第16話


 壊す、という物騒な言葉に身構えると、ゆりかは私の頭を掴んで手すりの外へと思い切り押し倒した。髪の毛が指に絡みつき、ぷちぷちと根元から切れる音が耳に響いた。さっきまでの景色が逆に回転して見えて、心臓が小さく縮まった。見開いた瞳からこぼれ落ちた涙が、こめかみから真下の花壇へと落ちていくのが見えた

 私の頭を押さえつけるゆりかの力が弱まったかと思うと、急に冷たいコンクリートに身体を投げ飛ばされる。制服に結ばれたタイを握りしめ、ゆりかは自分の唇を私の唇に押し当てた。何が起こったのか分からないでいると、耳元で静かに囁かれた。


「死ぬなんて許さないよ。これからもずっと、きえちゃんはゆりかのおもちゃなんだから」


 ゆりかはそう言ってにやにやと気持ち悪く笑った。ゆりかが去って暫くたっても、私は身体を起こせないでいた。ゆりかの唇の感触がまだ残っているような気がして、手の甲でごしごしと擦る。

 ぽつりと、頬に何かが当たる感触がして目をつぶった。触れると水のつぶれる感触がした。お母さんが「今日は雨だから傘を持って行きなさい」と言っていたことを思い出しながら、これ以上泣かないように上を向く。

 次第に強まってきた雨に打たれ、重くなった制服の生地が肌に吸い付いていく。目の中に水が入り込むことも気にせずに、瞼を開けたまま鼠色の空を見上げていた。


 鋭く光る雷が曇り空を切り裂いた瞬間、何もかもが面倒くさくていやになった。

 屋上から飛び降りたえりかの夢を見ること。頭のわるいクラスメイトのひそひそ声。プリーツスカートの赤いしみ。カッターナイフで切り裂かれた教科書。買い換えた日に落書きされた上履き。画鋲の貼り付けられた椅子。私のことを心配する演技の上手なお母さん。ゆりかの楽しそうな笑顔。ゆりかの意地悪な声。私に対するゆりかの執着。

 二度目の光の三秒後に雷鳴が大きく轟いた。私を追い詰めるすべてのものから逃げ出そうと決めた。


 傘もささずに校庭を歩いていると、「ちょっと待ちなさい」と私を呼び止める聞き覚えのある声がした。振り返ると担任の先生が遠ざかる私を手招きしていた。窓ガラスから女の子たちが面白そうにこちらを伺っている様子が見えてうんざりとする。

 何も答えずに前へ向き直ると、校門からこちらに歩いてきている長身長髪の少女の存在に初めて気づいた。それは随分長い間授業を欠席していた早坂めぐみだった。自分が雨に濡れるのも気にせずに、早坂さんは私に向かってぐいと傘を差し出してきた。大粒の雨に濡れて、早坂さんのカッターシャツがたちまちグレーに染まっていく。

 「私は大丈夫だから」と突き返すように傘の柄を押すと、早坂さんは「どうしたの。何かあった」と言いながら私を傘の中に収めてくれた。

 早坂さんと話すのは初めてみたいなものだった。昼休みの中庭で一度会話をしただけで、後は目が合うことすらなかったはずなのに、早坂さんはどうしてか、私に親切にしてくれている。


 そのことが、たったそれだけのことが、世界中が敵に見えていた私にとって信じられないくらい嬉しかった。腫れぼったい瞼が再び熱をもったと思うと、早坂さんの大人っぽくてきれいな顔が二重に歪む。

 早坂さんは校庭の真ん中で泣きじゃぐっている私に何も尋ねなかった。私の肩を抱くと、来ていた方向とは逆の向きへにゆっくりと歩いて行った。濡れた肌に早坂さんの手のひらの熱が沁みるようにあたたかかった。


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