第33話錦帯橋の結衣
18-33 錦帯橋の結衣
住職の話を聞いて冷たい麦茶を飲んで寺を後にした結衣だが、中々自殺の気持ちは変わらなかった。
唯、悠斗と過ごしたこの町を歩いて、気が変われば住職の言う様に生きてみようと思った。
喪服の結衣を行き交う人が怪訝な眼差しで見て行く事に、始めて気が付いた結衣は、地元の大きな洋服店に入ってカードで買い物を始めた。
「悠斗、カード使っても良いわよね」と呟くと右の耳にかかる髪を掻き上げる結衣だ。
適当に買って、着替える結衣は宅急便で着ていた服を施設に送った。
借り物だった事もようやく思い出して、多少冷静さを取り戻していたのだ。
真夏の錦帯橋は観光客も少なく、五月に来た時とは少し異なる様に見えた結衣だ。
今夜は悠斗と結ばれた旅館に泊まろうと思い立った結衣は、急に河野と前田親子を思い出して会いたく成っていた。
旅行に来た結衣だが持っているのは、先程買った紙袋だけの奇妙な結衣が、河野の勤める(錦川観光ホテル)に到着したのは夕方に成っていた。
夏の日差しの中を、悠斗と歩いたこの界隈を歩いた結衣は流石に疲れて、ロビーの椅子に座り込んで休憩をしていた。
一人で岩国城にも登ったが二人で見た眼下の風景とは大きく異なって見えて、寂しさが込み上げて、何処をどの様にこのホテルまで来たのか自分でも判らなかった。
フロントの係の一人が「あの人変よ、ここの宿泊客では無いと思うけれど?」
「観光客には見えないわね」
結衣の服装は夏の普段着にサンダル、手には紙袋、何処で買ったか覚えていない麦わら帽子が傍らに置かれていた。
「すみませんが、お客様」と恐る恐る声をかけるフロントの男性に「は、はい」と急に我に返る結衣。
「当館にお泊まりの方では無いですよね?」
「これから泊まる予定です」と言われて急にお客様モードに成るフロントの係「では、こちらで手続きを」
「河野さん、いらっしゃいませんか?」
「仲居の河野でしょうか?」
「はい」
「今日は遅番で七時からです」
河野の知り合いで尚更信用したのか、フロントは宿泊の手続きの用紙を持参して丁寧に対応して仲居に部屋に案内させた。
「このカードは、ブラックのコンポーネントカードだから個人用では無い、大企業の重役の関係者の方だ、安心です」と自分で確認して自分で納得をするフロントマンなのだ。
部屋に案内した仲居が「あの女性の客変よ、何も持って無かったわ、紙袋は靴と着ていた物だけよ」と同僚に話す。
「でも特別室に一人では泊まらないでしょう」
「そうね、お金持ちには見えないけれど」
「少し前に見た様な気がするわ」と一人の仲居が言う。
「そうなの?」
「二、三ヶ月前にあの部屋に男性と泊まっていたと思うわ」
「失恋だね」
「いやーね!自殺?」
「河野さんの知り合いじゃあ、無かったかしら?」
「河野さんが来たら判るわね」
仲居のみんなは結衣の持ち物とかで勝手な話をして、河野の出勤を待った。
結衣は部屋の露天風呂に一人入って、当時の事を思い出していた。
「悠斗と入ったのが昨日の様ね」と独り言を言う結衣、アップにした髪の右の耳を指で触る仕草をする結衣、風呂から望む眼下の錦川の風が頬を撫でる。
しばらくして、食事処に向かう結衣を見つけて河野が「いらっしゃい」と微笑みながら声をかけた。
「叔母さん!」と顔を見た瞬間から結衣の頬を涙が溢れて伝った。
「どうしたの?」と抱き抱えて尋ねる河野に「彼が、彼が死んだの」と声に成らない言葉、泣き声が大きい、今まで泣かなかった結衣が始めて大泣きをしていた。
驚いた河野は結衣を近くの椅子に座らせて「泣きたいだけ、泣けばいい」と優しく肩を撫でて落ち着くのを待っていた。
しばらくして「病気じゃないわよね、元気だったから」と尋ねた。
「はい、交通事故で。。。。」
「そうなの、交通事故で急にね」それだけ言うと再び泣き出した結衣。
「楽しかった彼との思い出を探しに来たのね」と河野が言うと頷きながら泣く結衣。
今まで、泣かなかったのだわ、泣ける場所が無かったのか?
今ようやく泣けるのよね「涙が枯れるまで泣きなさい」と言う以外術が無い河野だった。
哲斗は美代に見守られて、精神病院に入院の手続きと成って「何処の叔母はんだ!」と美代に悪口雑言を叫んで、係に安定剤を打たれてようやく収まる始末に、哲二夫妻は憔悴しきって帰途に着いた。
「哲斗は自分が悠斗を殺してしまったと知って、狂ってしまったのだな」
「流石の傍若無人の子も弟の死には精神が持たなかったのね」
「これから、近藤の家はどうなるのかな」
「こんな事に成るのなら、始めから許してやれば良かったわね」
「。。。。。。。」
哲二の頭に、あの時悠斗を一緒に施設に連れて行かなければ良かったと、後悔の気持ちが沸き起こっていた。
お前は幸せなのだよ、世の中には両親の居ない子供も沢山居るのだよと見せる為に連れて行った事、それが数年後にこの様な事態に成るとは、恐ろしさに身震いをした。
ようやく泣き止んだ結衣は河野に付き添われて、食事処で夕食を食べ始めた。
「今日初めての食事だ」とご馳走に初めての笑顔を見せる。
河野は、結衣が何も持っていない事を仲居仲間に聞いて、着替えとか必要な物を近くの店に買いに行かせていた。
自分は結衣の側にいなければ、また何か変な事を考えて自殺の可能性が有るから危険と思っていた。
夜、一人にすると危険だ!旅館に話して、自分が一緒に部屋に泊まろうと考えていた。
今、旅館は暇で、ここのシーズンは春と秋が大賑わい、桜と紅葉の名所だから、夏と冬は暇な時期だった。
「このカードは近藤工業の物だよ、重役さんが持っているか、社長さん家族なのか判らないけれど、大きな会社だ」とフロントの男性が確かめて河野に話す。
「連絡しましょうか?」
「今は、そっとしてあげて下さい、恋人が交通事故で亡くなって、五月にこのホテルに泊まって、その思い出を探しに来られたから」
「はい、河野さんに任せます」
部屋に戻った結衣は再びぼんやりと、窓の外の暗闇を眺めていた。
「お邪魔しますね、フロントに許可貰ったから」
「私が、ここで自殺するかも知れないと思っているのね、大丈夫ですよ、旅館に迷惑はかけませんから、それにまだ明日焼けた家の処にも行きたいし、宮島にも悠斗と行ったから、行ってみたい」
「そうなの?いつまで居るの?」
「東京の学校の寮には、今週末まで外出許可貰っていますから、それまでに考えます」そう言って長い黒髪を掻き上げる結衣を見て、今夜は死ぬ事は無いと確信した河野だった。
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