序章……(五) 【契り雨】
「――我の行動は、其方にとって、果たして“是”だったのかと。それとも……ッ!」
ハクシの言葉はそれ以上続かなかった。
いや、違う。続けさせてもらえなかった。
――何故なら、
「…………ん」
「…………ぁぅ」
突然にリンリに頭を抱えられ、そのまま引き寄せられて、次の瞬間――。
――二人の唇が、重なったから……。
◇◇◇
「――っぅ」
「……んむ」
それは別に艶かしいものでなく、誓い合った男女がするような情熱的なものでも無し。
ただの触れ合い。お互いの口先が軽く触れ合う程度の……本当に些細な
「んぅ……にゅっ!」
だけれど、まだまだ幼いところのあるハクシには些かなりとも刺激が強かったようであり。
彼女はその獣の耳を上に尖らし、尻尾を先程以上にぶわっと膨らませ、その金色が綾なす琥珀のような眼を限界まで見開いて瞳孔を細くしてしまう。
「――んっ」
それでも拒みはしない。ハクシはリンリから逃れようとはしなかった。むしろその逆だ。
すぐ
――その瞬間だけは、
二人に巻き付いた罪の鎖、咎の楔。枷られた各々の過去も、未来も、運命も、定めも、使命さえも等しく無意味な物だとさえ錯覚させる程に。
我らは愚かか。あぁ愚かしい。愚かだとも。
天の枢はその愚かしさに落涙を流している。
けれど知ったことか。この一場は我らがもの。
雨戸が風に煽られ揺れる雑音。
雨粒が屋根に落ち四散する音色。
落陽の後、陽の役割を継いだ照明の虫が、その命を燃やす事で生まれる温かく穏やかな灯り。
それら全ての音という音、色という色は褪せてしまったかのように。余計な色付けは
互いに何処か欠けた者で、不完全。対の虚穴は埋められはしない呪詛、宿命、傷跡で。なお憂うは、もはや誰が為かも曖昧な役廻。課せられた
けれど己の欠如を補ってくれる片割れが、その者が傍らに居てくれるのならば、どの様な前途だろうと歩んで行ける。使命という軛を抜けて、特別な存在などではない個の命として振る舞える。
一人でなく二人ならば、なれば『触れ合う口先』こそ何者にも侵す事ができぬ、全ての答え。だったのだ。そうに違いない。そう信じて。
「…………っ!」
「……ぇ?」
やがての、折り目。コトリと、物音――。
ハクシの頭を抱えているのとは逆の腕に、リンリが握りっぱなしだった一本の櫛。その櫛が畳の上に落ちた音で二人の意識は現に引き戻されてしまう。
「っ、はぁ」
「……ぁ」
――そこで、二人の唇は離れる。
片や、リンリは我に返ったように。
片や、まだ満ち足りない様子のハクシ。
離れ離れになった二人は共通し、深い息遣いで、頬に赤みが差して上気した顔をしていた。
「……ふぅ」
「……ぁぅ」
恥ずかしさからか二人は顔を背ける。
互いの息遣いを除いて、暫しの無言が続く。
ハクシはゆっくりとした動作で自身の唇を震える指でなぞり、今し方に起きた事を頭の中で再確認しているようだった。リンリは穏やかに笑み、そんな彼女の背中を撫でてから抱擁。彼女をそっと持ち上げ、自分の組み足の上より優しく床へと降ろす。
「…………」
「…………」
吐息。リンリは温もりが失われてしまい、寂しくも自由になった足を組み直し姿勢を正してから、
「なあ、ハクシ。いいか?」
――そう、呼び掛ける。
「んっ……りんり…………なに?」
何事もなかったように、ハクシはリンリに振り返り応える。だけれど今の彼女は抜け殻か。リンリに応えはしたものの、向き合った彼女は口を半開きにしていて、その瞳は何処を見ているのか『ぐるぐる』と曖昧であり、おまけに湯気でも立ち昇りそうなほど赤く上気した顔。要するに、ぼんやりとしていて。
「――ハクシ、ハクシ様っ!」
「……ぅ……ん?」
「俺も、怖かったんだ……」
「……りん、り?」
「今ここに、こうして俺が居られるのは全部お前のおかげだ、ハクシ。ハクシ様。本当にいくら感謝しても感謝し足りないと思っている。ありがとう。だけどな、ハクシが俺にしてくれた行動は、あの約束は、お前自身にとって……本当に良かったのかと。そんな事を考えてしまうのが怖かったんだ……」
リンリは落ちたハクシの櫛を拾うと、それを握り締めて言葉を続ける。不注意からか櫛の尖った針状の部分が華奢で繊細な指につき刺さるが、伝えたい言葉を途絶えさせない為に痛みを我慢するよう喉を鳴らす。
「クッ……そして後悔してる。
あの時、身勝手に……ただ死にたくなくて、ただ死ぬのが認められなくて。
「――え? ねぇ、其方……りんりは自分自身が人ならざる身になったことを、人じゃ無くなったことを後悔してないの? ……我は其方から人としての生を奪ったのだ! 本来の命の在り方を歪め、生まれ持った姿を転じさせ、自由に逝く権利さえ剥奪した! 少なくとも其方は人ではな――」
「――だから、どうした?」
「りんり……」
「ハクシが手を差し伸べてくれなければ、俺の存在はとっくの昔に失われてた。だから親に貰った姿を無くしてショックは受けてるけど、この姿になった事自体には何一つ後悔はしてない。ハクシとお揃いの存在って事で、まぁ割り切れる。割り切るしかない」
掌で顔を覆い、唇を結ぶ。
下唇に牙が当たり、獣のように唸ってしまう。
「……他人に姿を見られるのは、まだちょっと控えたいけどさ……。その他の問題も色々とあるが、まぁなるようにしかならない。この旅の終点までには、きっと答えが見付かると。そう信じて行くだけだ」
リンリはそれから櫛で自分の獣の耳を触り。順に身体の毛皮を梳いて、豊かな尻尾を床に伸ばす。
その言葉とは裏腹に声はどこか悲しそうだが、表情ではそれを隠そうとすようにハクシに向かって精一杯微笑んでいた。ハクシがその表情の裏に隠された感情に、気付かない筈が無いというのに……。
「……この姿になったおかげで。物語は続く。諦めるしかなかったから、自分自身で誓った『この世界でせめて精一杯活きて、悔いなく終わってやる!』そんな俺の命題はもっと先に進む事ができたんだ!」
「……りんりぃ」
「ハクシが過去に『友達』との別れを経験して。その『異成り立ち世』の友達と俺を重ねてた部分や、喪失への苦悩と執着。誰かが居なくなることを恐れてたのは知ってる。まぁそれは後から知ったんだけどな」
「……執着」
「あーつまり、何を言いたいかと言うとだな。ハクシは優しいから。だから、失わないようにって。好きでもない俺を助ける為に……統巫としての大切な使命を。いや統巫である前に一人の女の子としての重要な選択をさせてしまったんじゃないかってなぁ。えーと、それを考えずに頷いた、あの時の自分に後悔してた。……事を後悔してるって事だ」
「りんりを? 好きでもない? それは否だ。断じて否だ。そんな事……ないよ!! 過去の執着、それを否定はせぬが。履き違えるでない。我が其方を好んでいなかったら、決して斯様な事をしなかった故に。良いかっ……あのねっ、だからっ!」
「……あぁ、えーと。そうか。
混乱させるような言い方して悪い」
「我は――」
「俺が、この姿になったのは、きっと
「「――それでもっ!!」」
――意図せず二人の声が重なった。
「……ハクシ。俺はお前と一緒に居たい。
後悔してはいけないんだって悟った。俺自身に嘘を付いて、後悔したり、怖がってたら、さ。きっとハクシの俺にしてくれた行動はまるで意味の無い物になる。俺のお前への気持ちも同じだ。そんなのはダメだ。お前の言葉に俺が答えた、その事実だけで良い。ハクシの行動は俺にとって是だったか? 何を言ってるんだ、是に決まってるだろっ! 今のがその答えだ。神様とか運命とか、そんな形の無い物は関係ない。俺の答えだよ!」
「りんりぃ。……どうか、我と共に居て。我は構わない。例え二人の間に、実が結ばれる事が無くても。我が統巫としての使命を果たせなくても、それが天命から外れる禁忌だとしても……うん。構わない……から。我は失う事に恐怖を覚え、それを埋めてくれた其方に心引かれたのだ。だから、あの時の約定は、我にとって誤りなどではないとも。正しい選択なのだと信じている。故に後悔なんてしないで。ただ、りんり。其方は我と共に居て」
――重なった声は、
「……そうか」
「……そう、なんだ」
――それぞれに確り、伝わった。
「……ははっ、俺達は不器用だな。
こんなに近くに居るのに、お互いに勝手に相手の事を思って、それで思い悩んでた。本人に確認もできずにさ。あぁ、すごくアホらしいことだ」
「相手に自らの思いを伝える事もせずに。
ただ答えなど出ない、揺れ続ける虚ろな天秤を眺めるだけだったのか……我と其方は」
「……似た者どうし、だな。
俺達は……きっと。番という関係以前にさ」
「そう……かもしれないね?」
「おかしいな」
「おかしいね」
その後、二人は心から微笑み合う。
もう、くだらない事でお互いの心を違えないように。相手を思うのではなく、相手とわかり合う努力をしよう。そんな願いと意思を含んだ物だった。
「……今になって恥ずかしくなってきた。何で俺はキスなんてしてみたんだ? 彼女いない歴は年齢と同等だったリンリさんだぞ? あいつは『暫定的生涯きっといい人止まり』と嫌な異名を持ってた俺なのに。まさか、キスするとかいう発想が自分から出るとは。本当に俺は俺なのだろうか?」
「りんりぃ、接吻はずるぃ……」
「悪い、本当に申しわけない。あー、ハクシの言葉をどうにかして止めさせたかったんだよ……俺は、きっと……。きっとな」
「でも、接吻は軽々しくするものでは……ないのだ。……ないよ……ないのっ!」
「……ハクシ、本当に悪かったって。
だから、どうだろう。今度キスをする時は予めその場面を二人で決めておかないか? その方がロマンチックだと思う」
「ろまん、てぃっく?
また我に理解できない言葉を使って……」
「空想みたいに、甘美で情緒的って意味の言葉だった気がするな……素敵、じゃないか?」
「んむぅ?」
「……どうだろう? ハクシ様?」
ハクシは自分がリンリにはぐらかされたのを承知しているのか、一度ジトリとした目線を送って。だが直ぐに輝く満面の笑顔を浮かべて伝える。
「……良い。良いね!
ならば、目的を果たして旅が終わったら。我と其方とサシギ達でもう一度……契りをするの。今度は伝統のある確りとした方法でね。それで、そこで接吻をしよう。……りんり、約束っ!」
「……あれ、待て。そう言っといて悪いが。
よく考えるとそれ目的が果たせないとか、旅の途中で死別とかめちゃ嫌なフラグなんじゃッ?!」
うぐぐと唸るリンリの不意を付き、
「りんり。だったら、今は――」
ハクシの方から顔を寄せ。
「――お返しぃっ!!」
「うわぁハクシっ!? 危ないって!!」
もう一度だけの触れ合い。
二人の鼻先が接吻のように優しく接した。
――二人の間に何があったのか? それは当人達にしか解らず。過去に立ち返り明かすのは後程。故にこの場では語るべくもない。だが、二人が今この場に共に居て、お互いの存在を愛しいと思えている。それだけで二人の世界は輝き、掛け替えの無いものと成るのだろう。めでたし、めでた――
「――ところで、だッ!」
「……りんりぃ?」
リンリはそこで、獣の耳をピクリと動かし。入口の錠の“開いた”木扉を睨みつける。
サシギとシルシに料理を用意してもらった時に錠を開いたまま、開けっ放しにしていた木扉に注目。
扉が少し開き、隙間ができている。その先からの視線に気が付いたのだった。
「とっくに気付いてるからな。……もちろん鍵を掛け忘れてた俺達にも非があるが、だからといって覗き見をするのはどうなんだ……? 嫌な趣味だな、宿の若女将のニエさん?」
「……我とりんりを覗き見っ? ……ぁぁぅ!」
リンリの発した言葉に反応してか、襖の先で「ひぃ!」と小さく悲鳴が聞こえると、廊下をドタドタと全力で走って行くような音が響く。
「まったく……」
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