現実と虚構のワルツ(ちょーネタバレ)
『シン・ゴジラ』という物語は『現実 対 虚構』という構図である。
正確に書くと『現実(日本)対 虚構(ゴジラ)』ということになる。
だが、映画を見ている最中に、小生はどうも違和感を感じた。
それが何なのか、ということは見終わった後も分からなかった。
最初は物語に飽きたのか、と思った。
その違和感を最初に感じたのは、中盤のクライマックスが終わった後だ。
ゴジラがぎゃおーんとやった後、しばらくして違和感を感じた。
盛り上がるシーンが終わって、気分がダレたのかもしれないと思った。
だが、どうも違う気がした。
その正体を掴めぬまま、物語は終わる。
ちょー面白かった。
でも、やはり何か違和感が残った。
感覚的には正体が掴めないので、小生は足りない頭をフル回転させた。
ぐるぐるぐるぐる、自分の体と一緒に頭を回す。
ぐるぐるぐるぐる、物語と一緒に頭を回す。
パズルのように物語を分解し、再構成していく中で、『もしかして』という閃きが合った。少なくとも自分の感じていた違和感とは符合した。いひ。
最初に語ったように『シン・ゴジラ』の物語とは、『現実(日本)対 虚構(ゴジラ)』です。確かに物語の中でこの構図はしっくり来ます
但し物語の中盤までは、ですが。
小生の感じていた違和感の正体の一つは、『ゴジラの存在感』でした。
前半や中盤の比べて、終盤のゴジラの存在感は少し薄れてしまいます。
その理由は二つあり、一つは『ゴジラがエネルギー切れを起こす生物』だと判明したことでした。それは『ゴジラも万能ではない』という証だったのです。
そして、もう一つの理由は『核』の存在です。物語の中で『ゴジラ』の存在感が薄くなるに連れて、人類の持つ『核』の存在感が膨れ上がっていきました
『ゴジラ』を倒すためには『核』しかない。
『核』ならば『ゴジラ』を倒すことができる。
ここで物語の構図は『現実(核) 対 虚構(ゴジラ)』という形に変化します。もしくはゴジラが『神格』のようなものを失い、現実化したとも考えられます。
かつて災害とは『神』そのものでした。
ですが、人間はそこから『神格』を奪い去った。
『災害(虚構)』を『災害(現実)』にしたわけですね。
それと同じことが『ゴジラ』にも起きたと推測できます……が、そこを推測すると今回の話がめっちゃややこしくなるのでカット。あくまでも『ゴジラ(虚構)』として扱います。『ゴジラ』はメタファーの塊なので、『虚構』ということで。
さて、物語の構図が『現実(核) 対 虚構(ゴジラ)』という形になったわけですが、これで物語が終わったわけではありません。見終わった方は知っていることでしょうが、ここから更に変化していきます。
物語の中で『核』という兵器を使うことに反対する人々が、『ヤシオリ作戦』という『核』に頼らない計画を進めていきます。
これにより構図がまた変わり、『現実(核容認派) 対 虚構(核否定派)』という構図に変化していくわけです。
この時点で、作品の中から『ゴジラ』という存在が一旦消えてしまいます。
物語のメインが『核を撃つか、撃たないか』というテーマに変化してしまうわけです。これが小生に大きな違和感を与えました。
物語の中で常に存在感を保っていた『ゴジラ』という存在が、『核』という存在に乗っ取られてしまったわけです。最初は『日本 対 ゴジラ』だった作品が、『人類同士の主導権争い』に変わっているというトリック。ミステリー。
まあ、ちょっと深読みするならば、『ゴジラ』と『核』は同じモノを表しているとも考えられます。この辺りはメタファー的な話になるので、今回はカット。
話は戻してまして、最終的にはその人類同士の争いは『ヤシオリ作戦』が決行されることにより、『人類(虚構)』がひとまず勝利します。
そこでまた構図が変わり、『人類(虚構)対 ゴジラ(虚構)』という形になります。実はこの『シン・ゴジラ』という作品は『現実 対 虚構』という形で始まりましたが、最終的には『虚構 対 虚構』という形で終わっているのです。
もしこの『シン・ゴジラ』という作品が最後まで『現実 対 虚構』だったなら、物語の結末は違ったものになったでしょう。この作品において『ヤシオリ作戦』と対になる存在は『核』になります。
本来、この物語に相応しい結末とは、『ゴジラ』に対して『核』を撃つというものだったと推測できます。批評などで『核』を撃つべきだった、と語る人々はこれを指摘しているわけですね。
ですが、製作者は最後に現実を否定します。
『ヤシオリ作戦(現実)』にしなければならないところを、『ヤシオリ作戦(虚構)』にしたわけです。
おそらく本来失敗するはずだった作戦を、虚構にすることによって成功させた。 それがあの結末である、と小生は考えます。
結末の解釈については、今回はカット。
『シン・ゴジラ』という作品は、一つのシーンの解釈によって全体図が変わるという地獄の作品なので、感想を書くだけでも大変なのです(死)
本当は結末の解釈が重要なのですが、また別の機会に。
カットカット。
つまり、小生が感じた違和感というのは『現実 対 虚構』だった作品が、最終的には『虚構 対 虚構』に変わっていく仮定に感じたものでした。
この『シン・ゴジラ』という物語は、『現実が勝つ』もしくは『現実が負ける』という結末を迎えることも十分可能だったでしょう。
『核』という『現実』を使用することによって。
ですが、それをしなかった。
理由はもちろん分かりません。
視聴者に受け入れられ易い結末を妥協した。
ただ単にエンターティメント性を優先した。
映画の尺が足りずに、現実的な結末を描けなかった。
製作者側が現実的な結末を良しとしなかった。
もしかすると、単純に『核』を撃ちたくなかっただけかもしれません。
推測だけならできますが、個人的にはあまり意味がないと思います。
ただ『シン・ゴジラ』という作品が多くの人々の受け入れられたのは、物語の最後に『虚構』を持ってきたからでしょう。
物語というのはそもそも『虚構』です。
現実的な物語の結末が『虚構』であっても、視聴者がそれを求めるならば『正解』なのかもしれません。
ぶっちゃけ、後はその人の好みですよ。
現実的な結末が好きな人もいれば、虚構的な結末が好きな人もいる。
奇跡的な結末が好きな人もいれば、悲劇的な結末が好きな人もいる。
物語の終わり、というのは重要です。
作品を見た視聴者がどんな結末を願うのか。
少なくとも『シン・ゴジラ』の結末は、多くの視聴者が望むものだったのではないか、と思います。まあ、この結末も解釈次第でぶっ飛ぶんですけどねー(汗)
そこが『シン・ゴジラ』という作品の怖いところです。
次回は前回予告したキャラクターの話。
今回はちょっとした前振りでもあります。
では、また次の『ゴジ話』で。
<第五回 完>
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