいるだけのようだった。

 良かったです、と本当に嬉しそうに言われて気恥ずかしくなり思わず都輝姫から目を逸らす。

 そのまま沈黙が落ちると危うい方向に気持ちが傾いてしまいそうで無理矢理言葉を探して口を開いた。

 やっぱり先に膝から降りてもらっておくべきだったかもしれない。

「その、もう頂いてしまった後ですが……本当によろしかったのですか?」

 今更だが姫様の手製ともなれば神子に献上されてしかきものである。

 本来ならば易々とは口に出来ない。

 姫様は笑顔のまま勿論です、と頷いた。

「それにそのように言っていただけるなら作った甲斐もあるというもの。まだ残っていますから、どうぞ思うように召し上がって下さいな」

「いえ、そう何個もは……十分堪能させていただきましたので」

 一つ数を減らした饅頭は箱の中でまだ八個近く鎮座している。

 薊たちと都輝姫の分を二つずつとしてもまだ二つは余った。

 二つならまあ、姉と弟で分ければいいだろう。

「そう言えば先程、甘味は好かないと仰られていましたね……配慮が足らず申し訳ありません」

 そう言うと途端に表情を翳らせて気落ちした様子を見せた姫様に思い浮かべていた二人の姿が搔き消える。

 火茨が甘味を好かないと言ったのは方便で、どちらかと言えば好んでいる。

 味を覚えて癖になっては困るから避けたかったという意味では嘘でもなかったし、薊と萍の喜ぶ顔が見られるのなら自分で食べてしまうよりずっと良かった……のだが、持参してくれた相手にそのような顔をさせて無視したままでいては恩を仇で返すようなものである。

 言い訳を並べようと開いた口を、しかし言葉が喉を通らないので一旦閉じた。

 謝罪も前言の撤回も違う気がする。

 だったら自分は何を言うべきか。

 選び直した言葉は今度はすんなり喉を通った。

「……もし、いただけるのであればあと一つだけ頂いても構いませんか?」

 薊の分を減らして、余る一つは萍に分けてやることにすればいい。

 視線を戻せば俯き気味になっていた姫様が顔を上げて再び顔を綻ばせた。

「勿論です!」

 こういう所は素直で可愛らしい方だと思う。

 笑顔が戻ったことに安堵して、では早速と手を伸ばすより先に饅頭を一つ摘み上げた彼女はそれを火茨の口元に運んだ。

 思わず体を仰け反らせて避けようとすれば追ってくる。

「あのっ」

「どうぞ?」

 いやいや。どうぞ、じゃなく。

 手を掴んで阻む。

 同意した以上のことを強いろうとするのはやめてくれ。

「子供ではないのですから」

「食べて下さらないのですか?」

「……自分で食べられます」

 眉を下げて悲し気な顔を覗かせたかと思えば、箱を膝の上に置き、空いた手で饅頭を持ち直して唇に押し付けてくる。

 にこりと笑って、どう足掻いてもこのまま食べさせたいらしい。

 文句を述べようにも口を開けば押し付けられている饅頭をそのまま放り込まれるだろうし、無言で睨んでみても布面が邪魔をしてこちらの視線は届かない。

 まったくもって、憎らしいと言う以外になんと言えようか。

「火茨」

「…………」

「食べて下さらないのですか?」

 無言の訴えを彼女が汲み取ってくれることはないのだろう。

 結局、押しに負けて従わざるを得ないのだ。

 内心で暴言を吐いて半ば自棄になりながら、勝手に放り込まれないよう手を掴み直す。

 唇を開いて噛り付く。

 冷気を纏う指先に冷やされた饅頭は先程とはまた違った味わいで餡の甘さを広げた。

 ひんやりとしている分、口内の熱に侵されていく様がはっきり感じられる。

 美味い饅頭であることに変わりはないがこの味わいは早々に忘れるのが身の為だろう。

 それこそ、癖になる。

 十分に楽しむことはしないまま残りも唇で奪って舌の上に転がした。

 カスまで綺麗に舐め取って、その冷たさを覚えてしまう前に喉の奥へと追いやる。

「これでよろしいですか」

「駄目、と申したらもう一度食べて下さいますか?」

「姫様」

「冗談です」

 普段の行いが行いなので笑顔の『冗談』には安心が出来ない。

 手を掴んだままでいれば名前を呼ばれた。

 返事をする前に言葉が続く。

「目を見せて下さい」

 何故、今この時なのか。

 いつもなら二言目には催促してくる彼女が今日は静かだと思ってはいた。

 茶と菓子に気を取られて忘れていた訳ではなかったらしい。

 思わず閉口してどうにか避けられないかと打開策を探す。

 普段のようにただ目を見られるだけなら、いや、それも構うには構っているが今はなおさら曝したくない理由があった。

 箱を湯呑なども置いている、側の卓袱台の上に避難させた姫様は向かい合うように体勢を直すと自由の利く手を布面に伸ばしてきた。

 饅頭の時より更に体を反らした火茨は彼女の背に添える必要のなくなった手を動かしてそれを阻む。

 両手を掴んだことでひとまずは、と思うも目を瞬かせた相手は一拍置くと身を乗り出し顔を近付けて来た。驚きつつ背中を床に付ける。咄嗟に離した手は彼女の肩を掴む前に逆に指を絡めて押さえ込まれた。

 逃げられない。

 顔を反らす間も無く迫り来た柔らかな唇で布面越しに鼻筋を啄ばまれる。

 咥えられた布がそのまま捲られるのを声も出せずに凝視する。

 直に視線が絡めば海色の目は細まり、笑った。

「今日は頰も赤いのですね」

「……戯れも程々にしていただかないと困ります」

 自覚があったから曝したくはなかったというのに。

 布面があれば口元こそ隠れていないまでも、鼻先までの長さで頰の方も隠してくれている。

 手ずから饅頭を食べさせてもらう形になったことも、布越しとはいえ唇が触れたことも羞恥心を覚えるには十分過ぎた。

 どうして姫様が平然としていられるのか甚だ疑問で仕方がないくらいだ。

 思わず眉間に皺を寄せた火茨の頰に手が寄せられて宥めるように親指の腹で撫でられた。

 困ると言っているのに、それを無視して吐息が掛かる距離まで近付いてくる。

 空いた手で肩を掴んでも覆い被さられている現状では効果は無いに等しい。

「姫様」

「いけませんね」

「自覚がお有りなら離れて下さい」

 無くても離れてもらいたいところだ。

「火茨の瞳はどれだけ眺めても眺め足りなくていけません」

「……度が過ぎるようであれば青目神様に御報告させていただくことになりますが」

 聞き慣れてしまった賛辞に苦い思いと呆れを抱く。

 火茨としても避けたい最終手段は中々人の言葉を聞いて下さらない姫様の耳にも止まったようで、瞳にばかり向けられていた意識をようやく傾けてもらえた。

 視線がキツく、表情が硬くなる。

「そのようなことをしたらあなたが」

「ただで済まないのは承知の上です。しかし、元より価値無きこの身が姫様を惑わすものであるのなら早々に天へと還るが正しき選択というものでしょう」

 報告する内容の程度にもよるが規則を破り瞳を曝したことに触れれば間違いなく都輝姫よりも火茨の方が重く咎められるだろう。

 ありのままを包み隠さず話すならおそらく死罪は免れない。

 分かっていて、こちらを責めるように睨み顔を歪める姫様だからこそ例えその選択を選ぶ日が来ても後悔はしないと言えた。

「どうか離れて下さい」

 物言いたげにしながらも都輝姫は黙って言葉に従った。

 ゆっくりと身を起こす。

 頬にあった手は滑るようにして首筋を辿り胸元に置かれ、覆い被さるようにしていた体勢から腹の辺りに座る。

 彼女の足に脇と服を押さえられている火茨はまだしばし動けないままだ。

 そのまま上から退いてくれるのを待ったが、しかし、願った通りには動いて下さらないのがこの姫様で……。

 腹から太腿に位置を直すも跨ったまま、動かせるようになった上体を起こそうと浮かせた瞬間に胸に飛び込んできた。

 再び床に沈まんとした体を咄嗟についた肘で支える。

 愚図るように擦り寄せられた額に合わせて白糸の柔らかな髪が鎖骨を擽った。

「姫様」

「惹かれて止まない心の止め方を私は知りません。離れろと言うのならまずはそれを教えて下さい」

 湯呑みは二つだと訴えて来た時と同じ駄々っ子が顔を覗かせる。

 しばらく様子を見てみるも離れて下さる気配はない。

 ……惹かれて止まない心の止め方、か。

「簡単なことですよ」

 それはもう嫌になる程に。

「誤魔化して、否定して、そのような心は抱いていないと思い込むだけでいい。認めてしまうから言動に表れるのです」

「否定しきれなかったら?」

「命尽きるまで否定して下さい」

「無茶を当たり前のように言うのですね」

 姫様の声音は呆れを含み、そして少し不満気だった。

 ため息に似た吐息と共に身動ぐと顔をズラして鼓動に耳を傾けてくる。

 徐々に力の抜かれた体が僅かな隙間さえ埋めて火茨に伸し掛かった。

「この音は誰にも誤魔化せはしないのに」

 痛いくらいに早鐘を打っている。

 息の詰まる思いを覚えて、身を任せてはならない衝動に襲われている。

 自分自身のことだ。

 一番よく分かっている。

 だからこそ、同じことだと言えるのだから……。

 例えどんなに音を立て心臓が己の気持ちを主張してこようとも変わらない。

「理由の付け方次第です」

「自覚があるのなら認めているも同然では?」

「悪化は防げます」

「最後に酷く後悔する未来しか見えません」

 後悔するより先に死んでいる……と思ったが、それは忌子である自分にしか当て嵌まらないことだと気付いて口を閉ざした。

 薊と二つ違いの火茨も三年後には天還の儀を受けることになる。

 けれど都輝姫はその先もずっと、火茨たちが天へと還る年よりも倍の月日を生きていく。

「大丈夫ですよ」

 ツキリ、と胸が痛んだ割に開き直した口で発した声は我ながら穏やかなものとなった。

「例え酷い後悔を覚えても、神に嫁いで子を成す頃には忘れています。子が育ち天命を全うし終える頃には思い出すこともなくなっているでしょう」

 顔を上げた都輝姫が眉間に皺を寄せた。

 不服の中に悲しみもある。

 喋れば喋るだけそんな顔ばかりをさせているように思うのは気のせいではないだろう。

 憎らしい口しか持たない忌子に構っても時間を無駄にするばかりで得るものは何一つないことをそろそろ姫様は学ぶべきだ。

「あなたには私がそのように薄情な人間に見えているのですか」

「では一つお聞きしますが薊とは別にもう一人、私には姉がいたことを覚えておいでですか」

 蓮も内殿務めではあったが七年も前の、召し上げられたばかりだった幼い頃のこと。会った回数もそう多くはないだろう相手を覚えていろと言う方が酷な話だということは分かっている。

 もう一人の姉が確かに此処で暮らしていたことを覚えているのはもはや薊と火茨だけだ。

 赤ん坊だった萍の記憶にもその存在は残っていない。

 しかし、今でこそ時の流れのせいと言えるが天還の儀を終えた翌日には悼む間も人もなく、常と変わらず姉の存在など初めからなかったかのように和やかな笑いさえ聞こえてきそうだったことを、痛感した命の軽さと虚しさを忘れることは難しかった。

 ……儀式を控えた彼女が掟に逆らい村から逃げ出そうとした事実もまた覚えてはいるが、全ての忌子が天へと還る為にと生まれ持った力で己が身を焼いて命を絶つ定めを素直に受け入れることができる筈もない。逃げ出すことは許されなくても責められるものではないと……そう考えるのは、きっと自分たちの勝手なのだろう。

 意図を理解して眉間の皺を深くした都輝姫は目を伏せた。

 必死に姉のことを思い出そうとしてくれているらしく逸らされた視線はあらぬ方向を向いているも真剣だ。

 ただ、残念ながら例え思い出せたとしてもこの質問には即答でなければ不適切で、時間を掛けた答えに意味はない。

 火茨は彼女が答えを出すのを待たなかった。

「我々はその程度の存在ということです……弁えていますから、どうぞ姫様もそのように扱って下さい」

 思い出そうとしてくれただけで十分とも言える。

 離す機を逃し続けて握られたままでいた手に力が込められ戻ってきた視線は悩まし気な色を残しつつこちらを探るように見詰めた。

 そして責める。

「どうやら私は意味を履き違えていたようで、あなたに返さなければならない言葉が出来ました」

「……なんでしょうか」

「聞けない願いというものもございます」

 確かに覚えのある言葉ではあった。

 睨むように真っ直ぐな瞳に気圧されて思わず押し黙る。

 しかし周りの人間がそうするように自分たちを扱えと言っているだけの何が聞けない願いなのか。

 彼女の訴えは静かに強く、少しだけ切なく響いた。

「もう一人の姉君のことをすぐに思い出せなかったことにお詫びを申し上げた上で、けれどその姉君よりもずっと関わりを持っている相手を『その程度の存在』などと言って忘れてしまえる人間に私はなりたくありません。そのような人間になれと望むのは止めて下さい」

「いえ、姫様」

「望むのは止めて下さい」

 喋ろうとするたびに遮られて申し訳ありませんでした、と謝る以外に言葉を続けさせてもらえなかった。

 聞き分けのない少女がまた愚図り始める。

 胸に擦り寄せられる額を、そうさせる要因を作った手前、咎めるに咎められずそっとため息を吐き出した。

 相手というのが自分のような忌子でなければ一向に構わないのだ。

 けれど、どうすればそれを理解していただけるものか。

 心を割いて苦しむのは姫様で火茨ではない。

 だから忘れてしまった方が姫様の為であるし、そういうものだと諦めの付いている自分を気遣う必要はない。

「あなた方は諦めが早すぎます」

 支える腕が痺れてきて一声掛けてから床に沈み直すと返事の代わりにぼやかれた。

 捲れ上がったままの布面の位置を戻しながら「そうでしょうか」と、とぼけたら間髪入れずに「そうですよ」と返される。

「あまりに早すぎるから、私が諦められないんです」

 酷い責任転嫁を聞いたものである。

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