公と私(ちょいネタバレ)
『シン・ゴジラ』を語るうえで、まず前提としなければならないことが一つありまして、それはこの物語が(ほぼ)登場人物の『公』で出来ているということです。
『公私混同』という言葉があります。
本来、物語というのはこの『公私混同』の状態が普通です。
仕事場などで見せる『公』という顔。
家庭などで見せる『私』という顔。
多くの人間はその二つの顔(ペルソナ)を持っています。
そのため、物語の多くはその二つの顔を描写するわけです。
まあ、最近の流行では『私』を強調する傾向にはあります。
そちらの方がより感情移入をし易い、という理由が大きいかと。
悪役の『私』を描写しないことで、感情移入させないという手法もありますね。
ですが、この『シン・ゴジラ』という物語では、ほとんどの登場人物が『公』の顔をしか見せません。非難する人々などは『私』とも言えますが、それも避難民という『公的な立場(記号化)』であるとも考えられます。
もちろん『公』の顔しか見せないとしても、『私』の顔が消えてなくなるわけではありません。物語が進めば進むほど、登場人物の『私』という顔が除き見えたりするのが、『シン・ゴジラ』にある人間ドラマの一つだと思います。
例えば『ヤシオリ作戦を命名するシーンの自衛隊の表情と言葉』とか。
あそこにも人間ドラマが詰っているのではないか、と思います。
公的な顔(立場)で固められた物語の中で、その隙間から滲み出る人間ドラマをどれだけ見出せるか。それによっても、『シン・ゴジラ』という作品の評価は大きく変わるでしょう。
そして、『この物語がある人物の『私』から始まったのではないか?』ということを考えるのも面白いかもしれません。
その辺りの考察もどきも、また別の機会に。
次はちょっと小さな視点で。
キャラクターの話をする予定です。
ばいびー。
<第二回 完>
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