第29話
屋上にいるのは、車椅子に乗ったゆりかと私、たったふたりだけだった。だから、誰にも邪魔されることなく、私たちはこの世界から消滅することができた。先ほどとは打って変って、ゆりかは落ち着き払っているように見えた。
私は履いていたローファーを、ゆりかはスリッパを脱いで、ふたつ揃えてコンクリートの地面に置いた。金網をよじ登るのは少し難しくて手こずった。時間をかけてフェンスの向こう岸にたどり着いた頃には、太陽が地平線に沈みかけているところだった。
「きえちゃん」
「何」
「何でもない、呼んでみただけ」
ゆりかの顔は私の方を向いているのに、ゆりかの目は何処も見てはいなかった。
「きえちゃん。それ、何。ポケットの中、カラカラ音がしてる」
「…ドロップ缶」
「随分レトロなのね。もしかして早坂さんにもらったの?」
何も答えなかったけれど、ゆりかはそれを肯定の意と受け取ったようだった。下駄が地面を転がるように楽しそうな音を喉から漏らしてカラカラと笑った。
薪が燃えているような夕焼けを目に焼き付けながら、私は早坂さんのことを考えていた。私がいなくなった世界でこれからも生き続けるであろう彼女のことを。偶然の重なり合いによって、一瞬だけすれ違った大きな背中を思い浮かべる。
もっと早く彼女に出会っていたなら。早坂さんと私は、友達になることができただろうか。幾つものもしもを夢想して、だけどそれでも、ゆりかとつないだ右手は離さなかった。
「ゆりか、生まれ変わったらきえちゃんになりたいな。早坂さんでもいい。仲良くなって、一緒にいろんなところに行くの。遊園地とか、雑貨屋さんとか、美味しいクレープのお店とか」
ゆりかの寂しそうなつぶやきをかきけすような風の轟音。下に広がる住宅街はミニチュア模型みたいに小さくて、その距離の遠さを思うと軽くめまいがしそうになる。平然としているゆりかとは反対に、私は怖くてたまらなくて、「そろそろ行こうか」と立ち上がろうとしたゆりかの手を、思わず引いてしまう。覚悟は当にできたと思っていたはずなのに、この後に及んでもまだ、死ぬことが怖くてたまらない。
あれほど望んでいた「消滅」が近づくにつれて、死への恐怖と生への執着が風船みたいに大きく膨らんでいく。えりかやゆりかがあっさりと自分の身を空に投げたことが、私には信じられなかった。
そんな私の弱くて情けない部分を、ゆりかは見透かしていたのだと思う。
どれだけの間そうしていたことだろう。立ちすくんで固まる私の手を、ゆりかは遂に引かなかった。額に浮かぶ冷たい汗を拭っていると、風の音に消されてしまうくらいの小さな声が隣から聞こえた。
「きえちゃん。逃げていいよ」
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