第31話
エレベーターを降りると、せわしない様子の看護師は動きを止めて私とゆりかを交互に見やった。どうやら私たちが居なくなったということで、病院内は大騒ぎになっていたらしく、医師や看護師にこっぴどく叱られる羽目になった。
事情を尋ねられたが、勿論真実は胸の中に封じ込めて、適当に見繕った嘘をぬけぬけと話してやった。本当のことなんて、私とあなたが知っていればそれでいいのだと思った。
解放された時には既に消灯時間を優に越していた。私は痛み止めを飲んで再び横になったゆりかを残して病室を出ようとしたが、ふと歩みを止めた。あることが気にかかっていたからだった。
そんな私を見て、ゆりかは「心配しなくても大丈夫だよ」と笑った。つきものが落ちたかように明るい笑顔だった。
「何度も嘘ついたけど、今度こそ信じて。約束する」
「分かった」
「本当にそうしたくなったら、きえちゃんにメールするから」
「うん」
「だからそれまでは、もう会わないでいようね」
「…」
沈黙する私をじっと見つめて、「私がそうしたいって言う意味、きえちゃんなら分かるよね」と言う少女は今まで見た中でいちばん大人っぽい表情をしていた。
病室の扉を閉じるという簡単な行為は、ひどく苦しくて、つらい作業に思えた。少しだけ残された隙間を埋めたとき、助けを求めるようにゆりかの小さな手のひらがこちらに向けられた。踵を返した瞬間、時限爆弾が爆発するように大声をあげて泣き始めたゆりかを見捨て、清潔な匂いのする廊下を歩いていく。身を切られるような感傷が胸を襲ったけれど、歩みを止めることはできなかった。
普段よりずっと遅い時間だったにも関わらず、自宅の街灯は白く光ったままだった。案の定、玄関に足を踏み入れるとお母さんが駆けてきた。パタパタとスリッパの軽い音をさせながら。私の顔を見ると安堵して、「心配、したのよ」とかすれた声でつぶやいた。
「ねえ、お母さん」
油揚と小松菜のおひたしをレンジにかけている見慣れたお母さんの小さな背中に声をかける。
「私、今日、とっても大事なことに気づいたんだよ。どんなに似てたって、人間ひとりひとりは全然違うってこと。考えていることも、感じていることも」
「…難しくて、お母さん、良くわからないわ」
ゆっくりと首を振って、続ける。分からないなら何度だって、繰り返して伝えればいいだけ。通じ合わないなら何度だって、頭を捻って考えればいいだけ。私とお母さんの失敗はたぶん、自分の殻に閉じこもりつづけて、相手の存在を無視していたことだから。
お母さんの瞳をまっすぐに見て、彼女の心に届くように語りかける。
「私、お母さんのこと、ちゃんと見るから。だから、お母さんも、私のこと、ちゃんと見てほしいの」
私たちは何度だって間違えてしまうけど、間違えたら、何度だってやり直せばいい。ぎこちなく頷くお母さんを、私はそのとき、許そうと決めたのかも知れなかった。
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