序章……(三) 【ボロ宿】
◇◇◇
受付の彼女は、数秒ほど呆けた顔をし、
「あの……。は、はっ、初めて。私、初めて
とたんに慌てふためき、無難な世辞。
とはいえ、まあまあ仕方なしか。
他は異なるやも知れぬが。少なくとも、この土地【シンタニタイ】では
「あ、あの。統巫様とはつゆ知らず、ご無礼を言ってしまった事。お許し下さいッ!」
彼女は宿帳などが置かれた受付の机に、顔を打ち付ける勢いで
振動で壁に掛けられていた
「あ、痛っっ、たぁ~……」
「そりゃ痛いじゃろうな」
強く打ち付けられた鼻が赤くなっている。
なかなか痛かったのだろう。娘は涙目で唸り、鼻を擦り始めてしまった。そんな娘の頭部に、追い討ちをかけるように落下してゆく掛軸の
「ふぎゃ!」
「こりゃたまげた。脳天に直撃じゃな」
――別に統巫達は、機嫌を損ねたからといって人の世の権力者等のように何か理不尽な仕打ちを与えてきたりする用な存在ではない。
――けれどその反面で。どのような場合でも、どのように人の世にとって高貴な者だろうとも。彼女達への慎みや敬いの念を忘れてはならない。加えて、決して彼女達『統巫』の人格やその在り方を
――もしも
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「うぐぐ。俺が、美しい……統巫様かぁ」
一方、姿を
座り込んだままの姿勢で尻尾をしなやかに床に下ろし、眉を寄せ心底に複雑そうな顔をしてしまう。
「はは、統巫様……ねぇ。別に、そんなに……かしこまらなくて良いからな。むしろ気を張らないでくれ。俺は純粋な統巫じゃないし。えーと、あれだ……
「は、はい……?」
「――あぁ、今のは聞かなかったことにな!」
これは何とも『意味不明』で『風変わり』な物言いをされ、疑問から頭を傾ける受付の娘。
「統巫様じゃなくて、俺の事は【リンリ】で良い。
良いんだが。んん……そうもいかないって? 呼び捨てを許すのはちょとダメか。そうだな、なら気兼ねなくリンリさんとかでどうだろう。……あとできれば『統巫』扱いはしないでくれないかな?」
呆ける受付の彼女を他所に。【リンリ】という、旦那様の統巫個人としての名告り。それと本人から自分自身を統巫として“扱わないように”という要望。
「あの。あ、扱わないように、ですか?」
「そうだ。まぁ、色々と理由が有ってなぁ」
何とも言い表せぬ顔で、溜め息。リンリ様は自分自身の尻尾の
「……理由、ですか? そうなんですか?」
――この町【チィカバ】から山二つ三つは離れた場所にあるらしい、代々で系統導巫に仕えているという一族の集落。その更に奥地にあるらしい系統導巫の住まう閉ざされた土地、命の
……他の統巫様は兎も角だ。
系統導巫は土着の統巫。是非や結果を考えないでその領域の外を出歩くような事はしないという。
この土地の人間達の間では、それは系統導巫が『自らの力によって、むやみやたらと人の世に影響を与えてしまう事を避けていらっしゃる』のだと語られていた。時として対価を求めぬ恵みは、それをもたらす都合の良い存在は、度が過ぎれば人の世にとって毒や禍となり得るからだ。何もせずとも与えられる『恵み』という蜜に味を占めた人々が堕落や諍いを経て、他の者を顧みない鬼となり。しまいにどんな禁忌を犯してしまうのかは、遠い遠い昔話が暗に示す。
「は、はひ! はい、わかりましたよ!
ただの宿泊客として、統巫様のリンリ様、並びに皆様を扱えという事ですね! 他のお客様と同じように普通の女性客として。はい、承知でございますぅ!」
――なのに、系統導巫がここに居られる。
それには『一介の人間には伺い知れぬ、きっと深く重要な訳が有るのだろう』と解釈したらしい。
受付の彼女はそれ以上複雑そうな事情に踏み込むのはよして、事情は『察した』と頷いて示す。
「――ぐはっ、女性って……。
だからっ、俺はそれがちょと嫌なんだが……」
まるで急所に矢でも刺さったかのような反応。
ぼそぼそと何かを呟くリンリ様。
「は、はい?」
「まあ、いい……。仕方ないか……うぅ。
そんな感じで構わないさ。よろしく」
言い終わると、彼女――リンリ様は下を向き、自らの胸元を抱く両手に力を込める。
そして、そのたいそうな容姿に見合うほどの神聖さと気品さを感じさせる衣装に包まれた胸部。乳房の膨らみの上で腕を組み、顔を埋めてしまった。
「
見守っていたハクシは、リンリから奪った頭巾と外套を大切そうにギュッと両手で抱きしめ。そんな彼女を心配そうにする。
「ハクシ様。恐らく、旦那様にはまだ時間が必要なのでしょう。『ご自身の存在』それを割り切る為の時間が……。
「そうじゃ、長い目でのぅ……」
「サシギ、シルシ……そう、かもね」
ハクシは、そのまま動かなくなった自身の旦那様――リンリに
「ならば、うん。最後に我も己の姿を晒そう!」
「ハクシ様、私が外套をお取りします。ばんざいの体勢をして下さいませ」
「サシギ? はい、ばんざーい!」
サシギに頭巾と外套を脱がせてもらい、
その中から現れた彼女、ハクシの姿は、
「我は
――
長く麗しい銀髪に、金色の眼。獣の耳と尻尾が生えた人ならざる姿。背中から脇の下、腕に通すよう、証しである
寄り添うリンリとは、また違った方向の美。
まず女性的な発達はこれからか、といった小柄な身体つきであり。見た目の齢は十代の中頃よりもう少しだけ若いかといった辺りで。どこか凛とした雰囲気も纏うけれど、まだ抜け切らぬ幼なさを感じさせ、愛らしく整った可憐な顔付き。それ以外は先程のリンリと似た身体的特徴を持つように見える姿。
「え、二人目のッ! 系統統巫様ッ?!」
――つまり、彼女達は。
「
「統巫の……親子……様、ですか?」
親子、と捉えられたらしい。
曰く、統巫には各々統べる権能があり。各々が此土を支える一柱。一柱で一世代に一個体のみの存在。
つまり真っ当な統巫ならば、通常は『姉妹』などという関係性は有り得ないとされ。見かけの年齢などは、ある程度まで成長するとその精神性に相応しい姿で留まり、実のところ当てにはならないというから。
仮に詳しく知らなくとも、統巫との関係性が近い土地柄か基本的な性質の理解はしているということか。いやまるで知らないとしても、受付の彼女に二人の間柄をそう認識されてしまったのも無理はないか。
「我と其方……我とりんりが親子ぅ?
……ぅう、否だ。違う、違うよぅ!」
ハクシは最後まで自分の
「あうぅ……」
そして、自分の大きな尻尾をリンリの尻尾の上から重ね合わせて縮こまる。小動物を思わせる変な声を出して、一緒に動かなくなった。
「ハクシ、よしよーし。……俺達は親子だってさぁ……はぁ……それもいいな……この格好ならさ……あぁそれなら、違和感ないし。ははは……」
「我は
「『親子』そういった解釈もありますか。統巫を見慣れない者……何も事情を知らぬ者ならば、多少の姿の違いなど些細なもの、なのでしょうか。それにしても親子とは……ふふっ」
「どーこが親子なんじゃ……?」
ハクシの
「え、えっと……これが、統巫様?」
ことのほか自由な統巫達の対応に困る受付。
だが、本当に困っているわけでもない。
「久し振りに、賑やかなお客様達です……」
――彼女は少し、気が弾んだ様子だった。
世間一般、大衆的な知識での『統巫』という存在とはやや異なり。【リンリ】様と【ハクシ】様、彼女達は通俗的で親しみやすそうな印象だったからだ。
この頃は『金が無い』からと豪華絢爛な向かいの宿には泊まれず、仕方なしにやってくる客が大半のこの宿では、故があり日に日に廃れるこの宿では。こんなに珍しく、美しく、賑やかな客達は滅多に来ない。けれど……今日は偶然か必然か、彼等はこの宿に泊まろうと訪れてくださったのだ。その事が嬉しくない訳がない。
だけれども、
「――統巫様なら。伝え聞く統巫様ならば。
もしかしたら、この私を……」
――受付の彼女はリンリを見て、途端に暗い顔でそう言葉を溢す。そんな自らの主に対する受付の娘の視線に気付いてか、
「ふむ……それで、私達は貴女に言われた通りに身分を明かしました。これで私達は、本日の宿泊が可能と成ったと捉えてもよろしいのでしょうか?」
サシギが思い出したように確認する。
「あ、はい! もちろんですッ!」
「ならば、こちらの
「はい、そうです。この宿に部屋の位は無いので、二部屋分の代金の……えーと」
「ならこちらを。釣りの代金は結構です」
サシギは金一封を受付の机に置く。
「……え、え? これすごい多いですよ。
ひい、ふう、みい……。うわぁ、この金額なら向かいの宿でも一泊なら十分にできるのに……?」
「口止め料込みの代金です。お気になさらず」
「それだけで……こんなに? ですか?」
「系統導巫のハクシ様と、その旦那様がお泊まりになるのです。たった一泊とはいえ、宿側にも心をくばる事を強請してしまいかねません。それを踏まえての代金です。そういう意味で、よろしいですね?」
「……ハクシ様とリンリ様と、お連れの
人智を越えた統巫という存在の親子(仮)と、その従者の人外の二人。久方ぶりの、しかも“珍しい”お客の宿泊に。受付の彼女は先程までとはうって変わり、慌ただしく働きはじめた。
◇◇◇
――結論から言えば、リンリの宿の選択は“雰囲気だけ”で選んだにしては……中々の当たりを引いたと言えるだろう。
宿の外観は、それはもう『酷い』ものだった。
一言で言い捨てるならば、ボロ宿。
具体的に酷い部分をいくつか挙げるなら、まず屋根瓦が所々取れていて、穴の空いたままの壁板。入口の上の雨避け屋根が、木製の支柱が朽ち傾いてしまっており。ついでに案内の看板が倒れている。付け加えて、大通りに敷き詰められた石の板の上に、宿の回りだけ枯れ葉等の塵が溜まっている。などなど、そんな
だが、内装にはそんな事は全く無く。
建物自体の様式を生かした古めかしくも伝統のある雰囲気が、主張しない壁や天井の装飾と、飾られた工芸品達によって見事に調和している。それらが薄暗い廊下を照らす行灯や色とりどりの提灯の淡い揺らめきによって引き立っているのだ。まさしく日常から切り取られた
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