序章……(六) 【雨宿の女将】
◇◇◇
「とっくに気付いてるからな。……もちろん鍵を掛け忘れてた俺達にも非があるが、だからといって覗き見をするのはどうなんだ……? 嫌な趣味だな、宿の若女将のニエさん?」
「我とりんりを覗き見っ? ……ぁぁぅ!」
リンリの発した言葉に反応してか、
襖の先で「ひぃ!」と小さく悲鳴が聞こえると、廊下をドタドタと全力で走って行くような音が響く。
「まったく……」
「うぁぅ――」
「いや、えーとなんだ……。視線を感じたから当てずっぽうに言ってみただけだったのに、本当にあの娘が覗き見してたとは。てっきり、またサシギ達が俺達の観察をしてるのだと思ったのになぁ……」
頭を掻いて、やれやれと。
念の為に立ち上がり、木扉を少し開けて確認の意味で廊下に顔を出してみたリンリ。
すると、ぼんやりとした灯りが照らす廊下の向こうに……人影だ。普通の人間よりも夜目が利く瞳で、小さくなって行くニエの背中を確認する事ができた。
「あれで、女将……ねぇ」
リンリは顔をひきつらせながら、そう一言だけ呟いておく。まぁ、それだけにとどまる。
覗き見していた彼女を別に追い掛けたり、その行動に咎めの言葉を出したりといった面倒な事はせずに、些かなり無用心だった開きっぱなしの木扉をそっと閉じて部屋の中から施錠した。
そうしてリンリは、ため息。
「あぅあぅ」と鳴き声を発しながら真っ赤な顔で硬直するハクシの頭を撫でて、耳と尻尾を曲げて考える素振りをし……口をほころばせて面白そうに、
「ははっ、あの娘から変な誤解をされるかも知れないなぁ。でも、別に見られて困る事もしてない。俺達の言葉の意味も彼女には解らないだろうし……ここは、これをネタにこの町の名所とか面白そうなスポットの情報を教えてもらうチャンスかもな。なーんて」
そんな風に、口に笑みの形を描いた。
「きゃう! 我と其方の、せ……接吻を……見られてたなんて。恥ずかしい……一生の不覚だっ!」
俯せたまま気恥に悶えるように呻くハクシ。
「えーと。その場面から見られてたかどうかは解らないが、まぁそうだな……。恥ずかしいな。ほら、ハクシ様、よしよーし」
リンリは俯せているハクシの両脇の下に手を入れると、再び自分の膝の上に彼女を座らせて、宥めるようにその頭をもっと撫でておく。
「また中断しちゃったからな。
ハクシ、もう少し続けようか……?」
「ぁ……ぅ、うん」
そして櫛を持ち直すと。
先程までしていて、その途中で中断してしまったハクシの尻尾の毛繕い……いや、二人の大切な時間を再開するのだった。
――先程より、互いを感じ合いながら。
◇◇◇
「――リンリ様ッ!! ハクシ様ッ!!
先程は、も、申し訳ありませんッ!!
覗く気なんて無かったんです。ただ、扉に錠が掛かって無かったから、無用心だなって思って。それで、つい少し襖を開いて部屋の中を見てみたら……お、お二人様が接吻を……だから、いけないって思っても……目が離せなくなってしまって……それで」
――少し経つと、廊下から「し、失礼します」と怯えや恐怖を含んでいそうな沈んだ声が聞こえてきた。その声はこの宿の若女将ニエのもの。
一度はリンリの声に驚いたのか廊下を全力で逃げて行ってしまったものの。流石に逃走し、そのままでは立場が許さないのか。彼女はリンリとハクシのもとに再び訪ねて来たようだ。
リンリが軽い返事をして扉を開くと。その先に立っていたニエは咄嗟に廊下の冷たい地面に跪いて、やはり頭を地面に強く打ち付けんばかり、開口一番そう謝罪と釈明をしてきた。
そんな彼女に、リンリとハクシの二人は、
「――いやダメだ、俺は許さない!」
「我も許さないっ! ……覗き見だめ!」
と、口では言いつつも。別にそこまで気にしていないという心情が伝わるように、事前に示し合わせ、穏やかな表情で彼女を迎える統巫達。
「……ぇえ? リンリ様、ハクシ様、その笑顔はいったい? わ、私の行動はお二人様の気に障ったりしなかったんですか?」
ニエは頭を上げて、自身を出迎えたリンリとその後ろに張り付いているハクシの表情を見上げると、遠慮がちに質問してくる。
「――もちろん、気に障ってるとも。だけど、極限までの怒りで振り切れたのか、不思議な事に良い笑顔をしている俺達だ……!」
「ひぃ!」
「娘、ニエと申したか? 其方には、死より恐ろしい罰を与えよう……後で
「ひいぃッ!」
「冗談だ。そう怖がるな。覗き見をして逃げて行ったニエさんの行動はちょっと問題あるが……後で『来て良い』って言ったのは俺達だからな。来ると解っていた来訪者に対し、こちらが用心せず錠を掛けてなかった事を責めても仕方ないだろ? ……だから今回の事は不問にしよう! そしてハクシ様、度胸試し
「しかし、見た事は直ぐに忘却だ……良い? さもなくば
「――あ、ありがとうございますッ!
流石は統巫様……あっ、じゃなかった。リンリ様とハクシ様、お二人様の寛大なお心遣いに感謝いたし、しますッ!」
ほっと安堵の表情を浮かべてから、立ち上がり何度も何度も頭を下げてそう言ってくるニエ。そんな彼女が、自分“達”をやはり単純な客ではなく“統巫”扱いしている事実に気付いて、尻尾を垂らしどこか悲しそうな苦笑いを返すリンリ。
それを誤魔化すようにリンリは言う。
「……その代わりと言っては何だけど。
俺達の一方的な話だけじゃなくて、キミもこの町の名所とか地元の人間しか知らないような行楽地の情報を教えてくれないか?」
「我もりんりもサシギも、外の事は疎い。
本人は構わないと言うけど、シルシにこの町の案内をさせるのは酷だから……ね?」
「その代わりとは言わずに、ぜ、ぜひッ!
町の紹介ならいくらでもお話ししますよ。お客様のそういった質問にちゃんと答えられる事も、この仕事では大切な意味がありますからねッ!」
ニエは自身の胸を叩いて頷いた。
◇◇◇
夜が更ける程に、外の雨音が強くなる。
曰く、彼の【チィカバ】はその周辺の土地による影響故に雨期には天の気が荒れ易く。また土地の形成過程を所以とする地質などの性質も合わさり。先人が移り住み、居を構えた古来より、豊かな土地である反面で地滑りによる濁流や河川の氾濫といった水害に悩まされ続けていたという。
――だが、それも今や昔の話。
近年のチィカバは水害など全くの無縁である。
何故なら、町の周囲に本流から枝分かれするよう幾つも流れる支流である小川。満ちた豊かさと引き換えに、水害の大きな原因にもなっていた“その小川”に数十年ほど前……ある技師の技によって治水の為の堰堤が各々設けられたのだから。
技術さえ知ってしまえばそれはとても簡素な設計ながら、その効果は目を見張るほど凄まじく。設置当所こそ、たまに抑え切れない水害が起きたものの……より技術が上がった近年は土砂崩れ等の水による副次的な災害が発生するのみで、水害自体はチィカバには皆無の存在になったのだという。
初期の堰堤は、数年前に時間の経過による劣化を危惧した町民に取り壊され。今はより高度な技術を利用した、町の中の生活用水を溜めておく貯水場に掘りを通して水を汲む機能まである堰堤が設けられた。そうして、その一つ一つがチィカバの町の発展と、鄙の土地ながら水資源の豊かさと、人の弛まぬ励みによって栄えたことを示す名所となっているらしい。
――と、ニエはリンリが聞きたいと言っていた、この町の名所の案内。
名所である“堰堤”の生い立ちや、簡単な構造など専門的な知識が必要な複雑な部分を省いて二人に話してくれた。
「堰堤……シルシ……ふぁぁ……」
ハクシは一区切りの話を聞き終えた所で、眠そうな顔で何かを呟き掛けるが、リンリがそれよりも大きな声でニエに言う。いや、突っ込む。
「いや、堰堤ってあれだろ? 到着前に馬車からちょと見えた……違いが解らないけどダムみたいな物の事だろう? 跳ね橋みたいなのも有ったか。あーそうじゃなくて、観光名所みたいな物はこの町にないのか? 町の歴史も良いが、その辺りも聞きたいところ」
「……え、そんな華やかな場所、すいません。私には思い付きません。こんな辺境の町にあるかどうか……あったとしても、私は宿の仕事以外だとあんまり外出できないので……詳しくは」
「おい、ニエさんや『お客様の質問に答えられる事も大切な意味のある仕事とか』言ってただろ。自信満々な風に言ってただろう!? 発言には責任を持て。一体、あの言葉はどこから出たんだよっ?!」
「か、考えてみると酒場とか私は行きませんし。
安い料理屋とかなら泊まっていく人達や仕入れをしてる商人の人から、『あそこの酒場は、主人の拘りが強くて煩いが、酒好きには穴場だぜ!』とか『貧乏者にはあそこの料理屋で、たまに安い料金を食うのが唯一の娯楽だ!』とか……情報が入ってくるので簡単に答えられるんですが……。それ以外だと私の知ってるのは……よく買い出しとかの帰りに寄り道をする『裏道の甘味処』くらいでしょうか?」
「いや、それでいいだろう。堰堤よりは若者ウケする話なんじゃないかな? で、ほうほう甘味処と……。つまりスイーツ? どんなものだか詳しく!」
――そんな風に。
リンリとハクシは約束通り訪ねてきたニエをそのまま部屋に招き入れ、三人で様々な話をしていた。ニエは自身から遠い存在である二人の統巫の話、特にリンリの話す【洗濯や炊事などの家事を、ある程度自動で行ってくれる道具】【遠い場所の相手と即座に連絡を取り合いう道具やその方法】など、まるで異世界のような聖域の中での暮らしを興味深そうに聞いていく。
ハクシが間の手を入れ、リンリの言う“領域”の暮らしを全て否定するが、ニエにとって話された内容が真実かどうかは重要ではなく。仮にリンリの冗談だとしても、ただ自らの知らない世界を感じられるのならそれで良いと笑っていた。
「母と父は、私が望むならこんな『ボロい宿捨てて自由に生きて良い』と……ここの『跡継ぎ何て考えなくて良い』といつも言ってくれてました。私はそれを真に受けて、ただ毎日宿を手伝ってお小遣いを貯めてただけ。いつか外の世界に旅立つ時の為に……です」
「ニエさん……突然なんだ?」
「……ふぅ……すぅ、すぅ……」
そして、少し時間を考えずに話し過ぎたのか……ニエは段々と眠たそうな目のなり、頼んでいないのに自身の『身の上話』を語り始めた。
既にハクシはリンリの組んだ膝を枕にして寝息を立てており、完全に眠りの世界。ニエは二人きりの会話となってから暫く、まるでリンリに対して己の人生相談をしているように話題を逸らしてくる。
「……でも一昨年、女将だった母が流行り病で亡くなって。私は何の心構えも、知識も、能力も無いまま、この宿の女将に成ってしまいましたぁ。あぁ、違うんです。なるしかなかったんです。父と幼い弟に全てを押し付けて、宿を出るなんて私はとてもできなかったからッ!」
「ほう……やっぱり関心じゃないか。
そして、ニエさん。あー気が付いたがコレ、お酒じゃないだろうな? ここじゃ未成年者でも飲酒も喫煙も禁止されてないとはいえ……大丈夫か?」
彼女の様子がおかしい。
リンリはそういえば口を付けていなかった自分の杯に鼻を近付け、くんくんと匂いを嗅いでみる。おそらくそれは蜂蜜を薄めたものに絞った柑橘類の汁を割ったものだが。注がれたその液体からは、濃厚な蜂蜜の甘い香りと、細やかな柑橘の酸味を含んだ香の中に、密かに酒気特有の香りも感じられた。
「お、お酒……? 大丈夫でしゅ、お客様の前でへぇそんなの飲むわけぇが、コレは別にお酒なんかじゃぁ、ありませぇ…………んあッ!」
「んあ?」
「ぁ……すいません。こりぇ父の秘蔵の果実酒かもしれません。隠してあったものを、普通の果実飲料と間違って、持ってきちゃたのかもぉ……」
「ははっ、匂いからして、コレは相当薄めてあるようだしな。間違うのも仕方ないだろ」
「うぅ……私、本当にダメです。そそかしくて、要領も悪く、礼儀も無い。いっつも子供っぽい失敗ばかり……」
「気の張り過ぎだ。これからの努力次第だ」
「リンリ様ぁ。私は、私は――」
言い淀む、ニエ。
「聞いてやる。言ってみろ」
「――私は、性格も悪い。最悪です。……リンリ様……私は……こんな宿嫌いなんですッ! 私の一生をこんな所に使うなんて嫌です、こんな宿潰れてしまえばいいッ! すべてすべて投げ出して自由になりたいんです――」
ニエは、言葉を止める。
そしてハッとした表情をすると続けて、
「……そうやって、大切な宿にそんな事を考える自分が嫌ですッ!! リンリ様……統巫様には悪い命を精算する役目もあるんですよね? 私も精算して下さいッ!!」
「…………」
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