離殿への訪れ
その翌年には蓮が天へと還されて今の三人が残された。
赤子だった萍が流暢に言葉を操り畏まる術を覚えるだけの時間が流れれば火茨の年も桁が一つ増えて久しく、薊はあの頃の蓮に追い付いた。
朝一に行われる日課の修練――火茨たちに稽古を付けるのは青目神であるが、本家の者はそれに立ち会うこととなっている――の際に姿を伺うことの出来る都輝姫も幼いばかりだった顔付に女らしさと成長を覗かせては神子の目を引いている。
彼女とのそれ以上の関わりは青目神の側仕えで内殿務めの火茨にはなかった。
内殿は御神の住まいである。
御社の本丸内で神楽を披露する為の
招かれていない場合は奥方でも外へと出るよう促された。
神子であっても例には漏れない。
その為に構えられたのが外殿であり、都輝姫も含めた御神の近親者が本家の者としてそれぞれの部屋を置いている。
青目神に手習いを受ける神子や政の相談に来る宮司などとはよく顔を合わせるものの外殿にて芸事の腕を磨く奥の方々と言葉を交わすような機会は皆無と言えた。
薊はその逆だ。
外殿務めで都輝姫と親交を深める機会にも恵まれたのだろう。
火茨が聞いた姫様の口振りからしても親し気であったし、つい昨日のことが既に姉の耳に入っていることを思えば探る必要もない。
本来なら関わりがない筈の相手と、それも非番の折に言葉を濁さなければならないようなことが起きたのは離殿において管理を任されている鍵の当番の都合だった。
非番と言っても日課の修練は免除されない。
むしろ休みだからと普段より張り切った火茨は横になって早々微睡む程度に疲れていた。
二の丸正門側の左手の隅に建てられた離殿は玄関先の一角を除いた全面が塀に覆われていて、幼いの頃は圧迫感しか感じられずに嫌ったものだ。
木々の影に隠れて囀る鳥たちの声を子守歌に縁側で足を投げ出す。
煩わしい布面を憚ることなく外して仰向けに寝転がっても誰に咎められることもない。
人の目を気にせず過ごせるのは塀あってこそのことである。
それに気付いてからは逆に喜んで悠々と昼寝に興じていられる贅沢を味わうようになった。
春になったばかりの風はまだ肌寒い。
しかしながら日差しの温かさと合わせれば心地よく、先んじて芽吹いた花の香で肺が満ちる。
そうして惰眠を貪って、午の刻を回る頃に起き上がる。
それから何をするかは起きてから決める。
常なら薊と萍が務めから戻るまで続く非番らしい非番を堪能する至福の時間は、その日、唐突に軋んだ床板の耳障りな音に破られた。
初めは気のせいかとも思ったが続いて頭上から降って落とされた愛らしい少女の声音に覚醒を余儀なくされて……。
気のせいであったならどれだけ良かったことか。
後から思えば厭に友好的な声の掛けられ方をしたものだと思うが、薊から色々と話でも聞かされていたのだろう。
「ねぇ、私のお願いを聞いて下さらない?」
耳に馴染みのない声だった。
驚いて反射的に瞼を持ち上げる。
火茨の視界に飛び込んできたのは眩い二つの青。
遠い遠い沖合の海のように澄んで煌く宝玉のような双眼と裳着を済ませたばかりでまだ肩を過ぎた程度の長さしかない白糸の髪。
作りの基本は狩衣と同じだが襟は
日の光を受けて淡く輝いているようにも見える都輝姫の姿に色んな意味で息を呑んだ。
「つ、都輝姫様!?」
考えるより先に叫んでいた自分の声で我に返り体から血の気が引いていくのを感じる。
縁側に寝転がっている火茨を相手はすぐ側に膝をついて覗き込んでいるらしい。
彼女の来訪に気付かなかったこともそうであるが、だらしなく昼間から夢に浸っていた体勢で対面している現状も非常に不味い。
きょとんと目を瞬かせた都輝姫の視線を受けて布面を外していることを思い出せば尚更だった。
普段から身に付けているよう言い付けられているそれは部屋の文机の上に鎮座している。
せめて手元にあれば……いや、どちらにしろこれだけ失態を重ねてしまったら弁明の余地などないか。
目元を手で覆い相手の視線から瞳を隠しつつぶつからないよう体をずらして起き上がる。
非礼は詫びておかなければ、と。
しかし上体を起こした火茨は縁側から庭に下りて膝をつこうと動く前にそれを阻まれた。
「申し訳、」
「待って」
目元を覆った手の首を掴まれてひやりと体温の奪われる感覚が走る。
少女の体温が低いのか。
火茨の体温が高いのか。
「あなたの目をよく見せて」
そう続けた彼女に一瞬何を言われたのか分からなかった。
反応が遅れる。
掴まれた手首を引っ張られて出来た隙間から海色の瞳と再び視線が交わり掛ける。
慌てて腕に力を込めて覆い直しながらようやく言葉を理解して、先程までとは違った意味合いの焦りを覚えた。
「お、お待ち下さい! 目を見たいなどとそのようなこと」
許されていないのは姫様とて重々承知している筈だ。
いったい何を考えているのか。
布面を身に付けるのにはそれなりの理由があり、ただ単に忌子の証である赤い瞳を隠すことだけを目的としている訳ではない。
目から目へ。
相手に穢れが移るのを防いでもいるのだ。
同じ忌子ならまだしも……。
不注意で晒してしまったことはこの際仕方がないとして、じっくりと眺め回すようなものでは断じてない。
「見たからと言って必ずしも影響を受けるとは限らないのでしょう。少しだけでもいいのです」
「影響が出た場合に万一の事があっては青目神様にも
距離を取ろうと後退すればその分だけ追い掛けてくる都輝姫にどんどん壁際へと追い詰められていく。
広くはない離殿の縁側で端に行き着くのに時間は掛からないだろう。
履いていた二人の下駄や草履が足先から落ちてカランカランと響いた音がやけに遠く感じられた。
手首は依然掴まれたまま。
「非番だからと気を抜いて姫様のお目を汚しましたことはお詫び申し上げます。しかし、それを助長なさるのはお控えいただきたく存じますれば」
とん、と背中が壁にぶつかった。
紅袴の股布を片膝で押さえられ身動きが取れなくなる。
空いている手を顔の方へと伸ばされて今後は火茨が彼女の手を掴む番だった。
相手が姫様でなければ多少手荒な方法に出ることも視野に入れられたというのに。
「私のお願い、聞いて下さらないの?」
「……聞けない願いというものもございます」
声色は悲し気に響くが、現状を振り返って見やれば強かさしか感じられない目の前の姫君を相手にどうして絆されてやれようか。
「……そう、そうよね」
不意に都輝姫の手から力が抜ける。
聞き分けて下さった、ということだろうか……。
布面であれば僅かに透けた布越しに表情全てを窺い知れたが、手で視界を狭めている今は見れて口元。それ以上は目を晒すも同義となる。
重心を変えて前のめりになっていた上体を後ろに引かせた姫様と距離が開く。
ようやく離された手は太腿の上に落ちて来た。
もう一度詫びて、まだ近い距離感を正してもらおう。
火茨の方でも掴んでいた彼女の手を離そうと力を抜いた。
しかし、安堵したのも束の間のこと。
「なら御神様にご相談すればよろしいかしら。本日離殿にいた殿方がとても美しい緋色の瞳をしていらしたのだけれど、もう一度見せていただくことは叶わないかしらって」
彼女の言葉を、やはりすぐには理解できなかった。
一拍間を置いて「やめて下さい!」と叫べば少女の唇が弧を描く。
そのようなことを御神に……いや、御神だけではない。
他言せず目を瞑ってくれるだろう姉と弟以外の他の誰かの耳に入れば咎められて罰を受けることになるのは明々白々である。
最悪、十五の年を迎える前に天へと還る期日を定められ、その為の儀式――天還の儀を受けることになるやもしれない。
肝を冷やす火茨を笑って彼女はその愛らしい声音をひっそりと響かせた。
「だったら見せて下さる? 今なら誰も見ていないわ」
まるで質の悪い鬼子か妖のようだ。
将来、神の妻となられる姫君に対して抱く感想ではないが……。
一旦身を引いて諦めたように思わせておいて、その実、こちらの話など聞いてはいないし意見を譲る気もない。自身の好奇心を満たす為に脅しの言葉を並べられては仕方がないだろう。
拒むことも受け入れることも出来ないで体を強張らせる。
距離を詰め直した都輝姫に下から覗き込まれて、顔と手の隙間に指を差し込まれた。
目元を覆っていた手が払われるのを止めることも出来ない。
本来なら直接絡む筈もなく絡むべきでもない瞳と再び視線が交わる。
光の加減によって色味を変える青眼は目を逸らせないままに見詰めれば見詰めただけ吸い込まれそうになる深さで火茨を捉える。
美しかった。
このような状況でも意識を奪われずにはいられない程に美しかった。
ひやりと冷たい指先が肌の上を滑って目の淵をなぞる。
吸い込まれそうだと思った瞳がどんどんと大きさを増して視界いっぱいに広がる。
それが錯覚などではなく、実際に顔を近付けられたせいだと気が付いたのは温かな吐息が唇を撫でた後。
鼻先が擦れ合う。
念の為に述べておけば顔を近付けたのは都輝姫であって、火茨は壁に背を付けたまま動いてはいない。
我に返る。
咄嗟に肩を掴んで押し返した。
ぐいっと、手付きは荒いものとなってしまったがこの際だ。
「ち、近いです」
ぱちりと目を瞬かせた彼女は「あ、」と声を漏らすと口元を袖で隠した。
「ごめんなさい。あまりに美しかったからつい」
呟くような謝罪に思わず眉を寄せる。
美しい? 姫様の瞳のことか?
いや、話の流れとして可笑しいだろう。
何を指しての言葉なのか考え込んでいる間もじっと見詰められて、疑問の答えを察する――前に顔を逸らした。
もういいでしょう、と訴えれば今度こそ本当に身を引いて解放してもらえ、ほっと息を吐く。
すぐに立ち上がった火茨は同じく立ち上がろうとした都輝姫に手を貸した。
差し出された手に手を重ねた彼女が「そういえば」と口を開き、再び身構えさせらることになろうとは考えもせずに。
「そういえば名前をお聞きしないままでしたね。教えて下さいますか?」
答えるべきか一瞬迷った。
迷ったところで拒否権などないし、例えここで答えずとも簡単に知れることである。
浮かべられた、一見は純粋そうな微笑みに嫌な予感は拭えないものの……。
向けられる真っ直ぐな視線に数秒の沈黙を返すが引く様子のない相手に名乗らずに済ませる上手い返答は思い付かない。
「……火茨と申します」
警戒を滲ませながらも素直に名乗った。
都輝姫の笑みが深まり嫌な予感が増す。
「では火茨、また時間を作って参りますので今度は是非ゆっくりと眺めさせて下さいね」
「は?」
「見せていただけなければ私、いつ口が滑ってしまうか分かりませんわ」
頬に手を添え、眉尻を下げてわざとらしく困ってみせる。
相手が目上の姫君であることも忘れて思わずふざけんなよこの糞女と口走りそうになった唇を、その前に引き結び、言葉を呑み込んだ自分を火茨は盛大に褒めてやりたかった。
本気で何を考えているのか。
見付かれば咎めを受ける火茨もそうだが姫様とてタダでは済まないのは同じこと。
穢れを受ければ相応に体に不調を来したり災いを招いたり良くないことがその身に降りかかる。
考え直すよう言葉を重ねてみたが一蹴されるばかりで聞き入れてもらえはしなかった。
それどころか異議があるなら目を眺めさせろ、眺めている間なら聞いてやらないこともない……などと言い始めるから、話を打ち切って彼女の言葉に従うような形を取らざるを得ないという始末。
頭が痛い。
ようやく部屋へ足を向けることの出来た火茨は文机の上に放っていた布面を拾い上げて身に付けた。
結い紐を後ろ手に結んでいる間、名残惜し気な視線が背中に突き刺さるのを感じたが忌子の瞳のいったい何処にそうも気に入るような要素があったと言うのだろう。
忌避され疎まれることはあっても、穢れが移ると言っているのに構わないから見せてくれと言って聞かない相手は当然ながら姫様が初めてである。
……美しいと述べた言葉を本気でこの瞳に向けるつもりなのだろうか。
内心でため息を吐き出して振り返る。
部屋の入り口で立ち止まりこちらを伺っていた都輝姫は視線通りの名残惜し気な顔をしていた。
「それでいったいどのような御用で此処に?」
まさか忌子の目を眺めることを目的に訪れた訳ではないだろう。
彼女は小首を傾げてから「ああそうでした」と言ってぱちりと手を打った。
すっかり忘れていたらしい。
「書物蔵の鍵を開けていただきたく思いまして。御神様の許可もきちんといただいております」
襟の内に指をやると首に掛けられた紐を伝って懐から一枚の木札を取り出した。
それを両の手に乗せて差し出してくるので、開いている距離を数歩で詰め、声を掛けてから手に取る。
彼女の首を引っ張らないよう気を付けつつ確認した札には梅花の紋様と書物蔵の文字が焼印で刻まれていた。
普段は閉ざされている蔵に――今回であれば書物が揃えられている一角に立ち入ることが許された証として青目神から手渡される木札で間違いないようだ。
「確かに。……しかし、離殿で管理していますのは外鍵だけでして中に入るには内鍵が」
必要となる、と説明する前に「お借りして来ています」の声が被さった。
離殿から外殿を挟んだ向こう側。
敷地の裏手左奥に建てられた四つの蔵はどれもが二重扉となっており一枚目の扉の鍵を外鍵と呼び離殿で、二枚目の扉の鍵を内鍵と呼び外殿で管理している。
鍵は四つの蔵に対応する全てをそれぞれで束に纏められていて、扉の解錠は担当者が行い施錠まで付添うことになっているのだが……。
火茨の手から戻された木札を仕舞うついでに再び懐を探った都輝姫は鉄製の鍵を一本取り出した。
持ち手の部分に木札と同じ紋様が彫られたそれは見間違いでなければ書物蔵の内鍵だ。
忌子の定めで十五を越える者のいない離殿では誰が鍵番を務めても若年になるのを避けられない。普段は最年長の薊が主に預かっていて、火茨や萍も非番の日には番に携わる。
今日であれば鍵を預かっているのは火茨だ。
……これは余談となるが非番であるのに鍵番を務めるのは何代か前まで休みには書物蔵に通い、順に読み耽るのが忌子の常だった名残りである。御社の外に用でもなければ務めに出る者が持っているより所在が明らかで紛失の恐れもないといった理由からも決まりとして根付いたまま続いている。
しかし、そういった事情を抱えていない外殿では決まった部屋の決まった場所に鍵は安置されており壮年の担当者数名が代わる代わるに番を務めている。
蔵には多くの貴重品が仕舞われていることを思えば彼らは規則に従って同行すべきであるし、例え書物蔵の一本のみでも年若い姫君に預けるべき出来ではないだろう。
青目神から許可を得ている彼女がその上で鍵を預かったのならそれが本家の決定であり、火茨の口出しするところにはない。
浮かんだ言葉のほとんどを呑み込んだが、内鍵の管理について物申したい気持ちは多少残って燻った。
「……なら行きましょうか」
声音に疑心が滲むも都輝姫は気にする素振りを見せることなく頷いた。
自分の懐に外鍵の束がきちんと仕舞われてあるのを確認してから都輝姫を連れ立ち離殿を後にする。
塀沿いに二の丸左門を横切る形で外殿の裏手に回った。
蔵は全て土蔵造りで外観の仕上げは漆喰総塗籠。
横二列、縦二列の計四棟。
左右で向かい合うように取り付けられた戸口にはそれぞれで異なる花の紋様が刻まれている。
裏手に回ってすぐ視界に入ってくるそれらの内の左奥に建てられたのが書物蔵だ。
木札や鍵と同じ梅花の紋様が刻まれた扉の前に立つ。
一枚目の扉は木製で、錠を外せば軽く開いた。
二枚目は鉄製。重たく、腕の力だけでは足りずに体重を掛けてようやく中に入れるだけの隙間を作る。
開いた瞬間に流れ出して来た空気に思わず息を詰めた。
日の光に当てられて痛まないようにと窓の無い蔵の中は檜の棚と綴られた紙の束、文字を記す為に使われた墨に埃の混ざった独特の香りが篭っている。
梅雨入り前に行われる年に一度の天日干しを控えていてもっとも埃の溜まっている時期でもあるから尚更だ。
鼻や口を覆えるものを持ってくるべきだったかもしれない。
詰めていた息を吐き出して後悔するも手元にないものを強請ったところで所詮は後の祭り。
開き切るの諦めた扉が影を作って分かりづらいが入り口からすぐ側の、手の届く範囲にある筈の燭台を探す。
光源が出入口から入るそれに限られた蔵の中はかなり暗い。
視線をあちこちに向ける火茨の様子から察してか、都輝姫が「燭台なら……」と声を掛けて来た。
指し示された場所に目を凝らせば柱に固定されたものと簡易棚の上に置かれた取っ手付きのものが薄ぼんやりと闇の中に影を作っている。
礼を言って懐から火打ち石を取り出す。
それを使って双方の蝋に火を灯した。
取っ手付きのものを持って姫様を振り返る。
「どうして石を使うのです?」
彼女は小首を傾げた。
燭台を渡そうと開いていた口を一旦閉じて眉を寄せる。
「質問の意味が分かり兼ねます」
石を使わずにどうやって火を灯せと言うのか。
木の板と棒を用意して火種を燃やす方法もあるにはあるがこの場では適さないし、火打ち石を使うのが一般的で他に選択肢はない。
「薊は使っていません」
姫様の返答には閉口するしかなかった。
薊は火打ち石を使っていない。
それが意味するところなら、今度は尋ね返すまでもなく一から十まで察することが出来たからだ。
赤い瞳と共に忌子の穢れの証とされている炎の力。
その力を使えば確かに火打ち石は不要である。
石などなくとも炎を生み出せる。
薊は火打ち石ではなく自身の力を使って、姫様の前で火を灯した。
同じ力を持つ火茨が何故わざわざ火打ち石を使うのか。
答えは簡単だ。
掟に定められているからであり、破れば当然罰せられる。
穢れの証とされているような力が使用を禁じられていない訳もない。
天還の儀の際には天へと還る前に身の内より穢れを外に出すことを目的として炎を取り入れた神楽を舞うことになっているが、その為の鍛練で青目神からの許可が下りた場合を除けば認められている例外はなかった。
――なお、掟が布かれたのは忌子たちの為でもある。
能力は身体の許容を越えて行使すると四肢の末端から始まって全身に至る、炭化の症状を引き起こす。皮膚が黒檀のように黒くなり凝固するのだ。
「……我々の力が忌むべきものであることは姫様もご存じでしょう」
薊が何を思って姫様の前で掟を破ったかは知らないが本来ならあってはならないことである。
……それだけの信頼を置ける方、ということなのだろうか。
「火茨は真面目なのですね」
言いながら手を伸ばしてくる。
都輝姫は火茨の持つ燭台を受け取ると体の向きを変えた。
棚に並べられた書物の位置を把握しているのか迷いのない足取りで奥へと進んでいく。
その背を見送って、湧き上がった。
呑み下し難い感情をやり過ごす。
俺は声に出して評価される程、真面目な人間なんかじゃない。
人の目に触れていなければ布面だって外すし、冬場には暖を取る為に隠れて力を使うこともある。
要は穢れが他の誰かに移らなければ良いのだと。
……徳を積むことで穢れを抑える為に御社に身を寄せている自分たちにとって掟を破ることはその目的に反する行いである。
上手くすれば一、二年は天還の儀の期日を先に延ばせる可能性もある。
けれど、そのような望みは捨てていたから。
徳を積むことに力を入れなければ十五の年に期日を迎え、十六から以降の年を知らないままに天へと還されるだけ。
そう考えている点では火茨と薊は変わらなかった。
真面目かどうかではなくて、人前――更に言うなら同じように穢れを持って生まれた忌子の兄弟以外の前で力を使ったことが問題なのだ。
口の良く回る姉が自分のように押し切られたとは考え難い。
姫様が口の堅いお方だとしても、どうして万一の事が無いと言える?
考えもしなかった?
馬鹿な。あれは気遣い屋だ。
もしそうなら他人に気を回せない程に
心当たりはあった。
ここ最近になって口癖のように「もう私も十四なの」と繰り返すようになった薊は言葉の通り、今年で十四の年を迎えている。
天還の儀は穢れの侵食の度合いによって左右するので日取りは定められてはいないが、梅雨が過ぎて訪れた夏も終わりに近付けば青目神から通達を受けるに違いない。
努めて明るく振る舞い気丈であろうとする姉がたまに不安と寂しさを覗かせる時があり、苦い思いが込み上げるのを止められはしないものの、何も言えず、何も出来ない火茨にはその意志を踏み躙らないよう見ないフリをする以外ない。
そんな日々を過ごしていた。
避けることは出来ない。
逃げ出すことは許されていない。
やはり問題は真面目かどうかではなくて、自分たちがどんな思いでいるか。
そのようなこと、この姫様に分かりはしないだろう。
重たい感情が塒を巻く。
膿んでじくじくと痛むような、切っ掛けさえあれば叫んで暴れ回ってやろうと狙う凶暴な衝動を伴った感情だ。
自分が忌子であることを実感させられる。
浮かんだ嘲笑が表情に出る前に火茨は口を開いて少しだけ声を張り上げた。
扉の番があるので姫様の後には続けない。
「薊ともこちらへ?」
蔵のことを随分と把握しているようであるし、此処には初めて訪れた訳ではないのだろう。
彼女は「ええ」と頷いた。
「一週間程前から通っていまして、主に薊と。一度だけ萍にも同行していただいたことがあったかしら」
「……そうでしたか」
共に暮らしているとはいえその日の内にあったことを全て報告し合う訳ではない。
務めに関わることなら尚更だ。
薊だけではなく萍も同行したことがあったと知って驚かされたが、日が傾いて夕暮れ時となり、こちらから声を掛けるまで延々と書物を読み耽っていた彼女の姿を見れば何となく察しはついた。
暇さえあれば蔵の書物を漁ることに没頭していた何代か前の忌子たちと同じなのだ。
何かを必死に求めていて、書物に答えがないかと探している。
それが何なのかまでは分からないが、姫様にとって不要なものであることは確かだろう。
彼女に求められ、学ぶべきとされている教養に必要なものは全て外殿に揃えられている。
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