第32話
「早坂さんが消えた教室なんて海月のいない水族館と同じだよ。ピンク色のマカロン、きらきら光るスカイツリー、深夜3時の満員電車と同じ。長く果てのない旅を終えて家の玄関に辿りついたら、あなたに会いたくてたまらなくなったんだよ」
夜10時。街灯の少ない道を歩いていた。早坂さんが通っている通信制の高校は、駅から15分歩いたところに位置していた。決して新しくはないコンクリート建ての校舎の表面には緑色の蔦がぎっしりと張り付いている。
生徒と思われる人々が何人か出てきたと思うと、見覚えのある横顔が目の前を通り過ぎようとしていたので慌てて呼び止めた。
早坂さんは私の姿を認めて、一瞬驚いたような表情を浮かべたと思うと、すぐに目尻を下げた。私との再会を喜んでくれているのだと分かったとき、胸の中に巣食っていた闇がほんの少しだけ薄らいだような気がした。
「あんなところで待っていなくたって良かったのに」
銀色の自転車をつく早坂さんは、隣を歩く私に笑いかけてそう言った。
来たのと全く同じ道を歩いているというのに、どうしてこんなに景色が違って見えるんだろう。早坂さんが私のすぐ近くにいるというだけで。
「今日、寒かったでしょ。今年はあったかいって言うけど、全然そんなことないよね」
「うん。寒かった。……寒くて仕方なかったよ。今日だけじゃなくて、昨日も一昨日もその前からずっと。寒くて凍えて死にそうだった」
早坂さんの手首を掴むのには、かなり勇気が必要だったけど、そうしない訳にはいかなかったから。自転車のブレーキをかけた早坂さんは私をじっと見つめて、「どうして」とゆっくり訊ねた。張り詰めた静寂の中に、私たちの呼吸する音がするすると溶けていく。
「私は、ここに来るのが怖かった。早坂さんが私に差し出してくれた手をとるのが怖かった。それは、今までの自分を否定するのと同じことだから。今までの自分を変えるってことだから」
側を横切る自動車のライトの光が早坂さんの真剣な横顔を一瞬だけ照らす。
早坂さんが黙ったまま私の声を聞いているのが分かったから、安心してつづきを話すことができた。
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