第25話
「おかえりなさい」
リビングに入ると、お母さんがぎこちなく微笑んだ。暫くまともな会話を避けてきたから、当然かもしれない。少し迷ってからテーブルに腰掛けると、驚いた表情が返ってきた。
ご飯あっためようか、と労るように聞かれたが首を振る。
「自分でやるから、いい」
「そう」
ラップをかけたハンバーグの皿をレンジであたためる。虫の羽音のような電子音が私とお母さんの間に漂う気まずさの色を一層濃くしていた。ちらちらとこちらを気にするような目線が気になって、幼虫の卵の形をした白米の味がよく分からない。
「ねえ、きえちゃん。最近、どう?」
「別に、変わりないよ。ふつう」
「ふつうって、何?」
「何って…」
お母さんの顔を見た途端、今まで過ごしてきた日々が走馬灯のように巡った。こみ上げる吐き気を冷水で押し戻す。どうしてこの人は、自分のお腹から生まれたからと言って、異なる個体の全てを所有したいと願うのだろう。骨、血液、細胞のひとつひとつさえも、私とあなたは違うのに。
子どもの頃は大好きだったはずのデミグラスソースの味に胃がむかむかして箸を置くと、お母さんは無理につくったような笑顔を私に向けた。
「そうだ。お母さんね、昨日スーパーで買ってきたものがあるの」
ダイニングテーブルの上に置かれたスーパーの袋の中には、様々な種類の飴の袋が詰まっていた。色とりどりの砂糖のかたまりを見て何も言えないでいる私に、お母さんは「これ、きえちゃんの為に買ってきたのよ。飴、好きなんでしょう」と遠慮がちに口にした。
「私、そんなこと言ってないよ」
思いの外大きい声が出て、自分の苛立ちに初めて気づかされる。それからは止まらなかった。感情の高ぶりを全て声に変えるまで、心のうねりがおさまらない。
部屋を覗いていることにも、引き出しの中の日記を盗み見ていることにも、ネットの検索履歴を確かめられていることにも気づいていた。だからこそ、鍵付きの引き出しの中に隠しておいたドロップ缶を見つけられたことを許せないと感じた。お母さんは監視カメラと同じ。この家の何処に居たって心が休まる瞬間など訪れない。この人は昔からそう。私はおもちゃの家に飾られた感情のない人形と同じ。
飴玉の入った袋を一瞥し投げつけると、彼女はおおげさに傷ついたような顔をして私を見た。ぐしゃりと袋が潰れる音がした。散らばったパッケージを見つめる。
「これじゃない。私が好きなの、これじゃない」
ハッカ味じゃないとダメなんだ。早坂さんが嫌いなハッカ味じゃないと。
それをこの人に言っても無駄なんだろうなということが、そのときはっきりと分かった。言葉が通じない。私の考えていることは、どんなに言葉を尽くしたとしても、この人の心には決して届かない。
二階へ向かう階段を上がっていると、「待って」というお母さんの声が背後から飛んできた。
「買ってくるから。きえが欲しいもの、買ってくるから。だから…」
だから、なんだというんだろう。
後に続けようとした言葉のおかしさに自分でも気づいたのか、お母さんはそれきり口をつぐんで私を見つめた。いつの間にか私は、実際の身長よりも大きく感じていたふくよかな体型のお母さんの背をゆうに越していた。
何も言わずに部屋の扉を閉めると、階下からすすり泣く声が聞こえた。私は最後まで、お母さんを悲しませてばかりいる出来損ないだった。
さようなら。そう心の中で告げてから、ベッドの上で目を閉じる。
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