第30話


 聞き間違いかと思ったけれど、違った。ゆりかは私の手をゆっくりと振りほどいた。


「ここから、私から、逃げて。全力で。私が追いかけられないくらい、どこまでも遠くへ走って逃げるの」

「でも」

「いいの。もう二度と、振り返っちゃダメだよ。私の知らないところで、私の知らない人と、幸せになるの」

「どうして?…どうして、そんなこと言うの?」

「わかんない。わかんないけど。きえちゃんがいなくなったあと、絶対、めちゃくちゃ後悔するんだろうけど」


 ゆりかはしわくちゃの泣き笑いのような顔を私に向けた。


「だって、しょうがないじゃん。きえちゃんって、本当に、ばかなんだもん。きえちゃんは殺せない。きえちゃんは壊せない。私はきえちゃんと一緒になれない。好きになっちゃった、私の負けだよ」


 心が水風船なら、とっくに破裂して、びりびりに破れていると思った。

 私はゆりかを見捨てて今度こそ逃げ出そうとした。けれどできなかった。私には何にもできなかった。私は無力な女子高生のひとりだった。その場に立ち尽くし、ぽろぽろと涙を零し続けるゆりかの澄んだ目を見返すだけの私に、彼女は優しく微笑みかけてくれた。


「私、生まれて始めてだよ。自分よりも、自分以外の人間の幸せ、願うなんてさ」


 私はゆりかの手を取った。ゆりかは確かにまだ、生きていた。私より温度の高い手のひらには一人の人間の呼吸を止めまいと、懸命に血液が流れつづけていた。私たちの意思とは別に、細胞は今も尚、私たちを1分1秒まで長くこの世界に留めようとするために、変わらず働きつづけていた。


 「死ぬのは怖いから、一緒には死ねない」

 「だけど私はあなたと一緒に、生きていくことならできるかもしれない」


 その本心を口にするまでに、一体どれだけの時間を有したのだろう。初めからこうすればよかったのかもしれない。早坂さんが私にそうしてくれたように、えりかにも、同じように、自分の右手を差し出せばよかったのかもしれない。

 —生きるのも死ぬのも怖いから、一緒に生きよう。あなたと私、運命は違っても、一緒にこの地獄の中を生きていきたいの。


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